『悪役令嬢は、二度目の人生で無言を貫く。~処刑回避のために黙っていただけなのに、なぜか冷徹宰相様から「君こそ運命の人だ」と溺愛さています~』

放浪人

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第7話:外交問題と「地図への指差し」

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 私が宰相執務室の「守り神」――またの名を「高性能空気清浄機」として定着してから、さらに数日が経過した。

 日々の日課は変わらない。  朝、クラウス様の馬車で出勤し、執務室の特等席でお茶を飲み、時折引きつった笑顔を振りまく。  それだけで、書類仕事の効率が三倍になり、文官たちの精神衛生が改善されるのだから、世の中何が役に立つかわからない。

 しかし、今日の執務室は、いつもの「戦場」とは少し違う空気に包まれていた。  ピリピリとした緊張感。  まるで、導火線に火がついた爆弾を前にしているような、張り詰めた重苦しさ。

 原因は、隣国との「国境線画定問題」だった。

 我がラングハイム王国の西に位置する、軍事大国ガレリア帝国。  数年前から国境付近での小競り合いが絶えず、最近になってようやく「平和的な話し合いで国境線を確定させよう」という機運が高まったのだが……。

「……ふざけた要求だ」

 バンッ!  クラウス様が、革張りの机を拳で叩いた。  その音に、室内の全員(私含む)がビクッと肩を跳ねさせる。

 彼の手元にあるのは、帝国から送られてきた最終交渉案の書類だ。

「両国の緩衝地帯となっている『霧の谷』全域の割譲だと? あそこには我が国の重要な鉱山がある。それを明け渡せというのは、実質的な降伏勧告に等しい」

 クラウス様の声は低く、地を這うような怒りを孕んでいた。  周りを囲む外務省のエリート官僚たちも、顔を青くして俯いている。

「し、しかし閣下。帝国側は『谷の帰属権は歴史的に我が国にある』と強硬です。もしこの要求を飲まなければ、国境付近に展開している軍を動かすと……」

「脅しか。野蛮な連中め」

 クラウス様は舌打ちをした。  美しい顔が歪み、氷の瞳がギラリと光る。  怖い。  今の彼は、私を甘やかす「デレ宰相」ではない。  冷徹無比な「氷の閣下」モードだ。

 私はソファの上で、気配を消して縮こまっていた。  こういう時は、動かないに限る。  下手に動いて視界に入れば、「エリス、君はどう思う?」なんて無茶振りをされかねない。  国境問題なんて、前世で歴史の授業を居眠りしていた私にわかるはずがないのだ。

(ああ、お腹痛い……。早く帰りたい……)

 私は心の中で念仏のように唱えながら、冷めかけた紅茶を啜った。

          ◇

 午後。  事態はさらに悪化した。  帝国からの使節団が到着し、緊急の御前会議が開かれることになったのだ。  しかし、それに先立ち、まずは宰相執務室での事前協議が行われることになった。

 執務室の巨大なテーブルには、国境付近の詳細な地図が広げられている。  クラウス様を中心に、外務大臣、軍務大臣、そして数名の将軍たちが顔を突き合わせている。  錚々たるメンバーだ。  この国の運命を握るおじさまたちが、しかめっ面で地図を睨んでいる。

 そしてなぜか、私もその場に同席させられていた。

「エリス、君も見ていてくれ」

 クラウス様が当然のように言ったからだ。  「君の純粋な視点が、行き詰まった我々に光を与えてくれるかもしれない」と。

 買いかぶりすぎです。  私の視点は「今日の夕飯は何かな」くらいしか考えていません。

 私は辞退したかったが、クラウス様の縋るような目(というか「離れたくない」という独占欲)に負け、テーブルの端っこ、地図の下側あたりにちょこんと立つことになった。  邪魔にならないよう、息を潜める。

「……やはり、このラインで妥協するしかあるまい」

 重い口を開いたのは、白髪の外務大臣だった。  彼は地図上の『霧の谷』の中央に、指で線を引く。

「谷の半分を割譲し、その代わりに不可侵条約を結ぶ。鉱山の一部は失うが、戦争になるよりはマシだ」

「馬鹿な!」  軍務大臣が机を叩く。  「半分でも渡してみろ! そこを拠点に奴らは必ず攻め込んでくるぞ! 地形的に不利になるのはこちらだ!」

「ではどうしろと言うのだ! 我々の軍事力では、帝国の機甲師団とは正面から戦えんのだぞ!」

「弱腰外交が! だから舐められるんだ!」

 怒号が飛び交う。  おじさまたちの顔が真っ赤になり、唾が飛ぶ。  議論は平行線だ。

 クラウス様は腕を組み、眉間に深い皺を刻んで沈黙していた。  彼の頭脳をもってしても、この状況は厳しいらしい。  軍事力で劣る以上、外交交渉で勝つには「切り札」が必要だ。しかし、今の王国にはそれがない。

 空気が重い。  息苦しい。  私はその場から逃げ出したかったが、足がすくんで動けない。

 その時。  私の目の前――テーブルの端に置いてあったインク壺が、将軍の一人が机を叩いた振動で、カタカタと揺れた。

 あっ。  危ない。

 インク壺は蓋が開いている。  もし倒れれば、この貴重な地図(羊皮紙の特大サイズで、描き直すのに数ヶ月かかるやつ)が真っ黒になってしまう。  そうなれば、会議は中断。クラウス様の機嫌は最悪になり、関係者は処刑……まではいかなくとも、大目玉を食らうだろう。

 私は反射的に動いた。

(倒れる!)

 私は慌てて手を伸ばし、揺れるインク壺を押さえようとした。  しかし、緊張で指先が震えていたせいで、手元が狂った。

 バシッ!

 私の指先はインク壺ではなく、その手前にあった地図の端を勢いよく叩いてしまった。  ダンッ!!  結構いい音がした。

 シーン……。

 会議室が静まり返った。  言い争っていた大臣たちが、一斉に私を見た。  クラウス様も、驚いた顔で私を見ている。

 や、やっちまった。  会議の邪魔をしてしまった。  しかも、地図をバンと叩くなんて、まるで「いい加減にしなさい!」と怒っているみたいじゃないか。

 私は顔面蒼白になった。  ごめんなさい。違います。インクがこぼれそうだっただけなんです。  弁解しようと口を開くが、恐怖で声が出ない。  指先は、地図の上の一点を強く押さえたままだ。

 離せない。  今、指を離したら、「なんで叩いたんだ?」と問い詰められる。  どうしよう、どうしよう。  私は必死に視線を泳がせ、助けを求めるようにクラウス様を見た。

 すると、クラウス様は私の顔ではなく、私の指先――地図の上のその一点を、じっと凝視していた。

「……そこは?」

 彼の目が、スッと細められた。  え?  そこ?  どこ?

 私が指差しているのは、『霧の谷』のさらに奥、帝国の領土内にある、何もない荒野だ。  国境線からも離れているし、争点となっている鉱山でもない。  ただの空白地帯だ。

 クラウス様はゆっくりと立ち上がり、私の指差す場所へ顔を近づけた。  そして、呟いた。

「……なるほど。そういうことか」

 えっ?

 クラウス様の瞳に、急激に光が戻っていく。  さっきまでの行き詰まりが嘘のように、理知の輝きが満ちていく。  彼は顔を上げ、私に向かって、見たこともないほど獰猛で、かつ美しい笑みを向けた。

「盲点だった。……そうだ、我々は『谷』にばかり気を取られていた。だが、エリスが指し示したこの場所こそが、帝国の急所だったのだ」

 はあ?  急所?  ただの荒野ですよ?

 外務大臣が恐る恐る尋ねる。  「か、閣下? そこは『渇きの荒野』と呼ばれる不毛の地ですが……?」

「不毛? いや、違う。……おい、古地図を持ってこい。百年前の水脈調査の記録だ!」

 クラウス様の命令で、文官たちが走り出す。  すぐにカビ臭い古い巻物が運び込まれた。  クラウス様はそれを広げ、現在の地図と重ね合わせる。

「やはりだ……!」

 彼は興奮気味に、私の指差した場所をトントンと叩いた。

「ここはかつて、巨大な地下水脈があった場所だ。地殻変動で埋もれたと思われていたが、最近の帝国の動き……この周辺での極秘の土木工事……それらを繋ぎ合わせると、一つの事実が浮かび上がる」

 彼は全員を見渡し、断言した。

「帝国は、この『隠し水源』を掘り当てようとしている。いや、既に掘り当てたのかもしれない。彼らの狙いは鉱山ではない。この水資源を独占し、我が国への供給を断つことで、国全体を干上がらせることだ」

 ざわっ……!  大臣たちが色めき立つ。

「水……だと!?」 「確かに、我が国の河川の源流は帝国内にある。もしそこを堰き止められれば……」 「鉱山どころの話ではない! 国家存亡の危機だ!」

 クラウス様はニヤリと笑った。

「だが、逆に言えば、彼らが隠そうとしているこの事実を我々が握れば、形勢は逆転する。『水源の共同管理権を認めなければ、この事実を周辺諸国に公表する』と揺さぶりをかければいい。水独占を企む帝国に対し、国際世論は必ず反発する」

「おお……!」 「その手があったか!」 「それなら勝てる! 交渉の主導権を握れるぞ!」

 おじさまたちの目が輝き出す。  絶望的な空気だった会議室が、一気に「勝てるムード」に変わった。

 そして、その全員の視線が、再び私に集中した。

「すごい……」 「エリス嬢は、一目見てそれを見抜いたというのか?」 「あの『渇きの荒野』に隠された秘密を?」 「我々が何時間議論しても気づかなかった盲点を、指一本で……!」

 外務大臣が、震える声で言った。  「彼女は……地図から『水』の気配を感じ取ったのかもしれん。古来より、聖女には水脈を見つける力があると言うし……」

 待って。  聖女説が補強されてる。  私はインク壺が倒れそうだったから、慌てて変なところを押さえただけです。  水脈とか知りません。  ダウジング能力とかありません。

 しかし、クラウス様は私の肩を抱き寄せ、誇らしげに宣言した。

「これこそが、私の婚約者だ。彼女の沈黙は、無知ゆえのものではない。全てを見通し、言葉にするまでもない真実を、行動で示してくれているのだ」

 彼は私を見下ろし、甘い声で囁いた。

「ありがとう、エリス。君のおかげで、国が救われた。……君は私の勝利の女神だ」

 私は……もう何も言えなかった。  ここで「偶然です」と言えば、この盛り上がった空気に冷や水を浴びせることになる。  それはそれで処刑されそうだ。

 私は引きつった顔で、コクコクと頷いた。  「はい、そうです。全て計算通りです」という顔をして。  内心では(誰か助けて、胃薬をください)と叫びながら。

          ◇

 その後の展開は早かった。  クラウス様は直ちに交渉団を再編成し、帝国使節団との会談に臨んだ。  切り札を手に入れた彼は無敵だった。  「隠し水源」の情報を突きつけられた帝国側は、顔面蒼白になり、しどろもどろになったという。

 結果。  『霧の谷』の国境線は現状維持。  さらに、水源に関する不可侵条約まで結ばせるという、王国側の完全勝利に終わった。

 この功績は、全て「クラウス宰相の卓越した外交手腕」として歴史に刻まれるはずだった。  しかし、現場にいた大臣たちの口から、真実(という名の誤解)が漏れ伝わった。

 『宰相閣下を勝利に導いたのは、婚約者のエリス嬢だ』  『彼女が天啓のように地図を指し示した』  『沈黙の聖女が、国を救った』

 王宮内で、私の評価は天井知らずに上がっていった。  もはや「アデル王太子の元婚約者」などという肩書きは消え失せ、「国の守護者」「予言の令嬢」といった、恐ろしい二つ名が増えていく。

          ◇

 数日後。  私は再び、王宮の夜会に参加していた。  今回は、隣国との交渉成立を祝う祝賀パーティーだ。

 会場は、前回のアデル王太子の断罪劇があった場所と同じ大広間。  しかし、私を取り巻く空気は、前回とは天と地ほど違っていた。

「エリス様、本日はおめでとうございます」 「素晴らしいご活躍でしたね」 「貴女様の聡明さは、我が国の誇りです」

 次々と挨拶に来る貴族たち。  かつて私を「悪女」と呼んだ同じ口で、今は称賛の言葉を並べ立てている。  現金なものだ。

 私はクラウス様の腕に捕まりながら、無言で微笑み(筋肉痛)続けていた。  喋ったらボロが出る。  「ありがとうございます」の一言ですら、声が裏返りそうで怖い。

 クラウス様は上機嫌だった。  私の腰に手を回し、見せびらかすように会場を練り歩く。

「そうだ、彼女のおかげだ。彼女がいなければ、今頃戦争になっていたかもしれん」

 自慢げに話す彼を見ていると、なんだか申し訳なくなってくる。  いつか真実がバレた時、彼はどれほど失望するだろう。  それを考えると、胸がチクリと痛んだ。

 ふと、視線を感じた。  会場の隅。  柱の陰に、見覚えのある金髪の青年が立っていた。

 アデル王太子だ。  彼はやつれた顔で、じっとこちらを見ていた。  その目は、以前のような軽蔑や憎悪ではなく……後悔と、未練に満ちていた。

 彼と目が合う。  私はビクリとしたが、クラウス様がすぐに気づき、私の視線を遮るように立ちはだかった。

「……見なくていい。雑音だ」

 クラウス様は冷たく言い放つと、私の顎を指で持ち上げ、自分の方へ向かせた。

「君は私だけを見ていればいい。……今夜は、君の功績を称えて、とびきりのダンスを踊ろう」

 ダンス。  そういえば、次の曲はワルツだ。

 待って。  私、ダンス苦手なんです。  前世でもよくアデルの足を踏んで怒られていました。  運動神経が壊滅的なんです。

「あ、あの……(無理です)」

 私は首を横に振ろうとした。  しかし、音楽が始まってしまった。  優雅な調べに乗せて、クラウス様が私の手を取り、フロアの中央へと導いていく。

 逃げ場はない。  衆人環視の中、宰相閣下と「沈黙の聖女」のファーストダンスが始まろうとしていた。

(踏む。絶対に踏む。そして転ぶ)

 私の予感は、たいてい悪い方に的中する。  次回、私の運動音痴が、またしても奇跡(と勘違い)を引き起こすことになるなんて、この時の私はまだ知らなかった。

 そして、その様子を憎々しげに見つめるミリアの姿があることも……。

「……調子に乗るのも今のうちよ。次のダンスで、あんたのドレス、血祭りにあげてやるわ」

 彼女の手には、怪しげな赤い液体が入った小瓶が握られていた。
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