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第六話 提案:無愛契約婚。条件:愛さない、嘘はつけない
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アシュ・ヴァレンシュタイン宰相が嵐のように去った後、私の屋敷のリビングには、奇妙な静寂が漂っていた。
「……プロポーズ、でしたよね? 今の」
聖女ミレイユ様が、ぽかんと口を開けたまま呟いた。 私はこめかみを指で押さえ、大きく息を吐き出した。
「いいえ。あれはプロポーズという名の『業務提携の打診』よ。色気もへったくれもない、ただの人材確保ね」
「でも、お嬢様を守るっておっしゃいましたよ!」
メイドのニナが目を輝かせている。 彼女は昔から恋愛小説の読みすぎなのだ。
「『政治的な盾』と言ったのよ。つまり、私は彼にとって使い勝手のいい防具というわけ。……まったく、人が婚約破棄されて清々しているところに、次は契約結婚だなんて」
私はソファに深々と体を沈めた。 普通なら「愛のない結婚なんて!」と憤慨するところかもしれない。 あるいは、「あの氷の宰相様の妻に?」と恐れおののくところだろう。
けれど、私の胸の内で計算機が高速で弾き出した答えは――『悪くない』だった。
レオンハルト殿下と教会は、今後なりふり構わず私を潰しにかかるだろう。 今日のように捏造証拠でっち上げや、不法侵入も辞さない構えだ。 私一人でも戦える自信はあるけれど、正直なところ『面倒くさい』。 いちいち火の粉を払う手間を考えれば、国一番の権力者である宰相という防火壁(ファイアウォール)を手に入れるのは、極めて合理的だ。
「……明日、宰相府に行くわ。条件次第では、乗ってあげてもよろしくてよ」
翌日。 私は再び、宰相執務室のドアを叩いた。
「入れ。鍵は開いている」
中に入ると、アシュ様は昨日と同じように書類の山に埋もれていた。 私がソファに座ると、彼は待っていたとばかりに分厚い羊皮紙の束をドンとテーブルに置いた。
「早い回答だ。君ならそうすると思っていた」
アシュ様は無表情のまま、その束を私の前に押しやった。
「これが契約書の草案だ。目を通してくれ」
「……仕事が早すぎませんか?」
一晩で作った量ではない。 パラパラとめくると、『婚姻に伴う相互不可侵条約』『財産分与に関する特記事項』『社交業務における役割分担』など、まるで国家間の条約のような項目が並んでいる。
「私は無駄を嫌う。君との利害一致を確認した時点で、並行して作成を進めていた」
アシュ様は組んだ両手の上に顎を乗せ、淡々と説明を始めた。
「この結婚の目的は二つ。一つは君を王太子派および教会の不当な攻撃から守り、君の『名誉回復』を完遂すること。もう一つは、私が君という『他者に付け入る隙を与えない妻』を得ることで、貴族院からの縁談攻撃を無効化し、国政に集中することだ」
「なるほど。Win-Winというわけですね」
「そうだ。そこで、この契約婚における最重要条項を提示する」
彼は長い指で、契約書の第五条を指し示した。 そこには、太く力強い文字でこう書かれていた。
『甲(アシュ)と乙(リディア)は、互いに恋愛感情を持たないものとする』
私はその一行を見つめ、思わず顔を上げた。
「……恋愛感情の、禁止?」
「その通りだ」
アシュ様は真剣な眼差しで頷いた。
「今回の騒動の原因は何か? 王太子が『真実の愛』などという不確定かつ非論理的な感情に溺れ、判断力を失ったことだ。愛は人を盲目にするバグだ。政治的パートナーシップにおいて、最も不要なノイズと言える」
彼は冷徹に言い切る。
「私は君を、有能なビジネスパートナーとして評価している。だからこそ、そこに恋愛感情を持ち込みたくない。感情のもつれは判断を鈍らせ、契約の遂行を妨げる。……君も、もうあのような馬鹿げた恋愛遊戯には懲りているだろう?」
その言葉は、私の胸にストンと落ちた。 確かにその通りだ。 「愛している」と言われて尽くした結果が、あの断罪劇だ。 愛だの恋だのは、もうお腹いっぱい。 今の私が求めているのは、ときめきではなく『安心』と『確実性』だ。
「ええ、おっしゃる通りですわ、閣下」
私はニッコリと微笑んだ。
「愛さない結婚。なんと素晴らしい響きでしょう! それなら嫉妬に狂うことも、心変わりを心配する必要もありませんものね。最高に気が楽です」
「合意とみなす。では、次の条項だ」
アシュ様は満足げに頷き、次のページをめくった。
「この契約を担保するために、我々は『真実の誓約印(ヴェリタス・シジル)』を結ぶ」
「ヴェリタス・シジル……? あの、嘘をつくと激痛が走るという高等魔術ですか?」
「いや、激痛は業務に支障が出るので採用しない。私が開発した改良版を使う。効果は単純だ。『互いに対して嘘がつけなくなる』。これだけだ」
アシュ様はこともなげに言う。
「我々は夫婦として振る舞う以上、情報の共有は不可欠だ。そこに虚偽が混ざれば共倒れになる。だから、強制的に嘘を排除する。……愛はないが、絶対的な信頼(事実)だけはある関係。それが私の提案する『無愛契約婚』だ」
愛はないが、嘘もない。 なんて衛生的で、安全な関係なのだろう。 裏切られる心配がないというのは、何よりも得難いメリットだ。
「わかりました。その条件、すべて飲みましょう」
私は羽ペンを取り、インク壺に浸した。 迷いはない。 これは私の人生を守るための、最強の盾を手に入れる儀式だ。
「リディア・エルヴァイン。契約を受諾します」
サラサラと署名をする。 書き終えた瞬間、羊皮紙がカッと光り輝き、光の粒子が私の左手の薬指に巻き付いた。 熱さを感じる。 見ると、そこには指輪のように銀色に輝く、複雑な紋様が刻まれていた。
「契約成立だ」
アシュ様も自分の左手を見つめている。彼には同じ紋様が黒色で刻まれているらしい。
「これで我々は、法的にも魔術的にも夫婦となった。……よろしく頼む、妻よ」
「こちらこそ、夫様(パートナー)」
私たちは立ち上がり、ガッチリと握手を交わした。 ロマンチックなキスも、甘い言葉もない。 あるのは書類の束と、ひんやりとした掌の感触だけ。 でも、それが心地よかった。
「さて。では早速、次の業務に移ろう」
アシュ様は手を離すと、すぐに「仕事モード」に戻った。
「来週、王宮で夜会がある。そこで我々の結婚を公式に発表する。君には『氷の宰相を溶かした(と見せかける)女性』として振る舞ってもらう必要がある」
「承知しました。演技ならお任せを」
「頼もしいな。……ところで」
アシュ様がふと、何気ない調子で尋ねてきた。
「君のそのドレスだが、昨日の深紅のものより、今日のような淡いブルーの方が知的で好ましいと思うが、どうだ?」
え? 急にファッションチェック?
私はとっさに、社交辞令で返そうとした。 『あら、ありがとうございます。でも赤も情熱的で素敵だと思いませんか?』と。
けれど。
「あら、ありがとうございます。でも本当は赤の方が、相手を威圧できて好きなんですけどね。今日はあなたに合わせて猫を被ってきただけです」
「……は?」
私の口から飛び出したのは、脳内で考えていた『本音』そのまんまの言葉だった。
時が止まる。 アシュ様が瞬きをし、私も自分の口を手で押さえて硬直した。
……あれ? 今、私、なんて言った?
「……なるほど。『嘘がつけない』効果は正常に作動しているようだな」
アシュ様が冷静に分析する。
「え、あ、いや、違いますの! 今のは言葉のアヤで……!」
「訂正は不要だ。猫を被っていたという事実確認が取れただけで十分だ」
待って。 待って待って。 『嘘がつけない』って、もしかして『社交辞令も言えない』ってこと!? オブラートに包むことすら許されないの!?
「さあ、行くぞリディア。これからは毎日、君の本音(・・・)を聞けるわけだ。効率的で楽しみだよ」
アシュ様は微かに口角を上げ――いや、あれは面白がっている顔だ――執務室の出口へと歩き出した。
私は青ざめた顔でその背中を見つめる。 愛さない契約は簡単だと思っていた。 けれど、この『嘘がつけない契約』……もしかして、とんでもない地雷を踏んでしまったのでは?
私の心の中にある、あんなことやこんなこと。 殿下への罵詈雑言や、アシュ様の顔が良いとかいうミーハーな感想まで、全部筒抜けになるってこと!?
「ちょ、ちょっと待ってくださいアシュ様! 契約の細則を確認させてください! 『黙秘権』はあるんですよね!?」
私の叫びは、分厚い扉の閉まる音にかき消された。 無愛契約婚、開始早々、前途多難の予感しかしない!
「……プロポーズ、でしたよね? 今の」
聖女ミレイユ様が、ぽかんと口を開けたまま呟いた。 私はこめかみを指で押さえ、大きく息を吐き出した。
「いいえ。あれはプロポーズという名の『業務提携の打診』よ。色気もへったくれもない、ただの人材確保ね」
「でも、お嬢様を守るっておっしゃいましたよ!」
メイドのニナが目を輝かせている。 彼女は昔から恋愛小説の読みすぎなのだ。
「『政治的な盾』と言ったのよ。つまり、私は彼にとって使い勝手のいい防具というわけ。……まったく、人が婚約破棄されて清々しているところに、次は契約結婚だなんて」
私はソファに深々と体を沈めた。 普通なら「愛のない結婚なんて!」と憤慨するところかもしれない。 あるいは、「あの氷の宰相様の妻に?」と恐れおののくところだろう。
けれど、私の胸の内で計算機が高速で弾き出した答えは――『悪くない』だった。
レオンハルト殿下と教会は、今後なりふり構わず私を潰しにかかるだろう。 今日のように捏造証拠でっち上げや、不法侵入も辞さない構えだ。 私一人でも戦える自信はあるけれど、正直なところ『面倒くさい』。 いちいち火の粉を払う手間を考えれば、国一番の権力者である宰相という防火壁(ファイアウォール)を手に入れるのは、極めて合理的だ。
「……明日、宰相府に行くわ。条件次第では、乗ってあげてもよろしくてよ」
翌日。 私は再び、宰相執務室のドアを叩いた。
「入れ。鍵は開いている」
中に入ると、アシュ様は昨日と同じように書類の山に埋もれていた。 私がソファに座ると、彼は待っていたとばかりに分厚い羊皮紙の束をドンとテーブルに置いた。
「早い回答だ。君ならそうすると思っていた」
アシュ様は無表情のまま、その束を私の前に押しやった。
「これが契約書の草案だ。目を通してくれ」
「……仕事が早すぎませんか?」
一晩で作った量ではない。 パラパラとめくると、『婚姻に伴う相互不可侵条約』『財産分与に関する特記事項』『社交業務における役割分担』など、まるで国家間の条約のような項目が並んでいる。
「私は無駄を嫌う。君との利害一致を確認した時点で、並行して作成を進めていた」
アシュ様は組んだ両手の上に顎を乗せ、淡々と説明を始めた。
「この結婚の目的は二つ。一つは君を王太子派および教会の不当な攻撃から守り、君の『名誉回復』を完遂すること。もう一つは、私が君という『他者に付け入る隙を与えない妻』を得ることで、貴族院からの縁談攻撃を無効化し、国政に集中することだ」
「なるほど。Win-Winというわけですね」
「そうだ。そこで、この契約婚における最重要条項を提示する」
彼は長い指で、契約書の第五条を指し示した。 そこには、太く力強い文字でこう書かれていた。
『甲(アシュ)と乙(リディア)は、互いに恋愛感情を持たないものとする』
私はその一行を見つめ、思わず顔を上げた。
「……恋愛感情の、禁止?」
「その通りだ」
アシュ様は真剣な眼差しで頷いた。
「今回の騒動の原因は何か? 王太子が『真実の愛』などという不確定かつ非論理的な感情に溺れ、判断力を失ったことだ。愛は人を盲目にするバグだ。政治的パートナーシップにおいて、最も不要なノイズと言える」
彼は冷徹に言い切る。
「私は君を、有能なビジネスパートナーとして評価している。だからこそ、そこに恋愛感情を持ち込みたくない。感情のもつれは判断を鈍らせ、契約の遂行を妨げる。……君も、もうあのような馬鹿げた恋愛遊戯には懲りているだろう?」
その言葉は、私の胸にストンと落ちた。 確かにその通りだ。 「愛している」と言われて尽くした結果が、あの断罪劇だ。 愛だの恋だのは、もうお腹いっぱい。 今の私が求めているのは、ときめきではなく『安心』と『確実性』だ。
「ええ、おっしゃる通りですわ、閣下」
私はニッコリと微笑んだ。
「愛さない結婚。なんと素晴らしい響きでしょう! それなら嫉妬に狂うことも、心変わりを心配する必要もありませんものね。最高に気が楽です」
「合意とみなす。では、次の条項だ」
アシュ様は満足げに頷き、次のページをめくった。
「この契約を担保するために、我々は『真実の誓約印(ヴェリタス・シジル)』を結ぶ」
「ヴェリタス・シジル……? あの、嘘をつくと激痛が走るという高等魔術ですか?」
「いや、激痛は業務に支障が出るので採用しない。私が開発した改良版を使う。効果は単純だ。『互いに対して嘘がつけなくなる』。これだけだ」
アシュ様はこともなげに言う。
「我々は夫婦として振る舞う以上、情報の共有は不可欠だ。そこに虚偽が混ざれば共倒れになる。だから、強制的に嘘を排除する。……愛はないが、絶対的な信頼(事実)だけはある関係。それが私の提案する『無愛契約婚』だ」
愛はないが、嘘もない。 なんて衛生的で、安全な関係なのだろう。 裏切られる心配がないというのは、何よりも得難いメリットだ。
「わかりました。その条件、すべて飲みましょう」
私は羽ペンを取り、インク壺に浸した。 迷いはない。 これは私の人生を守るための、最強の盾を手に入れる儀式だ。
「リディア・エルヴァイン。契約を受諾します」
サラサラと署名をする。 書き終えた瞬間、羊皮紙がカッと光り輝き、光の粒子が私の左手の薬指に巻き付いた。 熱さを感じる。 見ると、そこには指輪のように銀色に輝く、複雑な紋様が刻まれていた。
「契約成立だ」
アシュ様も自分の左手を見つめている。彼には同じ紋様が黒色で刻まれているらしい。
「これで我々は、法的にも魔術的にも夫婦となった。……よろしく頼む、妻よ」
「こちらこそ、夫様(パートナー)」
私たちは立ち上がり、ガッチリと握手を交わした。 ロマンチックなキスも、甘い言葉もない。 あるのは書類の束と、ひんやりとした掌の感触だけ。 でも、それが心地よかった。
「さて。では早速、次の業務に移ろう」
アシュ様は手を離すと、すぐに「仕事モード」に戻った。
「来週、王宮で夜会がある。そこで我々の結婚を公式に発表する。君には『氷の宰相を溶かした(と見せかける)女性』として振る舞ってもらう必要がある」
「承知しました。演技ならお任せを」
「頼もしいな。……ところで」
アシュ様がふと、何気ない調子で尋ねてきた。
「君のそのドレスだが、昨日の深紅のものより、今日のような淡いブルーの方が知的で好ましいと思うが、どうだ?」
え? 急にファッションチェック?
私はとっさに、社交辞令で返そうとした。 『あら、ありがとうございます。でも赤も情熱的で素敵だと思いませんか?』と。
けれど。
「あら、ありがとうございます。でも本当は赤の方が、相手を威圧できて好きなんですけどね。今日はあなたに合わせて猫を被ってきただけです」
「……は?」
私の口から飛び出したのは、脳内で考えていた『本音』そのまんまの言葉だった。
時が止まる。 アシュ様が瞬きをし、私も自分の口を手で押さえて硬直した。
……あれ? 今、私、なんて言った?
「……なるほど。『嘘がつけない』効果は正常に作動しているようだな」
アシュ様が冷静に分析する。
「え、あ、いや、違いますの! 今のは言葉のアヤで……!」
「訂正は不要だ。猫を被っていたという事実確認が取れただけで十分だ」
待って。 待って待って。 『嘘がつけない』って、もしかして『社交辞令も言えない』ってこと!? オブラートに包むことすら許されないの!?
「さあ、行くぞリディア。これからは毎日、君の本音(・・・)を聞けるわけだ。効率的で楽しみだよ」
アシュ様は微かに口角を上げ――いや、あれは面白がっている顔だ――執務室の出口へと歩き出した。
私は青ざめた顔でその背中を見つめる。 愛さない契約は簡単だと思っていた。 けれど、この『嘘がつけない契約』……もしかして、とんでもない地雷を踏んでしまったのでは?
私の心の中にある、あんなことやこんなこと。 殿下への罵詈雑言や、アシュ様の顔が良いとかいうミーハーな感想まで、全部筒抜けになるってこと!?
「ちょ、ちょっと待ってくださいアシュ様! 契約の細則を確認させてください! 『黙秘権』はあるんですよね!?」
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