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12話「君しかいない」
『君しかいない』
その切実な文字列を前にしても、私の心にはさざ波一つ立たなかった。
かつては、その言葉を信じて身を粉にして働いた時期もあった。
彼にとって私が必要なのだと、愛されてはいなくても、必要とされているのだと。
だが、彼が必要としていたのは私という人間ではない。
彼の尻拭いをしてくれる「便利な道具」としての機能だったのだ。
私は書斎の机に向かい、真新しい羊皮紙にインクを含ませた羽ペンを走らせた。
カリカリ、カリカリ。
静かな部屋に、ペン先が紙を引っ掻く乾いた音だけが響く。
感情を一切込めず、ただ冷たい事実だけを羅列していく。
『オスヴァルド・ルクレール伯爵殿。
貴殿からの書状、拝見いたしました。
しかしながら、持参金契約第12条に基づく別居期間中において、私が伯爵家の領地運営および監査対応に関与する義務は一切生じません。
また、王国法第45条第2項により、監察院の監査対象となっている当事者に対する外部からの書類作成支援は、証拠隠滅の幇助とみなされる可能性があります。
よって、貴殿の要請にはお応えいたしかねます』
時候の挨拶も、心配の言葉も、一切ない。
ただ条文番号を添えただけの、氷のように冷たい返事。
私が書き終え、蝋で封印をしたちょうどその時だった。
「お見事な文面ですね」
振り返ると、開け放たれた書斎の扉にルーカスが寄りかかっていた。
彼は監査の経過報告と、私の保護状況の確認のためにヴァルモン侯爵家を訪れていたのだ。
「立ち聞きとは、監察官殿も趣味がよろしくないですね」
「失礼。あまりにも迷いのないペン運びでしたので、つい見惚れてしまいました」
ルーカスは歩み寄り、私の手元にある手紙を一瞥した。
「それにしても、見事な『正しさ』です。一片の感情も交えず、法と契約だけで相手を切り捨てる。監察官である私から見ても、完璧な回答だ」
彼の灰色の瞳の奥に、微かな称賛の色が浮かんでいた。
「私はただ、自分の身を守っているだけですわ」
「ええ。その強かさがあれば、これからの戦いも乗り切れるでしょう」
ルーカスがそう言った直後、廊下から父である侯爵の足音が近づいてきた。
父は書斎に入ってくるなり、私とルーカスを見て深く頷いた。
「リディア、ルーカス殿。少しよろしいか」
父の表情は、かつてなく真剣だった。
彼は私の正面に座り、両手を机の上で組んだ。
「お前の離縁と、ルクレール伯爵家の没落はもはや避けられない。問題は、レオンの将来だ」
父の重い声に、私は息を呑んだ。
レオンは伯爵家の長男として生まれた。家が潰れれば、彼もまた没落貴族の子として茨の道を歩むことになる。
「リディア。我がヴァルモン侯爵家には、古い『母方相続の特例』という制度が残っているのを知っているな?」
「……はい。娘が生んだ子を、特定の条件を満たした場合に限り、実家の跡取りとして迎え入れることができるという特例ですね」
私が答えると、父は力強く頷いた。
「そうだ。私は、レオンを、跡取りとして迎える」
その切実な文字列を前にしても、私の心にはさざ波一つ立たなかった。
かつては、その言葉を信じて身を粉にして働いた時期もあった。
彼にとって私が必要なのだと、愛されてはいなくても、必要とされているのだと。
だが、彼が必要としていたのは私という人間ではない。
彼の尻拭いをしてくれる「便利な道具」としての機能だったのだ。
私は書斎の机に向かい、真新しい羊皮紙にインクを含ませた羽ペンを走らせた。
カリカリ、カリカリ。
静かな部屋に、ペン先が紙を引っ掻く乾いた音だけが響く。
感情を一切込めず、ただ冷たい事実だけを羅列していく。
『オスヴァルド・ルクレール伯爵殿。
貴殿からの書状、拝見いたしました。
しかしながら、持参金契約第12条に基づく別居期間中において、私が伯爵家の領地運営および監査対応に関与する義務は一切生じません。
また、王国法第45条第2項により、監察院の監査対象となっている当事者に対する外部からの書類作成支援は、証拠隠滅の幇助とみなされる可能性があります。
よって、貴殿の要請にはお応えいたしかねます』
時候の挨拶も、心配の言葉も、一切ない。
ただ条文番号を添えただけの、氷のように冷たい返事。
私が書き終え、蝋で封印をしたちょうどその時だった。
「お見事な文面ですね」
振り返ると、開け放たれた書斎の扉にルーカスが寄りかかっていた。
彼は監査の経過報告と、私の保護状況の確認のためにヴァルモン侯爵家を訪れていたのだ。
「立ち聞きとは、監察官殿も趣味がよろしくないですね」
「失礼。あまりにも迷いのないペン運びでしたので、つい見惚れてしまいました」
ルーカスは歩み寄り、私の手元にある手紙を一瞥した。
「それにしても、見事な『正しさ』です。一片の感情も交えず、法と契約だけで相手を切り捨てる。監察官である私から見ても、完璧な回答だ」
彼の灰色の瞳の奥に、微かな称賛の色が浮かんでいた。
「私はただ、自分の身を守っているだけですわ」
「ええ。その強かさがあれば、これからの戦いも乗り切れるでしょう」
ルーカスがそう言った直後、廊下から父である侯爵の足音が近づいてきた。
父は書斎に入ってくるなり、私とルーカスを見て深く頷いた。
「リディア、ルーカス殿。少しよろしいか」
父の表情は、かつてなく真剣だった。
彼は私の正面に座り、両手を机の上で組んだ。
「お前の離縁と、ルクレール伯爵家の没落はもはや避けられない。問題は、レオンの将来だ」
父の重い声に、私は息を呑んだ。
レオンは伯爵家の長男として生まれた。家が潰れれば、彼もまた没落貴族の子として茨の道を歩むことになる。
「リディア。我がヴァルモン侯爵家には、古い『母方相続の特例』という制度が残っているのを知っているな?」
「……はい。娘が生んだ子を、特定の条件を満たした場合に限り、実家の跡取りとして迎え入れることができるという特例ですね」
私が答えると、父は力強く頷いた。
「そうだ。私は、レオンを、跡取りとして迎える」
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