最低な出会いから濃密な愛を知る

あん蜜

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第五話 婚約の儀

 ベンに手を引かれ辿り着いたのはこぢんまりとした部屋だった。そこで仮の婚約書にサインをするらしい。
 先にベンがサインをし、書を受け取り書こうとした時、

(……ん?)

 ベンのサインを見ると、『ベン・ブラウニー』と書かれている。

(ベン・ブラウニー……)

 耳にしたことがあるような気がするのに、はっきりと思い出せない。

「なんだ? ここまで来てまだ迷ってんのか?」

「っ……迷ってなどいませんわ……」

 ささっとサインを済ませると、ベンが婚約書を両手で持ち、マスターに渡した。

「私、ベン・ブラウニーとソフィア・グレインは婚約関係を結びます」

 ベンがそう言うと、マスターはしっかりと頷いた。
 そしてベンが体を90度回転させ、私の方を向く。それに合わせて私もベンと向き合う。

 婚約の儀は、マスターの前で交互に相手にキスをするというもの。どこにキスをしても構わない決まりだが、私はどこにするかはここに来る前から決めてあった。当然、手だ。それ以外にあり得るはずがない。

「………………」

 互いに見つめ合う時間がしばし続いた。どちらからするという決まりはないが、この様子だとベンは私の後にしたいらしい。一向に動く気配がないからだ。

 私は彼の手を取った。

(改めて見ると……本当に大きな手だわ…………)

 顔を傾け、手の甲に唇を付ける。

ちゅ……

 唇を離すと途端に恥ずかしくなった。ミリーや家族が言うには、私は顔や耳が赤くなりやすいらしい。自覚はないが、昔からそう言われてきたからそういう体質なのだと思う。お願いだから今は赤くならないで、と願った。

 彼の手から両手を離すと、その逞しい手は私の顎に触れた。そのままゆっくりと上へ向けられる。

(やっぱり……頬よね)

 初対面の女性の肩や二の腕に堂々と触るのだから、きっと頬にキスしてくるに違いないと察してはいた。だからある意味心の準備はできていたものの、やはり頬にキスされるのは嫌だし恥ずかしくもある。それも、誰かに堂々と見られた状態で。

 ベンの顔が近づいてきたところで、ぎゅっと目を瞑った。

(早く終わって……)

ふにゅ――――

「!!??」

 柔らかい感触が離れる。口から。唇から。

(えっ えっ …………えっ??)

 目を開けても、ベンを見ることができない。目が泳ぎ、何度も瞬きをしてしまう。

「ベン・ブラウニー、ソフィア・グレイン。二人の婚約を認め――」

 マスターが何か言っている気がするが、何も頭に入ってこない。

(うそ……うそうそうそうそ!? く…………くちびる………唇に……………)

 知らぬ間に手を引かれ、混乱したまま部屋を出ていた。

 誰もいない廊下を歩いて行く。淡々と二人の足音だけが静かに耳に届く。
 しばし歩いたところで、ピタッとベンが足を止めた。

「あんた、キスすんの初めてか?」

 私は目を大きく見開いて睨みつけた。

「当たり前でしょう!? 結婚していないのに……ましてや婚約もしていないのに……唇にキスするなんてあり得ないでしょう!?」

 先程までは突然のキスに混乱する気持ちが強かったが、彼の一言で怒りの感情も追いついてきた。

「信じられないわ! 本っっ当に……なんということを……」

「ほぉ、あんたそういうクチか」

「……はぃ??」

 ダメだ。言葉遣いが悪くなってしまう。それだけは避けなくては。

「いいじゃねぇかキスくらい。唇が触れただけだろ?」

「唇に!! 唇に触れたのよ!?」

(ダメ……落ち着くのよ!)

「唇はまずかったか。一応軽く乗せるだけにしておいたんだが……って関係ねぇか。すまなかった」

(! ……そうだわ……軽く触れただけ……ちゃんとしたキスはされていない……ということよね!? まだ大丈夫……きっと大丈夫よ……!)

「婚約の儀も無事に終わりましたことですし、部屋に戻りますわ。それではおやすみなさいませ」

 なんとか冷静さを保ち、挨拶を済ませ踵を返した。相変わらず私たち以外に誰もいない廊下を早足で歩く。これでやっと一先ずは解放されると安心したのも束の間、

「ソフィア」

 という声とともに、またもや後ろから手を握られた。

「っ! ………………」

「なぁ、こっち向いてくれよ」

「嫌ですわ。先ほどおやすみなさいませと申したはずですが」

「そんな状態のあんたを放って置いてぐっすり寝られるわけねーだろ」

「……? なんの話ですの?」

「まだ俺に怒ってるだろ。機嫌取らせてくれよ。あんたが不機嫌なままじゃ気持ちよく寝られねぇんだ」

「……私が不機嫌だろうとあなたには関係――」

「ひとまずこっち向いてくれ」

「……嫌ですわっ!」

 はぁ……という小さなため息が後ろから聞こえた直後、腰に力が加わり、体がぐるりと180度回転した。

「ひゃっ!?」

 そして片手で背中を支えられ、もう片方の手は顎へと添えられる。

「やっ……!」

「キスはしねぇから。頼むから俺の目を見てくれ」

「嫌よ……どうしてあなたの言うことを聞かなくてはいけないの? 絶対に嫌――」

「頼む」

「………………」

 不思議とその言い方にはとても気持ちが込められているように感じた。だからなのか、早く部屋に戻って一人になりたいはずなのに、聞き入れてしまう。

 恐る恐る視線を上へ向けると、優しげな眼差しと目が合った。なぜだか吸い込まれそうになる。

(すぐ手を掴んでくるし、平気で唇にキスしてくるし、ちっとも礼儀正しくないはずのに……どうしてそのような表情ができるの? 怖い目つきだったら何も気にせず突き放せるのに……どうしてなのよ…………)
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