五年後、元夫の後悔が遅すぎる。~娘が「パパ」と呼びそうで困ってます~

放浪人

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第10話 影の来訪

 窓枠をガタガタと揺らす、強い春の突風。
 工房の木扉がノックされ、リュシアンが静かに部屋へ入ってきた。
 いつもなら穏やかな微笑みを浮かべている彼の表情が、今日はひどく硬く、どこか緊張を孕んでいる。

「エリシア。……急な話で、申し訳ありません」

 リュシアンは椅子を勧められても座らず、立ったまま一枚の羊皮紙をテーブルの上に置いた。
 紙の表面からは、大聖堂の書庫特有の、古い埃と蜜蝋の匂いがした。

「東方の辺境領で、奇妙な疫病と酷い飢饉が同時に発生しました。現地の医療物資が完全に底を突き、救恤院の各支部に緊急の支援要請が来ています」

 辺境。
 その単語を聞いた瞬間、エリシアの指先がピクリと跳ねた。
 三年間、過酷な冬を共に乗り越えようと奔走した、あの霧深い森と湿地の領地。

「……私に、何ができますか」

 声が震えないように、エリシアはゆっくりと息を吐き出した。

「祝布(しゅくふ)の緊急発注です。それも、大量に」

 祝布。祈りの糸を織り込み、植物の媒染で丁寧に染め上げられた特別な布。
 冷えや疲労、軽い炎症を和らげる効果があり、性能は魔力の強さではなく、織る工程の丁寧さによって決まる。
 エリシアが救恤院に納め続けてきた、最高品質の布だ。

「現地の施療所で使用する包帯と、患者を温めるための毛布が必要です。ですが、これほどの量を短期間で揃えるには、あなたの工房の力だけでは足りません。ギルドの職人たちも動員しますが、品質の監修をあなたにお願いしたいのです」

 リュシアンの灰色の瞳が、エリシアを真っ直ぐに捉えていた。
 それは、ただの職人としてではなく、技術の要として彼女を頼っているという証だった。

 引き受けるべきだ。救える命があるのなら。
 しかし、辺境の領地に関わるということは、あの男の影に近づくことを意味する。
 やっと手に入れた、娘との穏やかで温かい生活。
 誰も脅かすことのない、静かな日常が、足元から崩れ去っていくような恐怖に襲われた。

「……確認させてください。無理はしないで、あなたが選べます」

 迷うエリシアの空気を察し、リュシアンが一歩下がって選択権を渡してくれた。
 その優しさに背中を押され、エリシアは羊皮紙に視線を落とす。

 依頼状の末尾。
 赤黒い封蝋の隣に、鋭く角張った見覚えのある筆跡で、一つの署名が記されていた。

 辺境伯ロルフ。

 その文字を見た瞬間、心臓が冷たい手で鷲掴みにされたように痛んだ。

♦︎♦︎♦︎

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