私の息子を“愛人の子の下”にすると言った夫へ──その瞬間、正妻の役目は終わりました

放浪人

文字の大きさ
8 / 41

8話「出る準備」

屋敷に戻った私は、自室で静かに荷造りを始めた。
持っていくものは多くない。
私個人の衣類数着と、レオンの着替え。そして何より重要な、持参金契約書の原本や監査に必要な証拠書類一式だ。

トランクの金具をカチャリと閉めた時、背後で控えめなノックの音がした。

「奥様、お茶をお持ちしました」

侍女長のマーサだった。
彼女は銀のトレイを机に置くと、私の足元にあるトランクを見て、悲しそうに目を伏せた。

「いよいよ、明日ですね」

「ええ。マーサ、今まで本当にありがとう。あなたがいてくれたから、私はなんとかやってこられたわ」

「もったいないお言葉です……」

マーサの目から、一筋の涙がこぼれ落ちる。
そこへ、執事のノーマンも静かに部屋へ入ってきた。

「奥様、明朝の馬車の手配、抜かりなく済ませております。実家の侯爵家までの道中、信頼できる護衛も手配いたしました」

「ありがとう、ノーマン。二人には、迷惑をかけるわね」

私が屋敷を出れば、残された使用人たちは理不尽なオスヴァルドと我儘なセレナに振り回されることになる。
そのことを詫びると、ノーマンは力強く首を振った。

「とんでもございません。奥様がこの領地のためにどれほど尽くしてこられたか、私たちは皆知っております。旦那様の愚行には、もうついていけません」

彼らの言葉に、私の胸の奥が微かに温かくなる。
この家での数年間は、決して無駄ではなかった。私を見ていてくれた人たちが、確かにここにいる。

♦︎♦︎♦︎

翌朝。
空はどんよりとした鉛色に覆われ、冷たい風が吹きすさんでいた。
私とレオンは、厚手の外套を着込み、屋敷の玄関ホールへと向かった。

ノーマンが私のトランクを持ち、マーサがレオンの手を引いてくれる。
玄関の大きな両開き扉が開かれ、外には質素だが頑丈そうな馬車が待機していた。

「さあ、レオン。行きましょう」

私が息子の肩を抱いて馬車へ向かおうとした、その時だった。

「待て! リディア!」

背後から、怒りに満ちた声が響いた。
振り返ると、寝巻きの上にガウンを羽織っただけのオスヴァルドが、血相を変えて階段を駆け下りてくるところだった。
昨夜遅くに王都から戻り、今まで寝ていたはずだ。

「どこへ行くつもりだ! 荷物などまとめて!」

彼は私のトランクを睨みつけ、荒い息を吐いた。

「実家へ戻ります。別居の同意書は、執務机の上に置いてありますのでご確認ください」

「別居だと!? ふざけるな! 妻が夫を置いて勝手に出て行くなど、許されるはずがない!」

「持参金契約書の第12条に基づき、正妻の尊厳が著しく損なわれたと判断した場合、一時的な別居が認められています。法的な問題は何もありません」

私は極めて冷静に事実だけを告げた。
オスヴァルドは顔を真っ赤にして地団駄を踏み、ギリッと歯を食いしばる。

「……どうしても行くと言うなら、勝手にしろ。どうせすぐに泣きついて戻ってくるに決まっている」

彼は忌々しげに吐き捨てた後、私の隣にいるレオンを指差した。

「出ていくなら、息子は置いていけ」

あなたにおすすめの小説

白い結婚のまま、旦那様は薔薇のような美人に夢中になりました

柴田はつみ
恋愛
伯爵令嬢リディアは、美貌で有名な侯爵レオンハルトに嫁いだ。 けれど結婚して二年、夫婦は一度も結ばれないまま――白い結婚だった。 それでも旦那様は優しかった。 冷たいわけではない。気づかいの言葉も、穏やかな笑顔もくれる。 だからリディアは、愛されてはいなくても、いつか少しは夫婦になれるのではないかと信じていた。 そんなある日、彼女は知ってしまう。 旦那様が薔薇の君と呼ばれる絶世の美女に心を奪われていることを。 彼が触れなかったのは私にだけだったのだと。 都合のいい奥方として、役に立っていたと悟る 静かに離縁を決意したリディアは、実家へ戻ったあと、女子学院で働き始める。 すると侯爵夫人時代には当たり前だった実務のすべてが、外では驚くほど必要とされていた。 感謝され、認められ、自分の足で立ち始めた彼女は、少しずつ見違えるほど美しくなっていく

結婚式の翌朝、夫に「皇太子の愛人だろう」と捨てられました――ですが私は、亡き国王の娘です

柴田はつみ
恋愛
母の遺した薬草店を守りながら、慎ましく暮らしていたアンリ。 そんな彼女に求婚してきたのは、国内でも名高い騎士にして公爵家当主、アルファだった。 真っすぐな想いを向けられ、彼を信じて結婚したアンリ。 けれど幸せなはずの結婚式の翌朝、夫は冷たく言い放つ。 「君を愛していると本気で思っていたのかい? 」 彼はアンリが第一皇太子と深い仲にあり、自分との結婚は身を隠すための偽装だと誤解していたのだ。 アンリは実は、亡き国王の婚外子。 皇太子にとっては、隠して守らなければならない妹だったのである。

「離縁状の印が乾く前に、王太子殿下から花束が届きました」〜五年間「置物」と呼ばれた侯爵夫人、夫が青ざめるのは王家との縁が切れてからでした〜

まさき
恋愛
侯爵夫人として過ごした五年間、夫に名前を呼ばれたことが一度もなかった。 愛人を夜会に連れてきた翌朝、私は離縁状を置いて屋敷を出た。 夫は「すぐ戻る」と思っていたらしい。 でも届いたのは、王太子殿下からの白薔薇だった。 「五年、待ちすぎました。今度こそ私の隣に」 幼馴染の殿下は、いつも私を「アメリア」と呼んでくれた。 ただそれだけで、五年分の何かが、ほどけていった。 夫が全てを失うのはこれからの話。 私が本当の笑顔を取り戻すのも、これからの話。

夫は私を愛していないそうなので、遠慮なく離婚します。今さら引き止められても遅いです

藤原遊
恋愛
王妃付き護衛騎士である夫に、「お前を愛したことはない」と告げられた。 理由は単純。 愛などなくても、仕事に支障はないからだという。 ──そうですか。 それなら、こちらも遠慮する必要はありませんね。 王妃の機嫌、侍女たちとの関係、贈り物の選定。 夫が「当然のように」こなしていたそれらは、すべて私が整えていたもの。 離婚後、少しずつ歯車は狂い始める。 気づいたときにはもう遅い。 積み上げてきた信用は、静かに崩れていく。 一方で私は、王妃のもとへ。 今さら引き止められても、遅いのです。

婚約者は妹のような幼馴染みを何より大切にしているので、お飾り妻予定な令嬢は幸せになることを諦めた……はずでした。

待鳥園子
恋愛
伯爵令嬢アイリーンの婚約者であるセシルの隣には『妹のような幼馴染み』愛らしい容姿のデイジーが居て、身分差で結婚出来ない二人が結ばれるためのお飾り妻にされてしまうことが耐えられなかった。 そして、二人がふざけて婚姻届を書いている光景を見て、アイリーンは自分の我慢が限界に達そうとしているのを感じていた……のだけど!?

ため息ひとつ――王宮に散る花びらのように

柴田はつみ
恋愛
「離縁を、お願いしたいのです」 笑顔で、震えずに、エレナはそう言った。 夫は言葉を失った。泣いてくれれば、怒ってくれれば、まだ受け止め方があった。しかしあの静けさは、エレナがもう十分に泣き終わった後の顔だと、ヴィクトルにはわかった。 幼なじみと結ばれた三年間。すれ違いは静かに始まり、深紅のドレスの令嬢によって加速した。ため息を飲み込み、完璧な微笑みを保ち続けた公爵夫人が、最後に選んだのは――。 王宮に散る花びらのような、夫婦の崩壊と再生の物語。

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

私を裏切った不倫夫に「どなたですか?」と微笑むまで 〜没落令嬢の復讐劇〜

恋せよ恋
恋愛
「早くあんな女と別れて、可愛い子と一緒になりたいよ」 不倫中の夫が笑う声を聞き、絶望の中で事故に遭うジェシカ。 結婚五年目に授かったお腹の子を失った彼女は、 「記憶を失ったフリ」で夫と地獄の婚家を捨てることを決意。 元男爵令嬢の薄幸ヒロインは、修道院で静かに時を過ごす。 独り身領主の三歳の男の子に懐かれ、なぜか領主まで登場! 無実の罪をなすりつけ、私を使い潰した報いを受けなさい。 記憶喪失を装った没落令嬢による、「ざまぁ」が幕を開ける! ※本作品には、馬車事故による流産の描写が含まれます。  苦手な方はご注意ください。主人公が絶対に幸せになる  物語ですので、安心してお読みいただければ幸いです。 🔶登場人物・設定は筆者の創作によるものです。 🔶不快に感じられる表現がありましたらお詫び申し上げます。 🔶誤字脱字・文の調整は、投稿後にも随時行います。 🔶今後もこの世界観で物語を続けてまいります。 🔶 『エール📣』『いいね❤️』励みになります!