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第17話 ギルド盾
「記録がすべてです。この工房はすでに救恤院の認定を受け、商業ギルドの正式な保護下にあります」
ヨアヒムの淡々とした声が、羊毛と埃の匂いが漂う工房に響いた。
彼は腕に抱えていた分厚い台帳をテーブルに置き、インクの染みたページを指差す。
「規定により、正当な理由なき職人への脅迫は、ギルド全体の取引停止処置を招きます。辺境伯家の皆様におかれましても、王都での毛織物や医療物資の調達が滞るのは不本意でしょう」
法と数字。それは貴族の権威すらも縛る、絶対的な盾だった。
イルザの顔が、屈辱で真っ赤に染まる。分厚い化粧の下の筋肉が、怒りでピクピクと引きつっているのが見えた。
「たかが平民の組合が、由緒ある辺境伯家に盾突くというの!」
「同情や感情は契約書に書けませんが、権利は書けます。その主張は台帳と矛盾しますな」
ヨアヒムは眼鏡の位置を直し、一切の感情を交えずに言い切った。
家令のグロスが青ざめ、イルザの耳元で慌てたように何かを囁く。ここでギルドを敵に回せば、領地の運営そのものに致命的な打撃を与えかねない。その計算が働いたのだろう。
「……覚えていなさい」
イルザは忌々しげに吐き捨て、乱暴に足音を立てて出て行った。
強烈な香水の匂いが、開け放たれた扉から吹き込む冷たい風と共に薄れていく。
エリシアは膝の力が抜け、その場にへたり込みそうになった。
リュシアンがそっと木製の椅子を引き、無言で座るように促してくれる。
「大丈夫ですか、エリシア」
「はい……。ヨアヒムさんも、本当にありがとうございます」
震える息を吐き出すと、ヨアヒムは小さく肩をすくめた。
「価格と安全を守る。守らせる。ここはギルドですから」
個人の暴力や権力ではなく、確固たる制度と仕組みで守られる。
その確かな手応えに、エリシアの心は深く安堵していた。
しかし数日後。
ギルドの支部へ材料の受け取りに向かったエリシアは、書類を見つめるヨアヒムの険しい表情に気がついた。
周囲には、羊毛の脂とインクの匂いが混ざり合って漂っている。
「どうかしたのですか」
「……材料の横流しが起きているようです」
ヨアヒムが声を潜めて呟いた。
本来届くはずの灰染めの材料や上質な羊毛が、市場から不自然に消えているという。
「裏で手を引いている者がいますね。おそらく、河港の密輸ルートに流れています。……気をつけてください。何か嫌な予感がします」
かすかに漂う、生活を脅かす影の気配。
エリシアは胸の奥がざわつくのを感じながら、暗く濁った大河の方角を見つめた。
♦︎♦︎♦︎
ヨアヒムの淡々とした声が、羊毛と埃の匂いが漂う工房に響いた。
彼は腕に抱えていた分厚い台帳をテーブルに置き、インクの染みたページを指差す。
「規定により、正当な理由なき職人への脅迫は、ギルド全体の取引停止処置を招きます。辺境伯家の皆様におかれましても、王都での毛織物や医療物資の調達が滞るのは不本意でしょう」
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ヨアヒムは眼鏡の位置を直し、一切の感情を交えずに言い切った。
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イルザは忌々しげに吐き捨て、乱暴に足音を立てて出て行った。
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エリシアは膝の力が抜け、その場にへたり込みそうになった。
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「大丈夫ですか、エリシア」
「はい……。ヨアヒムさんも、本当にありがとうございます」
震える息を吐き出すと、ヨアヒムは小さく肩をすくめた。
「価格と安全を守る。守らせる。ここはギルドですから」
個人の暴力や権力ではなく、確固たる制度と仕組みで守られる。
その確かな手応えに、エリシアの心は深く安堵していた。
しかし数日後。
ギルドの支部へ材料の受け取りに向かったエリシアは、書類を見つめるヨアヒムの険しい表情に気がついた。
周囲には、羊毛の脂とインクの匂いが混ざり合って漂っている。
「どうかしたのですか」
「……材料の横流しが起きているようです」
ヨアヒムが声を潜めて呟いた。
本来届くはずの灰染めの材料や上質な羊毛が、市場から不自然に消えているという。
「裏で手を引いている者がいますね。おそらく、河港の密輸ルートに流れています。……気をつけてください。何か嫌な予感がします」
かすかに漂う、生活を脅かす影の気配。
エリシアは胸の奥がざわつくのを感じながら、暗く濁った大河の方角を見つめた。
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