我恋歌、君へ。(わがこいうた、きみへ。)

郁一

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第三章

我恋歌、君へ。第三部:18 臆病な告白

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 撮影スタジオからの帰り道、新マネージャー相川さんの運転する車に一同が乗り込んだ。
「あいつら、半日撮影してたってのに、なんだってああも元気なんだ」
「それがオレたちだからね」
 相川さんは後部座席でトランプゲームをして盛り上がる八代さん、文月さん、神音をバックミラーで確認して、盛大な舌打ちをする。
 助手席でやんわりと宥めているアレンさんの声を遠くに聞きながら、俺は神音の隣でスマフォと向き合っていた。
(う~ん……)
 無料でメッセージが送信できるアプリを起動したままのスマフォ画面を睨みつけ、撮影の隙間を見つけては気持ちを書こうとしてみたものの、半日かけて入力できたのは助けに来てくれてありがとうのみ。
 考えていることを全部書こうとすると、だんだん何が言いたいのかわからなくなって、支離滅裂な文章になってしまう。
 読み返してはこれじゃ駄目だ、と消してはまた書き、消して……今に至っている。
(相川さんが言う通り、事件のこと気にしてるのかな……捨てられたって感覚がどうにも抜けきらないことも理由だと思うけど……)
 はっきりとは思い出せないけど、海外で知らない男にいたずらされた時、突然の物音に驚いて男は俺をゴミ箱に捨てた。
 深さがあって、ふたも重くて幼い俺では開くことが出来ず、腐臭はする上に暗くて、見つけられるまでの恐怖心が出来事を忘れても無意識の中に焦げ付いた。
 続いて指を折られる事件と、その後祖母の言いつけを守ってベッドから離れられない間に感じた、世界からひとり切り離された感覚も重なって。
 母の顔色を伺い、態度の冷たさに気付かないふりを続けた年月も追い打ちをかけ、自分を押し殺すことが当たり前になった。
 神音に誘われて歌うようになってから俺が一番苦労した部分はそこで、今も完全に払拭できたわけじゃない。
(海外へ行って、ダンスしたり歌手と競ったりしても、俺の中でふたつの思いがせめぎあってた。歌いたい、もっと表現したいと思う俺と、こんなことしていいのか、また叱られたりしないだろうか……って)
 不安がる心を見ないふりをして、デビューしてからを走り抜けたけど、まるで罰のように恐れていたことが現実となって、今回の事件に巻き込まれてしまった。
 相川さんは俺があの時にされていたことを気にして声が出せなくなっているのでは、と推測していたけれど少し違う気がする。
(……薬のせいで見た、あの変な夢と落ちていく暗闇が……今も怖いんだと思う)
 教室で佇む樫部に助けを求め、伸ばした手が空しく宙をかいて、底なしの闇へ落ちて行った時の感覚を思い出すと、体が震えて嫌な汗が噴き出してくる。
 車内は人が多いし、寒くないはずなのに悪寒がして手足が冷たくなった。
 息苦しさを感じて、大きく息を吸い込みながら楽しそうな神音たちの姿を眺める。
「へへ、今度こそおれが勝ちやな」
「まだ決まってないだろっ」
「ヤッシーが勝ちを早とちりする時ほど、結果が伴いませんよね」
 ひとり冷静な突っ込みをする文月さんが一番多く手札を持っている。八代さんは残り数枚で、神音も似たり寄ったりな状態だ。
 う~ん、と唸りながら神音が手札を睨みつけて、次の手を熟考している。
(大丈夫。ここは……あそこじゃない)
 自分に言い聞かせ、乱れる呼吸を整えようと深呼吸する。
 不意に鑑賞会の夜、眠るまで一晩中抱きかかえてくれた温もりを思い出す。
(……手を伸ばしても、いいのかな……)
 ようやく俺自身が抱えている不安の正体に突きあたり、思わず息を止める。
(あぁ……そうか、やっぱり気にしてるんだ。助けられた時のことはっきり覚えてないけど、俺の姿をアレンさんは見た。今も好きでいてくれるか自信がなくて、もし拒絶されたらと考えたら……アレンさんに見離されたら、きっと暗闇に落ちて戻れなくなりそうだから、俺は怖くて仕方がないんだ)
 顔を上げて、助手席にいるアレンさんの後ろ姿を見る。
 しっかり立っていたいと思っているのに、何度も情けない姿を見せてしまって、それでも笑いかけてくれた人だけど、人の心が温度を失ってしまえばどれだけ残忍になれるかを体験してきたからこそ怯えてしまう。
(もう失いたくない……)
 がたん、と大きく車体が揺れて思考が中断した。
 運転席で相川さんが文句を言っている。どうやら道路が工事中らしく、それからもゆらゆらと車体が振られる。
 神音たちもカードゲームに熱中しながら、ゆらゆら揺られていた。
 あらためて手元のスマフォを見下ろし、形になりつつある気持ちを文字に変えて入力していく。
『鑑賞会の夜、付き添ってくれてありがとうございました。神音と一緒にいる時も安心できますけど、アレンさんがそばにいてくれる時はもっと違う感じがします……上手く表現できなくてすみません。ただアレンさんに触れられるとほっとしてうれしくもなって……変な感じになるけど、ずっとそばにいて欲しい。一緒にいたいと思うんです』
 がた、ともうひとつ大きな揺れを感じたところで、入力を中断して文章を読み返す。
 正直な気持ちを書いていると、恥ずかしすぎて居たたまれない心地になってくる。
 まるで苦行に耐えるかのように、唇を噛みしめ羞恥心と格闘しながら入力を続ける。
『好きだと言ってもらえて、とてもうれしかった。ただ俺でいいのか不安で、自信が持てなくて、今もそれは変わらないけれど……こんな俺でもよければ……』
 そこまで入力したところで、ついに心が折れた。
(も、もうこれ以上書けない……)
 あまりの恥ずかしさに脳内が焼け焦げたようで、その先を入力することがどうしてもできなかった。
 顔を手で覆い、深くため息をつく。
 伝えたい、手を伸ばしたい。
 そう思うのと同じ強さで、怖いと心が叫ぶ。
 ここで逃げても何も問題は解決しない。
 いくら好きだと言ってくれた人でも、ずっと答えないままでいたら、やがて去ってしまうだろう。
 拒まれるかもしれなくても、ちゃんと気持ちは伝えるべきなんだとわかっている。
(……でも怖くてたまらない……)
 日常の中では忘れたつもりでいたけれど母から受けた仕打ちは、自覚している以上に傷を残しているらしい。
 母が俺を見る時の目を思い出すと呼吸が苦しくなるのに、一度思い出してしまうとなかなか払拭できない。
(同じ目を向けられたら……もう、立ち直れない)
 伝えたいことはただ一言なのに、だらだらと長い文章になってしまったのは、迷いの表れだ。
 誰よりも好きだからこそ、誰よりも恐ろしい。
(……ごめんなさい、やっぱりもう少し時間を下さい……)
 文章を削除するボタンへ、指を伸ばした時だ。
「やった、奇跡の大逆転っ! ぼくのひとり勝ちっ♪ 見たか、ヤッシーっ!」
 神音が両手をばっと勢い良く上げて、狂喜の声を上げた。その体が俺に当たる。
 指が目標から逸れて、メッセージ送信部分に触れてしまう。
(……あっ……)
 軽快な音がして削除するつもりのメッセージが送信されてしまった。
「わっ……響ごめん。痛かった? え、どうしたの……ぼく、そんなに強く当たった?」
 スマフォを見つめたまま、フルフル震える俺を振り返り、神音がおそるおそる聞いてくる。
 送信済みメッセージの横に、既読が表示された瞬間、俺の思考回路が停止する。
(読まれたぁーっ!)
 無意識のまま指が動いて文字を入力し、神音に画面を向ける。
『思いついて書きとめていた歌詞が消えた』
「……えっと、ごめんね」
 スマフォに表示された文字を読み上げた神音が、てへっ、と笑ってごまかそうとした。
「あぁーっ! 神音、そりゃあかんで!」
「重罪人です。これは然るべき罰を受けるべきでしょう」
「せやな。賛成やで……では、厳粛に罰を受けよっ」
 八代さんと文月さんが神音に飛びかかる。
「ぎゃーっ! 助けて、響~っ!」
 ふたりに寄ってたかってくすぐられ、笑い転げる神音が息も絶え絶えに手を伸ばしてくる。
「てめぇら、いい加減にしろ! 運転中にぎゃあぎゃあ騒ぐなっ!」
 ついにキレた相川さんが怒鳴る中、まぁまぁと宥めるアレンさんの声が聞こえる。
 俺は慌ててスマフォの電源を落とした。
 もしアレンさんから何らかの返信があったとしたら。まだ俺は向かい合える気がしない。
 今は何も気付かないふりをしていたかった。
(く、苦しい……っ)
 全力疾走した直後みたいに息が乱れ、心臓がめちゃくちゃに鳴り響いている。
 最悪の状況と、もしかしたらを期待する心が一瞬ごとに入れ替わって、激しく心をかき乱してくれるから、体もつられて反応しているのだ。
 まだ騒ぎ続けるメンバーたちを余所に、俺はひとり頭を抱えた。


 自宅に帰ってからも、翌朝起床した後もスマフォの電源を入れる勇気が出なかった。
 もし仮に昨夜送った文章への返信があったとしたらと考えると、スマフォを見ただけで動悸が激しくなり息苦しくなってくるほどだ。
(いい加減にうんざりしたよ、とか言われるかも……むしろ返信がないかも。返事をするのも嫌になったかも。うわぁ、今日また仕事場で会うんだよな……行きたくない~)
 ずっと電源を入れないままではいられない。
 声が出ないなりにするべき細かな仕事はあって、連絡事項があればスマフォに届くはずだから。
(電源を入れるべきか、いや……まだ無理)
 ぐるぐると頭の中でひとり相撲をくり広げ、結局出掛ける時間になってしまう。
 昨日撮り終えることが出来なかった学生エキストラを交えない場面の撮影へ向かう。
 もちろん現場にはアレンさんもいるのだけれど、出来る限り会わないようにした。
「どうしたの、何か挙動不審だよ、響?」
 神音にまとわりついて、アレンさんと一対一にならないよう必死だった俺へ、神音も我慢が切れたらしく理由を聞いてくるので、とりあえずひとりになりたくないのだと伝えて誤魔化した。
(う~……疲れたぁ……)
 予定していた撮影をすべて終えて、帰宅する頃にはただ事じゃないほどの疲労感を覚え、深くため息をついた。
 神音の背後に隠れたり、文月さんや八代さんを引っ張って別室へ逃れたり、とにかくひとりになることを回避し続け、アレンさんとも目を合わせないようにするのは予想以上に辛かった。
(はぁ~……いつまでもこんなんじゃダメだってわかっているんだけど……)
 一日中、アレンさんが話しかけたい様子だったのがわかっているからこそ、疲労感が増している。
 誰かを意図的に避けると言うのは、あまり褒められたことではないとわかっていても、アレンさんと向き合う勇気が出てこない。
(弱虫め……)
 自室のベッドに寝転がって天井を見上げ、息を長く吐き出し自分自身を嘲笑う。
 本音に一度気付いてしまえば、もうどんな言い訳をしても、その事実をごまかせない。
(だからこそ、怖いんだよ)
 母と同じように拒絶されたら。
 伸ばした手を振り払われてしまったら。
 ころん、と寝返りを打ってベッドサイドを見る。
 神音はすでに自分の部屋に戻って眠っているのだろうか、物音ひとつしない。
 今夜は月が出ていないらしい。
 灯りのない部屋が暗いせいで、ベッドサイドの時計が明るく表示させている数字が、よりくっきりと浮かび上がっているように見えた。
(……きっと、もう寝てしまったはず)
 真夜中を過ぎた頃、意を決してスマフォを手探りで持ち上げ、電源を入れた。
 もし決別を匂わせる返信が届いていたとしても、朝までにはきっと立ち直ってみせるから。確かめるなら今しかないと思った。
 再起動するわずかな時間でさえ、心臓が胸を破り外へ飛び出しそうだった。
 手にじっとりと汗をかく。
 間もなく明るくなったスマフォの画面に、新着メッセージが数件表示された。
 ひとつは神音から、二通は仕事関係。そして最後が。
 突然スマフォが震え、俺は驚きのあまりスマフォを取り落としそうになった。
『……響くん?』
 ところ構わずスマフォを握り直したら、たまたま着信ボタンを押してしまったらしい。
 相手も確認せず通話をつないでしまったことに気付いたのは、穏やかな声が聞こえてきた後だった。
(……よ、よりにもよってアレンさんからなんて)
 震える手でスマフォを持ち直し、軽く息を吐き出して耳に当てる。
『ごめんね、夜遅くに。声が聞けないってわかっていても電話したくて……眠っていたなら邪魔をしてごめん』
 俺が話せないとわかっていても電話をかけてきたアレンさんは、少しだけ迷いを感じさせる声音で話を続けた。
『……メッセージをありがとうね。返信をしようと思ったんだけど、それよりも直接声で伝えたくて……つながらないかもと思って電話してみたら、こうしてつながってしまって、オレも少し動揺しているよ』
 迷ったまま苦笑を忍ばせるアレンさんの声音が耳を優しく揺らす。
『……響くんは何も言わなくていい。今度はオレからのメッセージを聞いていて欲しい。いいかな?』
 そこでアレンさんの声が途切れ、俺が通話を切るかどうか試すような間が生まれる。
『嫌になったら、途中で通話を切ってくれて構わないからね……』
 アレンさんの声が途切れ、静寂が続く。
(う、わ……息が止まりそうだ……)
 メッセージを誤送信してしまった直後よりも、爆音を立てて心臓が暴れて、息が浅くなっている。
 聞きたくないと言うのが本音なのに、手はぴくりとも動かせなかった。
 まるで体が聞け、と命令しているみたいに。
 通話の向こう側で、今アレンさんがどんな表情をしているのだろう、と不意にどうしようもないことが気になった。
 俺はもぞもぞと体を起こし、ベッドの上で正座へ座りなおした。
 何となく、ちゃんと聞かないとと思ったから。
『……響くんも知っての通り。オレは異性へ興味を抱けない性質だから、ずっと家族に対して罪悪感があったの。引け目と言うかな……もちろん両親や兄はそんなこと気にしない人たちだとわかっていたけど。孫や甥または姪を見せてあげられないことは、オレにとっては家族への酷い裏切りのように思えたんだよ』
 淡々と語るアレンさんの声の裏側に、苦悩が透けて見えるような気がした。
『オレはあの人たちに愛される資格はない。だから……須賀原さんたちのバンドに加わってからは、せめて彼らやファンから愛されるに足る存在になろうと無我夢中で練習を重ねた。必死だったんだ、オレなりに……他のメンバーとは違った意味であっても』
 そんな中で須賀原は勘違いから怪我を追い、バンドは解散してしまう。
『勝手な言い分かもしれないけれど、響くんと初めて会った時ね。昔のオレに似ているなと思ったんだよ』
 家族へ負い目を感じ、距離を置いていたと言うアレンさん。
 母親の顔色を伺い、家族を壊さないように振る舞おうとしていた俺。
(確かに同病相哀れむって感じかも)
 しばらく間を置いて、当時を思い出していたかのようにアレンさんが、くすっと小さく笑った。
『でも響くんはオレより強いね。高校生だった響くんがうちへ避難していた頃、迷惑をかけているって恐縮していたけれど、本当はオレの方が救われていたんだよ。父さんとの距離が響くんのおかげでずいぶんと縮まったんだ……イギリスで母さんや兄さんと会った時もそう。響くんがいなかったらまともに話せていたかどうか……』
 思いもよらなかったアレンさんの弱み。
 完璧に何でもこなせる人だと思っていたし、温かい家族だと思っていたけれど、いろんな問題を乗り越えたからこそ手に入れることが出来た温かさだったのかもしれない。
『オレがだれかを好きになっても、その人を幸せにすることができない……だから想いを打ち明けることができなかったのに、響くんだけは違った。不幸にしてしまうことはわかっているのに、求めることをやめられなかった……ごめんね』
 謝らないで欲しいと伝えたかったけれど、動かした口から声は出ないまま。
『……オレが手を伸ばしたら、響くんの未来を奪ってしまう。美しいお嫁さんも、可愛い子どもたちも、温かい家庭も響くんから奪ってしまう。わかっているのに、オレは望んでしまうんだ……ふたりで歩む人生を』
 唐突にアレンさんの声が途切れ、何かを耐えるような沈黙が続く。
『今夜は話を聞いてもらうだけにしようと思っていたのに。やっぱり……会いたいよ。声が聞けなくてもいい、響くんの近くに行きたい。今どんな顔をしているのか、すぐそばで見ていたい』
 堪え切れなくなったように、揺れるアレンさんの声が切なく響いてくる。
『ずっと一緒にいたいと伝えてくれてうれしかった……オレの方こそ、響くんのそばにいたい。響くんが好き』
 会いたい、と最後は掠れて言葉にならないほど押し殺された声が、けれどしっかりと耳に届いた。
 俺の胸がだれかに掴まれたように痛む。

 今まで俺は何度もアレンさんに助けられ、温かい気持ちを受け取ってきた。
 だけど俺は何をアレンさんに返せただろう。
 何が出来るのかはわからないけど、今アレンさんが望んでいることを叶えることはきっとできるから。

 迷ったのは一瞬だけ。
 通話を切り、簡潔にメッセージをアレンさんへ送信した。
『俺も、会いたいです』
 アレンさんもすぐにメッセージに気付いたようで間もなく返信された。
『外で待っていて。すぐに行きます』
メッセージを確認してから身支度を整えてリビングへ向かう。
(神音に書き置きしておいた方がいいかな)
 時間が時間だけに、もし起き出して俺がいないことに気付いた神音が心配しないよう、念のためにメモ用紙に書き置きして、玄関を開けた。
 真夜中をすぎてマンションは寝静まり、重い静寂に包まれている。
 夏が終わり冷気を増した外の空気を出来るだけ揺らさないように、慎重に扉を閉めてカギをかける。
 足音を押し殺し、エレベーターで一階へ降りると、だれもいない路上で立ち尽くす。
(何やってんのかな……)
人と会うには不向きな時間に待っていることが、急に可笑しく思えて心の中でひっそりと笑う。
今までしたことのない体験に、そわそわして落ち着けない。
(もうちょっと気のきいた言葉を使うべきだったかな……作詞をしているくせに)
 アレンさんに送ったメッセージを思い出しては、愛想も何もなかったと反省をする。
 常夜灯に照らされてそれなりに明るいマンションの前に立ち、待つこと数分。
 タイヤがアスファルトを擦る音が聞こえ、エンジン音と共に見なれた車が近づいてくる。
 間違えることなく俺の目の前で止まった車内から、待っていた相手が顔を覗かせる。
 助手席へ乗り込むと、全身にまとわりついていた冷気ごと、やにわに抱き包まれた。
「ありがとう……浚いに来ました、お姫様」
 お姫様は余計だ、と腕を軽くつねってみせると、苦笑しながら体が離れていく。
 今夜は束ねていない金髪が肩を撫で、街路灯を鈍く反射する。
「少し走ろうか」
 さすがにマンションの前でいつまでも停まっているのは目立つだろうから、とアレンさんが車を走らせはじめる。
 流れていく車窓の景色は昼間と同じ、ただ闇夜に染まっているだけなのに、まるで別世界にいるようだった。
 こんな夜遅くに外を走るのは仕事の時くらいで、仕事でもないのにこうしていることが非現実的で夢でも見ているような心地だ。
(これを望んだのが俺だってことも、変な感じがする)
ふと、見覚えのある景色の中を走っていることに気いた。
 運転するアレンさんを振り返ると、視界の隅で俺が何かを言いたそうにしていることを確認したらしく、少しだけ笑って頷いた。
「懐かしい場所だよ」
 ゆるやかに蛇行をくり返し、やがてアレンさんが車を停めた場所は、高校時代にトレーニングとして何度も一緒に走ってきた見晴らしのいい場所だった。
 少し離れた場所に何台か、他にも車が停まっている。やっぱりデートに使われる定番の夜景スポットなんだろう。
 もちろん暗いから車内で何をしているのかが見えるわけじゃない。きっと他から俺たちのことも見えないはずだ。
(いや、見えて困ることをするつもりじゃないんだけど)
 何を考えているんだ、と自分自身の思考に突っ込みを入れつつ、目の前に広がる街の明かりを見ていたら、不意に横から腕が伸びてきた。
 肩を引き寄せられ、近づいた距離の向こうからアレンさんがじっと俺を見ている。
 ここにきて俺の頭が冷静さを取り戻したらしく、現状を把握して血のめぐりが逆流したように顔や頭が熱くなってきた。
(や、やばくないですか、俺……ずっとそばにいて欲しいとか文章を書いたのは冗談なんですよ~なんて……撤回は無効ですよね?)
 かつて好きだと告白してきた相手から会いたいと言われて、自分も会いたいと答えた相手と、どんな顔をして向き合えばいいのかわからない。
 鈍感な俺でも、今この状況で向かい合う相手が、ただのオトモダチでもお仲間でもないってことぐらいはわかる。
(ど、どどどうしよう~。どしたらいいの、笑えばいいのか、何か言うべきなのか、うわぁ~わけがわからなくなってきた!)
 ひとりパニックを起こして、ぐるぐる頭の中で悲鳴を上げていたら、アレンさんがくすくすと笑いだした。
「響くん……表情が可愛すぎる……」
 可愛いと言われて喜ぶわけがない。
アレンさんの腕をバシバシ叩いて抗議すると、ごめんと言いながらもアレンさんが笑い続けている。
(何だよ……ったく)
 外に出てやろうかとも思ったけど、アレンさんの腕が離れないし、離されることを想像したら何となく寂しい気もして、不貞腐れたまま夜景を見ることで気を紛らわせる。
 数えるのも気が遠くなるほど輝く人工の星の中で、どれだけの人たちが安らかな眠りを楽しんでいるのだろう。
 ゆったりと流れる沈黙が心地いい空間で、アレンさんの体温や気配を感じながらそんなことを考えた。
 あの中にいるすべての人たちが幸福なはずもない。きっと今も、傷ついて絶望している人たちがいる。
 その手を握り、助けてくれる人がいるだろうか。
「……響くん?」
 何となく肌寒い心地になったから、アレンさんの手を取り、自分の手を重ねた。
 まだ完治していない手に、アレンさんがもう片方の手を重ねる。
 そのまま何も言わずに、肩を寄せ合ったまま車窓から夜景を眺める。
 俺を助けてくれた人はここにいる。
 俺がそばにいて欲しい人で、そばにいたい人でもあって。
 この気持ちは神音に対して抱いている気持ちとは違う。
 父親とも、初恋相手の樫部とも微妙に違う気がする。
(……愛、してる……のかな?)
 まだ断言できないけど、この人を幸せにしたいと思う。
 他のだれかでも幸せにできるかもしれない。
 だけど、だれかじゃなく俺がしたい。
 樫部の時は自然と手放すことが出来たけど、アレンさんを他のだれかに譲ることは絶対にできない。
 依存していると言われるかもしれない。
 いつか捨てられる日が来るかもしれない。
(それまででいいから……)
 目を閉じるとアレンさんの手が離れ、俺の頬に触れた。
 何となく呼ばれた気がしてアレンさんを見上げると、いつもより深く微笑んでいた。
 少しずつ顔が近づいてくる。
 吐息が触れるほど近づいたところで、俺の様子を伺うようなためらう気配がした。
(……怖がっていると思っているのかな……)
 このまま離れてしまうのは寂しくて、アレンさんにより近くへ体を寄せると、かすかに笑ったようだった。
 悪夢のような記憶の中で、望まない相手にされた口づけを忘れられるように。
(欲しい……)
 漠然と、ただそれだけを思う。
 遠慮がちに重ねられた唇から、温かさが流れ込んでくる。
 俺が怖がっていないか、気遣う心が触れ合う強さから伝わってくる。
 目を閉じて、体の力を抜いた。
(……あったかい……)
 抱きしめてくれる腕からも伝わってくる想いの温もりに、胸の奥からじんわりと温められていくようで、俺の中から何かが溶けて流れ出した。
「……泣かないで……」
 アレンさんが俺の目からこぼれ落ちたものに気付いて、顔を離してしまう。
 頬を拭ってくれる手に顔を寄せて、俺はアレンさんを見上げた。
 悲しくて泣いたわけじゃない。
 だからもう少し、温もりを感じていたかった。
 その気持ちが伝わったのか、アレンさんが俺を抱き寄せてくれる。
 さっきよりも深く重なる口づけに、羞恥心と息苦しさを感じはじめた頃、心得たようなタイミングでアレンさんが顔を離した。
「……息を止めなくてもいいのに」
 慣れていないことがばれて、居たたまれない心地になって俯くと、また顔を仰向かせてアレンさんが唇を重ねてしまう。
 まるで会話の代わりのような長いキスに、少しめまいを感じはじめたところで解放され、ほっとした時だった。
「……ぁ……」
 小さな、掠れた声が口からこぼれ落ちた気がした。
 アレンさんも動きを止めて、じっと俺の様子を伺っている。
「響くん……?」
「……ぁ、……レンさ、ん」
 声が、出る。
 不自然に音が飛んで、うまく言葉にならないけれど、喉から音が出せた。
 アレンさんを見上げると、まだ信じられないのか目を丸くしたまま俺を凝視している。
「声……でま、したっ」
 霧が晴れたようにとよく言うけれど、本当にその通りだと思う。
 ただ声が出せただけなのに、それまで抱えていたものがすべて吹き飛んだような心地になった。
「アレ、ンさんっ! ぁりがと、ございます」
 とにかくうれしくて、俺はアレンさんに力いっぱい抱きつきながらお礼をくり返し言い続けた。
 しばらく茫然としていたアレンさんは、俺の背中を軽く叩いて、大きく息を吐き出した。
「……よかった……」
 深く想いをこめたアレンさんの呟きに、どれだけ心配させてしまったのかと、罪悪感を抱く。
 アレンさんはそれもすべて含めて、もう一度俺を抱きしめて、耳元で囁いた。
「お帰り、響くん」
「た、だいま……」
 そう言うのも変な気がしたけど。
 アレンさんの腕の中で、俺はそっと目を閉じた。
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