「婚約破棄して下さい」と言い続けたら、王太子の好感度がカンストしました~悪役令嬢を引退したいのに~

放浪人

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第十二話「第二王子の甘い誘いと、罠の匂い」

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 壁が取り払われたことで、私の部屋は実質的に「王太子の部屋の別館」と化していた。
 朝起きれば目の前にレオンハルト。
 着替える時はパーテーション越しにレオンハルト(の気配)。
 夜寝る時は、「おやすみ、愛しい人」という甘い囁きが鼓膜を直接揺らす。

「……息が詰まる」

 私はバルコニーに出て、深い溜め息をついた。
 今日は珍しく、レオンハルトが国王陛下に呼び出されているため、ほんの数十分だけ「お一人様タイム」を満喫できている。もちろん、バルコニーの下には近衛騎士団がアリの這い出る隙間もなく警備しているけれど。

 手すりに寄りかかり、遠くの空を眺める。
 自由になりたい。
 ただ静かに、誰にも邪魔されず、本を読んだり、二度寝したりする生活がしたい。

 その時だった。
 バササッ、と羽音がして、一羽の白い鳩が手すりに舞い降りた。
 脚に小さな筒が結びつけられている。
 伝書鳩? 今どき珍しい。魔術通信が発達したこの国で、あえてアナログな手段を使うなんて。

 私は周囲を警戒しつつ、筒から小さな紙片を取り出した。
 そこには、優雅な筆跡でこう書かれていた。

『籠の中の鳥へ。鍵を開ける準備はできている。――K』

 K。
 カイル・アステリア。第二王子だ。
 先日の図書館での囁きが蘇る。「逃げたいなら、手を貸そうか?」

 心臓がドクンと跳ねた。
 これは罠だ。間違いなく罠だ。
 彼は私を利用して、兄であるレオンハルトを陥れようとしている。もし私が彼の手を取れば、私は「王太子の婚約者」から「第二王子の共犯者」になり、政争の最前線に立たされることになる。

 でも。
 もし本当に、彼が私をこの「溺愛監禁生活」から連れ出してくれるとしたら?
 国外への逃亡ルート、新しい身分、静かな隠居生活……それを用意してくれるとしたら?

「……悪魔の誘惑ね」

 私は紙片を握りしめた。
 その時、廊下から足音が聞こえてきた。
 私は慌てて紙片を口の中に放り込み、ごくりと飲み込んだ。証拠隠滅だ。紙の味がした。

「リュシア! 待たせたね!」

 ドアが勢いよく開き、レオンハルトが飛び込んできた。
 彼は私の姿を確認すると、安堵の表情を浮かべて駆け寄ってきた。

「ああ、よかった。君が風にさらわれていないか心配で、父上の話を早口で切り上げてきたんだ」

「……陛下に対して不敬ですよ、殿下」

「君のいない時間は、私にとって永遠の砂漠のようなものだ。……ん? 何か食べたか?」

「い、いいえ! 何も!」

 私は必死に首を振った。
 口の端についた紙の繊維を悟られないように。

          ◇

 その夜、王宮で小規模な夜会が開かれた。
 名目は「隣国使節団の歓迎」だが、実質は貴族たちの情報交換の場だ。
 私はレオンハルトの腕にガッチリとロックされながら、会場に入った。

「いいかい、リュシア。今日は人が多い。私のそばを離れないように」
「はいはい、わかっております」
「離れたら死ぬと思ってくれ」
「殿下が死ぬんですか? 私が死ぬんですか?」
「私の心が死ぬ」

 めんどくさい。本当にめんどくさい。
 挨拶回りをしている最中、レオンハルトが宰相に呼び止められた。
 数メートル離れた場所で、深刻な顔で話し込んでいる。
 《星冠の誓約》の制限距離ギリギリだ。

 私は壁の花になり、グラスを傾けていた。
 すると、スッと横に誰かが立った。

「……手紙の味は、どうでした?」

 心臓が止まるかと思った。
 振り返ると、そこにはカイル王子がいた。
 彼はシャンパングラスを片手に、人の良さそうな笑顔を浮かべている。

「……消化に悪かったですわ、カイル殿下」

「ふふ、次はもっと美味しいお菓子に忍ばせましょうか」

 彼は周囲に気づかれないよう、小さな声で囁いた。

「単刀直入に言います、リュシア嬢。僕は君が欲しい」

「……誤解を招く言い方はおやめください」

「訂正しましょう。僕は君の『状況』を利用したい。そして君は『自由』が欲しい。利害は一致しています」

 カイルはグラスを揺らし、視線をレオンハルトの方に向けた。

「兄上のあの異常な執着……窒息しそうでしょう? 僕なら、誓約を無効化する方法を知っていますよ」

「……え?」

 私は思わず彼の方を見た。
 誓約の無効化。
 図書館で必死に探しても見つからなかった、魔法の言葉。

「教えて欲しければ、今夜、僕の部屋へ。……そうですね、兄上が寝静まった後、抜け出してくればいい」

 甘い毒だ。
 彼の部屋に行くということは、公衆の面前で「王太子の婚約者が、夜這いをかけた」という既成事実を作ることになる。
 それはすなわち、「背信行為」による婚約破棄を意味する。
 社会的には死ぬが、自由にはなれる。

「……対価は?」
 私は慎重に尋ねた。

「君が兄上を裏切ることで、兄上の心を折ってくれればいい。完璧超人の兄上が絶望し、王位継承権を放棄してくれれば、僕は君に感謝して、国外への逃亡資金を一生分保証します」

 なるほど。
 レオンハルトを精神的に殺せと。
 なんて性根の腐った兄弟喧嘩だ。

 私は迷った。
 一生分の資金。自由な生活。
 魅力的な提案だ。
 でも、レオンハルトを絶望させる?
 あのポジティブお化けが絶望する姿なんて想像できないが……もし彼が傷つき、国が荒れたら? 私の平和な隠居生活も脅かされるのではないか?

(……リスクが高すぎるわ)

 私は決断した。
 この話には乗らない。もっと安全で、合法的な手段で婚約破棄を目指すべきだ。
 私はカイルに向き直り、きっぱりと言った。

「お断りします」

「……ほう?」
 カイルが意外そうに眉を上げる。

「私は確かに自由を求めていますが、それは誰かを蹴落として得るものではありません。それに、あなたのような胡散臭い方と手を組むくらいなら、殿下の暑苦しい愛に耐える方がマシです」

 言ってやった。
 カイルは一瞬呆気にとられ、それからクククと喉を鳴らして笑った。

「ははっ! 面白い。兄上が執着する理由がわかった気がしますよ。君は――」

「そこまでだ、カイル」

 冷徹な声が割り込んだ。
 いつの間にか、宰相との話を終えたレオンハルトが戻ってきていた。
 彼は私の腰を抱き寄せ、カイルを鋭く睨みつけた。

「私の婚約者に、何の用だ?」

「やあ、兄上。ただのご挨拶ですよ。……彼女があまりに魅力的だから、つい勧誘してしまいました。『僕の側に来ないか』とね」

 カイルは悪びれもせず言った。
 レオンハルトの腕に力がこもる。痛い。

「……リュシアは、なんと答えた?」

「ふられてしまいましたよ。『あなたのような胡散臭い男より、殿下の方がマシだ』とね」

 カイルは肩をすくめ、私にウィンクをして去っていった。
 余計なことを!
 「マシ」って言っただけよ! 「好き」とは言ってないわよ!

 私は恐る恐るレオンハルトを見上げた。
 彼は震えていた。
 感動で。

「……リュシア」

「はい」

「君は、あのカイルの巧みな誘惑を、一蹴したのか。甘い言葉で揺さぶりをかけられても、毅然として私を選んでくれたのか……!」

 いや、単にリスク管理の結果です。

「カイルは言葉巧みに人の心の隙間に入り込む天才だ。現状に不満を持つ君なら、あるいは……と不安だった。だが、君の愛は私の想像を遥かに超えていた!」

 ドクン、ドクン。
 彼の心臓の音が、会場の音楽よりも大きく聞こえる。
 そして、胸元の光が、ドレス越しに私の目を焼いた。

 【星冠値:84 → 86】

「君は『マシだ』と言ったそうだが、それは君なりの照れ隠しだろう? 本当は『誰よりも愛している』と言いたかったのに、カイルの手前、あえてツンとした態度を取った……可愛いな」

 もう解釈が自由すぎる。
 私はガックリと項垂れた。
 断ったせいで、逆に信頼度が爆上がりしてしまった。

「帰ろう、リュシア。今日はもう十分だ。……君が他の男と話しているのを見るだけで、私は理性を保てそうにない」

 レオンハルトは私を抱き上げんばかりの勢いで会場を後にした。
 馬車の中、彼は私を膝の上に乗せ(席があるのに!)、髪を撫で続けた。

「やはり、警護のレベルを上げよう」

「まだ上げるんですか!?」

「カイルが接触してきた以上、王宮内も安全ではない。……私の直属の影(諜報員)を、君の影の中に潜ませる」

「影の中に!? 怖いですよ!」

「安心しろ、君には見えない。ただ、君に害をなす者が近づけば、自動的に排除する」

 自動防衛システムまで搭載されてしまった。
 プライバシーどころか、私の周囲は完全な要塞と化した。

          ◇

 翌日。
 王都中に衝撃的なニュースが駆け巡った。

 『聖女セレナ、神殿にて【聖なる癒やしの奇跡】を一般公開へ!』

 新聞の一面には、神々しいドレスを着たセレナの写真が掲載されていた。
 記事によれば、彼女は近日中に大聖堂で、不治の病に侵された人々を一斉に治癒する「奇跡の儀式」を行うという。

「……ついに動き出したわね」

 私は新聞を読みながら呟いた。
 先日の法改正や証拠主義で追い詰められたセレナが、一発逆転を狙って大博打に出たのだ。
 もしこの奇跡が成功すれば、彼女の支持率は爆発的に上がり、私の「事務能力」や「法整備」など霞んでしまうだろう。
 民衆は、賢い王妃よりも、奇跡を起こす聖女を求めるものだから。

「……でも、変ね」

 私は新聞の写真に目を凝らした。
 セレナの背後に写っている神官たちの表情。
 彼らは喜んでいるというより、何かに怯えているように見える。
 そして、セレナの手にある杖。
 そこから漏れ出る光は、聖なる金色ではなく、どこか毒々しい紫色を帯びているように見えた。

「エルダさんの言っていた通り……やっぱり、ただの魔法じゃない」

 私は背筋が寒くなるのを感じた。
 カイルの誘惑を退けた先に待っていたのは、より深く、より危険な闇の入り口だった。
 レオンハルトの「囲い込み」が、あるいは本当に私の命を救うことになるのかもしれない――なんて、少しだけ思ってしまった自分を、私は激しく否定した。

(いやいや! 騙されないわよ! これはこれで監禁だから!)
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