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第7話:外交問題と「地図への指差し」
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私が宰相執務室の「守り神」――またの名を「高性能空気清浄機」として定着してから、さらに数日が経過した。
日々の日課は変わらない。 朝、クラウス様の馬車で出勤し、執務室の特等席でお茶を飲み、時折引きつった笑顔を振りまく。 それだけで、書類仕事の効率が三倍になり、文官たちの精神衛生が改善されるのだから、世の中何が役に立つかわからない。
しかし、今日の執務室は、いつもの「戦場」とは少し違う空気に包まれていた。 ピリピリとした緊張感。 まるで、導火線に火がついた爆弾を前にしているような、張り詰めた重苦しさ。
原因は、隣国との「国境線画定問題」だった。
我がラングハイム王国の西に位置する、軍事大国ガレリア帝国。 数年前から国境付近での小競り合いが絶えず、最近になってようやく「平和的な話し合いで国境線を確定させよう」という機運が高まったのだが……。
「……ふざけた要求だ」
バンッ! クラウス様が、革張りの机を拳で叩いた。 その音に、室内の全員(私含む)がビクッと肩を跳ねさせる。
彼の手元にあるのは、帝国から送られてきた最終交渉案の書類だ。
「両国の緩衝地帯となっている『霧の谷』全域の割譲だと? あそこには我が国の重要な鉱山がある。それを明け渡せというのは、実質的な降伏勧告に等しい」
クラウス様の声は低く、地を這うような怒りを孕んでいた。 周りを囲む外務省のエリート官僚たちも、顔を青くして俯いている。
「し、しかし閣下。帝国側は『谷の帰属権は歴史的に我が国にある』と強硬です。もしこの要求を飲まなければ、国境付近に展開している軍を動かすと……」
「脅しか。野蛮な連中め」
クラウス様は舌打ちをした。 美しい顔が歪み、氷の瞳がギラリと光る。 怖い。 今の彼は、私を甘やかす「デレ宰相」ではない。 冷徹無比な「氷の閣下」モードだ。
私はソファの上で、気配を消して縮こまっていた。 こういう時は、動かないに限る。 下手に動いて視界に入れば、「エリス、君はどう思う?」なんて無茶振りをされかねない。 国境問題なんて、前世で歴史の授業を居眠りしていた私にわかるはずがないのだ。
(ああ、お腹痛い……。早く帰りたい……)
私は心の中で念仏のように唱えながら、冷めかけた紅茶を啜った。
◇
午後。 事態はさらに悪化した。 帝国からの使節団が到着し、緊急の御前会議が開かれることになったのだ。 しかし、それに先立ち、まずは宰相執務室での事前協議が行われることになった。
執務室の巨大なテーブルには、国境付近の詳細な地図が広げられている。 クラウス様を中心に、外務大臣、軍務大臣、そして数名の将軍たちが顔を突き合わせている。 錚々たるメンバーだ。 この国の運命を握るおじさまたちが、しかめっ面で地図を睨んでいる。
そしてなぜか、私もその場に同席させられていた。
「エリス、君も見ていてくれ」
クラウス様が当然のように言ったからだ。 「君の純粋な視点が、行き詰まった我々に光を与えてくれるかもしれない」と。
買いかぶりすぎです。 私の視点は「今日の夕飯は何かな」くらいしか考えていません。
私は辞退したかったが、クラウス様の縋るような目(というか「離れたくない」という独占欲)に負け、テーブルの端っこ、地図の下側あたりにちょこんと立つことになった。 邪魔にならないよう、息を潜める。
「……やはり、このラインで妥協するしかあるまい」
重い口を開いたのは、白髪の外務大臣だった。 彼は地図上の『霧の谷』の中央に、指で線を引く。
「谷の半分を割譲し、その代わりに不可侵条約を結ぶ。鉱山の一部は失うが、戦争になるよりはマシだ」
「馬鹿な!」 軍務大臣が机を叩く。 「半分でも渡してみろ! そこを拠点に奴らは必ず攻め込んでくるぞ! 地形的に不利になるのはこちらだ!」
「ではどうしろと言うのだ! 我々の軍事力では、帝国の機甲師団とは正面から戦えんのだぞ!」
「弱腰外交が! だから舐められるんだ!」
怒号が飛び交う。 おじさまたちの顔が真っ赤になり、唾が飛ぶ。 議論は平行線だ。
クラウス様は腕を組み、眉間に深い皺を刻んで沈黙していた。 彼の頭脳をもってしても、この状況は厳しいらしい。 軍事力で劣る以上、外交交渉で勝つには「切り札」が必要だ。しかし、今の王国にはそれがない。
空気が重い。 息苦しい。 私はその場から逃げ出したかったが、足がすくんで動けない。
その時。 私の目の前――テーブルの端に置いてあったインク壺が、将軍の一人が机を叩いた振動で、カタカタと揺れた。
あっ。 危ない。
インク壺は蓋が開いている。 もし倒れれば、この貴重な地図(羊皮紙の特大サイズで、描き直すのに数ヶ月かかるやつ)が真っ黒になってしまう。 そうなれば、会議は中断。クラウス様の機嫌は最悪になり、関係者は処刑……まではいかなくとも、大目玉を食らうだろう。
私は反射的に動いた。
(倒れる!)
私は慌てて手を伸ばし、揺れるインク壺を押さえようとした。 しかし、緊張で指先が震えていたせいで、手元が狂った。
バシッ!
私の指先はインク壺ではなく、その手前にあった地図の端を勢いよく叩いてしまった。 ダンッ!! 結構いい音がした。
シーン……。
会議室が静まり返った。 言い争っていた大臣たちが、一斉に私を見た。 クラウス様も、驚いた顔で私を見ている。
や、やっちまった。 会議の邪魔をしてしまった。 しかも、地図をバンと叩くなんて、まるで「いい加減にしなさい!」と怒っているみたいじゃないか。
私は顔面蒼白になった。 ごめんなさい。違います。インクがこぼれそうだっただけなんです。 弁解しようと口を開くが、恐怖で声が出ない。 指先は、地図の上の一点を強く押さえたままだ。
離せない。 今、指を離したら、「なんで叩いたんだ?」と問い詰められる。 どうしよう、どうしよう。 私は必死に視線を泳がせ、助けを求めるようにクラウス様を見た。
すると、クラウス様は私の顔ではなく、私の指先――地図の上のその一点を、じっと凝視していた。
「……そこは?」
彼の目が、スッと細められた。 え? そこ? どこ?
私が指差しているのは、『霧の谷』のさらに奥、帝国の領土内にある、何もない荒野だ。 国境線からも離れているし、争点となっている鉱山でもない。 ただの空白地帯だ。
クラウス様はゆっくりと立ち上がり、私の指差す場所へ顔を近づけた。 そして、呟いた。
「……なるほど。そういうことか」
えっ?
クラウス様の瞳に、急激に光が戻っていく。 さっきまでの行き詰まりが嘘のように、理知の輝きが満ちていく。 彼は顔を上げ、私に向かって、見たこともないほど獰猛で、かつ美しい笑みを向けた。
「盲点だった。……そうだ、我々は『谷』にばかり気を取られていた。だが、エリスが指し示したこの場所こそが、帝国の急所だったのだ」
はあ? 急所? ただの荒野ですよ?
外務大臣が恐る恐る尋ねる。 「か、閣下? そこは『渇きの荒野』と呼ばれる不毛の地ですが……?」
「不毛? いや、違う。……おい、古地図を持ってこい。百年前の水脈調査の記録だ!」
クラウス様の命令で、文官たちが走り出す。 すぐにカビ臭い古い巻物が運び込まれた。 クラウス様はそれを広げ、現在の地図と重ね合わせる。
「やはりだ……!」
彼は興奮気味に、私の指差した場所をトントンと叩いた。
「ここはかつて、巨大な地下水脈があった場所だ。地殻変動で埋もれたと思われていたが、最近の帝国の動き……この周辺での極秘の土木工事……それらを繋ぎ合わせると、一つの事実が浮かび上がる」
彼は全員を見渡し、断言した。
「帝国は、この『隠し水源』を掘り当てようとしている。いや、既に掘り当てたのかもしれない。彼らの狙いは鉱山ではない。この水資源を独占し、我が国への供給を断つことで、国全体を干上がらせることだ」
ざわっ……! 大臣たちが色めき立つ。
「水……だと!?」 「確かに、我が国の河川の源流は帝国内にある。もしそこを堰き止められれば……」 「鉱山どころの話ではない! 国家存亡の危機だ!」
クラウス様はニヤリと笑った。
「だが、逆に言えば、彼らが隠そうとしているこの事実を我々が握れば、形勢は逆転する。『水源の共同管理権を認めなければ、この事実を周辺諸国に公表する』と揺さぶりをかければいい。水独占を企む帝国に対し、国際世論は必ず反発する」
「おお……!」 「その手があったか!」 「それなら勝てる! 交渉の主導権を握れるぞ!」
おじさまたちの目が輝き出す。 絶望的な空気だった会議室が、一気に「勝てるムード」に変わった。
そして、その全員の視線が、再び私に集中した。
「すごい……」 「エリス嬢は、一目見てそれを見抜いたというのか?」 「あの『渇きの荒野』に隠された秘密を?」 「我々が何時間議論しても気づかなかった盲点を、指一本で……!」
外務大臣が、震える声で言った。 「彼女は……地図から『水』の気配を感じ取ったのかもしれん。古来より、聖女には水脈を見つける力があると言うし……」
待って。 聖女説が補強されてる。 私はインク壺が倒れそうだったから、慌てて変なところを押さえただけです。 水脈とか知りません。 ダウジング能力とかありません。
しかし、クラウス様は私の肩を抱き寄せ、誇らしげに宣言した。
「これこそが、私の婚約者だ。彼女の沈黙は、無知ゆえのものではない。全てを見通し、言葉にするまでもない真実を、行動で示してくれているのだ」
彼は私を見下ろし、甘い声で囁いた。
「ありがとう、エリス。君のおかげで、国が救われた。……君は私の勝利の女神だ」
私は……もう何も言えなかった。 ここで「偶然です」と言えば、この盛り上がった空気に冷や水を浴びせることになる。 それはそれで処刑されそうだ。
私は引きつった顔で、コクコクと頷いた。 「はい、そうです。全て計算通りです」という顔をして。 内心では(誰か助けて、胃薬をください)と叫びながら。
◇
その後の展開は早かった。 クラウス様は直ちに交渉団を再編成し、帝国使節団との会談に臨んだ。 切り札を手に入れた彼は無敵だった。 「隠し水源」の情報を突きつけられた帝国側は、顔面蒼白になり、しどろもどろになったという。
結果。 『霧の谷』の国境線は現状維持。 さらに、水源に関する不可侵条約まで結ばせるという、王国側の完全勝利に終わった。
この功績は、全て「クラウス宰相の卓越した外交手腕」として歴史に刻まれるはずだった。 しかし、現場にいた大臣たちの口から、真実(という名の誤解)が漏れ伝わった。
『宰相閣下を勝利に導いたのは、婚約者のエリス嬢だ』 『彼女が天啓のように地図を指し示した』 『沈黙の聖女が、国を救った』
王宮内で、私の評価は天井知らずに上がっていった。 もはや「アデル王太子の元婚約者」などという肩書きは消え失せ、「国の守護者」「予言の令嬢」といった、恐ろしい二つ名が増えていく。
◇
数日後。 私は再び、王宮の夜会に参加していた。 今回は、隣国との交渉成立を祝う祝賀パーティーだ。
会場は、前回のアデル王太子の断罪劇があった場所と同じ大広間。 しかし、私を取り巻く空気は、前回とは天と地ほど違っていた。
「エリス様、本日はおめでとうございます」 「素晴らしいご活躍でしたね」 「貴女様の聡明さは、我が国の誇りです」
次々と挨拶に来る貴族たち。 かつて私を「悪女」と呼んだ同じ口で、今は称賛の言葉を並べ立てている。 現金なものだ。
私はクラウス様の腕に捕まりながら、無言で微笑み(筋肉痛)続けていた。 喋ったらボロが出る。 「ありがとうございます」の一言ですら、声が裏返りそうで怖い。
クラウス様は上機嫌だった。 私の腰に手を回し、見せびらかすように会場を練り歩く。
「そうだ、彼女のおかげだ。彼女がいなければ、今頃戦争になっていたかもしれん」
自慢げに話す彼を見ていると、なんだか申し訳なくなってくる。 いつか真実がバレた時、彼はどれほど失望するだろう。 それを考えると、胸がチクリと痛んだ。
ふと、視線を感じた。 会場の隅。 柱の陰に、見覚えのある金髪の青年が立っていた。
アデル王太子だ。 彼はやつれた顔で、じっとこちらを見ていた。 その目は、以前のような軽蔑や憎悪ではなく……後悔と、未練に満ちていた。
彼と目が合う。 私はビクリとしたが、クラウス様がすぐに気づき、私の視線を遮るように立ちはだかった。
「……見なくていい。雑音だ」
クラウス様は冷たく言い放つと、私の顎を指で持ち上げ、自分の方へ向かせた。
「君は私だけを見ていればいい。……今夜は、君の功績を称えて、とびきりのダンスを踊ろう」
ダンス。 そういえば、次の曲はワルツだ。
待って。 私、ダンス苦手なんです。 前世でもよくアデルの足を踏んで怒られていました。 運動神経が壊滅的なんです。
「あ、あの……(無理です)」
私は首を横に振ろうとした。 しかし、音楽が始まってしまった。 優雅な調べに乗せて、クラウス様が私の手を取り、フロアの中央へと導いていく。
逃げ場はない。 衆人環視の中、宰相閣下と「沈黙の聖女」のファーストダンスが始まろうとしていた。
(踏む。絶対に踏む。そして転ぶ)
私の予感は、たいてい悪い方に的中する。 次回、私の運動音痴が、またしても奇跡(と勘違い)を引き起こすことになるなんて、この時の私はまだ知らなかった。
そして、その様子を憎々しげに見つめるミリアの姿があることも……。
「……調子に乗るのも今のうちよ。次のダンスで、あんたのドレス、血祭りにあげてやるわ」
彼女の手には、怪しげな赤い液体が入った小瓶が握られていた。
日々の日課は変わらない。 朝、クラウス様の馬車で出勤し、執務室の特等席でお茶を飲み、時折引きつった笑顔を振りまく。 それだけで、書類仕事の効率が三倍になり、文官たちの精神衛生が改善されるのだから、世の中何が役に立つかわからない。
しかし、今日の執務室は、いつもの「戦場」とは少し違う空気に包まれていた。 ピリピリとした緊張感。 まるで、導火線に火がついた爆弾を前にしているような、張り詰めた重苦しさ。
原因は、隣国との「国境線画定問題」だった。
我がラングハイム王国の西に位置する、軍事大国ガレリア帝国。 数年前から国境付近での小競り合いが絶えず、最近になってようやく「平和的な話し合いで国境線を確定させよう」という機運が高まったのだが……。
「……ふざけた要求だ」
バンッ! クラウス様が、革張りの机を拳で叩いた。 その音に、室内の全員(私含む)がビクッと肩を跳ねさせる。
彼の手元にあるのは、帝国から送られてきた最終交渉案の書類だ。
「両国の緩衝地帯となっている『霧の谷』全域の割譲だと? あそこには我が国の重要な鉱山がある。それを明け渡せというのは、実質的な降伏勧告に等しい」
クラウス様の声は低く、地を這うような怒りを孕んでいた。 周りを囲む外務省のエリート官僚たちも、顔を青くして俯いている。
「し、しかし閣下。帝国側は『谷の帰属権は歴史的に我が国にある』と強硬です。もしこの要求を飲まなければ、国境付近に展開している軍を動かすと……」
「脅しか。野蛮な連中め」
クラウス様は舌打ちをした。 美しい顔が歪み、氷の瞳がギラリと光る。 怖い。 今の彼は、私を甘やかす「デレ宰相」ではない。 冷徹無比な「氷の閣下」モードだ。
私はソファの上で、気配を消して縮こまっていた。 こういう時は、動かないに限る。 下手に動いて視界に入れば、「エリス、君はどう思う?」なんて無茶振りをされかねない。 国境問題なんて、前世で歴史の授業を居眠りしていた私にわかるはずがないのだ。
(ああ、お腹痛い……。早く帰りたい……)
私は心の中で念仏のように唱えながら、冷めかけた紅茶を啜った。
◇
午後。 事態はさらに悪化した。 帝国からの使節団が到着し、緊急の御前会議が開かれることになったのだ。 しかし、それに先立ち、まずは宰相執務室での事前協議が行われることになった。
執務室の巨大なテーブルには、国境付近の詳細な地図が広げられている。 クラウス様を中心に、外務大臣、軍務大臣、そして数名の将軍たちが顔を突き合わせている。 錚々たるメンバーだ。 この国の運命を握るおじさまたちが、しかめっ面で地図を睨んでいる。
そしてなぜか、私もその場に同席させられていた。
「エリス、君も見ていてくれ」
クラウス様が当然のように言ったからだ。 「君の純粋な視点が、行き詰まった我々に光を与えてくれるかもしれない」と。
買いかぶりすぎです。 私の視点は「今日の夕飯は何かな」くらいしか考えていません。
私は辞退したかったが、クラウス様の縋るような目(というか「離れたくない」という独占欲)に負け、テーブルの端っこ、地図の下側あたりにちょこんと立つことになった。 邪魔にならないよう、息を潜める。
「……やはり、このラインで妥協するしかあるまい」
重い口を開いたのは、白髪の外務大臣だった。 彼は地図上の『霧の谷』の中央に、指で線を引く。
「谷の半分を割譲し、その代わりに不可侵条約を結ぶ。鉱山の一部は失うが、戦争になるよりはマシだ」
「馬鹿な!」 軍務大臣が机を叩く。 「半分でも渡してみろ! そこを拠点に奴らは必ず攻め込んでくるぞ! 地形的に不利になるのはこちらだ!」
「ではどうしろと言うのだ! 我々の軍事力では、帝国の機甲師団とは正面から戦えんのだぞ!」
「弱腰外交が! だから舐められるんだ!」
怒号が飛び交う。 おじさまたちの顔が真っ赤になり、唾が飛ぶ。 議論は平行線だ。
クラウス様は腕を組み、眉間に深い皺を刻んで沈黙していた。 彼の頭脳をもってしても、この状況は厳しいらしい。 軍事力で劣る以上、外交交渉で勝つには「切り札」が必要だ。しかし、今の王国にはそれがない。
空気が重い。 息苦しい。 私はその場から逃げ出したかったが、足がすくんで動けない。
その時。 私の目の前――テーブルの端に置いてあったインク壺が、将軍の一人が机を叩いた振動で、カタカタと揺れた。
あっ。 危ない。
インク壺は蓋が開いている。 もし倒れれば、この貴重な地図(羊皮紙の特大サイズで、描き直すのに数ヶ月かかるやつ)が真っ黒になってしまう。 そうなれば、会議は中断。クラウス様の機嫌は最悪になり、関係者は処刑……まではいかなくとも、大目玉を食らうだろう。
私は反射的に動いた。
(倒れる!)
私は慌てて手を伸ばし、揺れるインク壺を押さえようとした。 しかし、緊張で指先が震えていたせいで、手元が狂った。
バシッ!
私の指先はインク壺ではなく、その手前にあった地図の端を勢いよく叩いてしまった。 ダンッ!! 結構いい音がした。
シーン……。
会議室が静まり返った。 言い争っていた大臣たちが、一斉に私を見た。 クラウス様も、驚いた顔で私を見ている。
や、やっちまった。 会議の邪魔をしてしまった。 しかも、地図をバンと叩くなんて、まるで「いい加減にしなさい!」と怒っているみたいじゃないか。
私は顔面蒼白になった。 ごめんなさい。違います。インクがこぼれそうだっただけなんです。 弁解しようと口を開くが、恐怖で声が出ない。 指先は、地図の上の一点を強く押さえたままだ。
離せない。 今、指を離したら、「なんで叩いたんだ?」と問い詰められる。 どうしよう、どうしよう。 私は必死に視線を泳がせ、助けを求めるようにクラウス様を見た。
すると、クラウス様は私の顔ではなく、私の指先――地図の上のその一点を、じっと凝視していた。
「……そこは?」
彼の目が、スッと細められた。 え? そこ? どこ?
私が指差しているのは、『霧の谷』のさらに奥、帝国の領土内にある、何もない荒野だ。 国境線からも離れているし、争点となっている鉱山でもない。 ただの空白地帯だ。
クラウス様はゆっくりと立ち上がり、私の指差す場所へ顔を近づけた。 そして、呟いた。
「……なるほど。そういうことか」
えっ?
クラウス様の瞳に、急激に光が戻っていく。 さっきまでの行き詰まりが嘘のように、理知の輝きが満ちていく。 彼は顔を上げ、私に向かって、見たこともないほど獰猛で、かつ美しい笑みを向けた。
「盲点だった。……そうだ、我々は『谷』にばかり気を取られていた。だが、エリスが指し示したこの場所こそが、帝国の急所だったのだ」
はあ? 急所? ただの荒野ですよ?
外務大臣が恐る恐る尋ねる。 「か、閣下? そこは『渇きの荒野』と呼ばれる不毛の地ですが……?」
「不毛? いや、違う。……おい、古地図を持ってこい。百年前の水脈調査の記録だ!」
クラウス様の命令で、文官たちが走り出す。 すぐにカビ臭い古い巻物が運び込まれた。 クラウス様はそれを広げ、現在の地図と重ね合わせる。
「やはりだ……!」
彼は興奮気味に、私の指差した場所をトントンと叩いた。
「ここはかつて、巨大な地下水脈があった場所だ。地殻変動で埋もれたと思われていたが、最近の帝国の動き……この周辺での極秘の土木工事……それらを繋ぎ合わせると、一つの事実が浮かび上がる」
彼は全員を見渡し、断言した。
「帝国は、この『隠し水源』を掘り当てようとしている。いや、既に掘り当てたのかもしれない。彼らの狙いは鉱山ではない。この水資源を独占し、我が国への供給を断つことで、国全体を干上がらせることだ」
ざわっ……! 大臣たちが色めき立つ。
「水……だと!?」 「確かに、我が国の河川の源流は帝国内にある。もしそこを堰き止められれば……」 「鉱山どころの話ではない! 国家存亡の危機だ!」
クラウス様はニヤリと笑った。
「だが、逆に言えば、彼らが隠そうとしているこの事実を我々が握れば、形勢は逆転する。『水源の共同管理権を認めなければ、この事実を周辺諸国に公表する』と揺さぶりをかければいい。水独占を企む帝国に対し、国際世論は必ず反発する」
「おお……!」 「その手があったか!」 「それなら勝てる! 交渉の主導権を握れるぞ!」
おじさまたちの目が輝き出す。 絶望的な空気だった会議室が、一気に「勝てるムード」に変わった。
そして、その全員の視線が、再び私に集中した。
「すごい……」 「エリス嬢は、一目見てそれを見抜いたというのか?」 「あの『渇きの荒野』に隠された秘密を?」 「我々が何時間議論しても気づかなかった盲点を、指一本で……!」
外務大臣が、震える声で言った。 「彼女は……地図から『水』の気配を感じ取ったのかもしれん。古来より、聖女には水脈を見つける力があると言うし……」
待って。 聖女説が補強されてる。 私はインク壺が倒れそうだったから、慌てて変なところを押さえただけです。 水脈とか知りません。 ダウジング能力とかありません。
しかし、クラウス様は私の肩を抱き寄せ、誇らしげに宣言した。
「これこそが、私の婚約者だ。彼女の沈黙は、無知ゆえのものではない。全てを見通し、言葉にするまでもない真実を、行動で示してくれているのだ」
彼は私を見下ろし、甘い声で囁いた。
「ありがとう、エリス。君のおかげで、国が救われた。……君は私の勝利の女神だ」
私は……もう何も言えなかった。 ここで「偶然です」と言えば、この盛り上がった空気に冷や水を浴びせることになる。 それはそれで処刑されそうだ。
私は引きつった顔で、コクコクと頷いた。 「はい、そうです。全て計算通りです」という顔をして。 内心では(誰か助けて、胃薬をください)と叫びながら。
◇
その後の展開は早かった。 クラウス様は直ちに交渉団を再編成し、帝国使節団との会談に臨んだ。 切り札を手に入れた彼は無敵だった。 「隠し水源」の情報を突きつけられた帝国側は、顔面蒼白になり、しどろもどろになったという。
結果。 『霧の谷』の国境線は現状維持。 さらに、水源に関する不可侵条約まで結ばせるという、王国側の完全勝利に終わった。
この功績は、全て「クラウス宰相の卓越した外交手腕」として歴史に刻まれるはずだった。 しかし、現場にいた大臣たちの口から、真実(という名の誤解)が漏れ伝わった。
『宰相閣下を勝利に導いたのは、婚約者のエリス嬢だ』 『彼女が天啓のように地図を指し示した』 『沈黙の聖女が、国を救った』
王宮内で、私の評価は天井知らずに上がっていった。 もはや「アデル王太子の元婚約者」などという肩書きは消え失せ、「国の守護者」「予言の令嬢」といった、恐ろしい二つ名が増えていく。
◇
数日後。 私は再び、王宮の夜会に参加していた。 今回は、隣国との交渉成立を祝う祝賀パーティーだ。
会場は、前回のアデル王太子の断罪劇があった場所と同じ大広間。 しかし、私を取り巻く空気は、前回とは天と地ほど違っていた。
「エリス様、本日はおめでとうございます」 「素晴らしいご活躍でしたね」 「貴女様の聡明さは、我が国の誇りです」
次々と挨拶に来る貴族たち。 かつて私を「悪女」と呼んだ同じ口で、今は称賛の言葉を並べ立てている。 現金なものだ。
私はクラウス様の腕に捕まりながら、無言で微笑み(筋肉痛)続けていた。 喋ったらボロが出る。 「ありがとうございます」の一言ですら、声が裏返りそうで怖い。
クラウス様は上機嫌だった。 私の腰に手を回し、見せびらかすように会場を練り歩く。
「そうだ、彼女のおかげだ。彼女がいなければ、今頃戦争になっていたかもしれん」
自慢げに話す彼を見ていると、なんだか申し訳なくなってくる。 いつか真実がバレた時、彼はどれほど失望するだろう。 それを考えると、胸がチクリと痛んだ。
ふと、視線を感じた。 会場の隅。 柱の陰に、見覚えのある金髪の青年が立っていた。
アデル王太子だ。 彼はやつれた顔で、じっとこちらを見ていた。 その目は、以前のような軽蔑や憎悪ではなく……後悔と、未練に満ちていた。
彼と目が合う。 私はビクリとしたが、クラウス様がすぐに気づき、私の視線を遮るように立ちはだかった。
「……見なくていい。雑音だ」
クラウス様は冷たく言い放つと、私の顎を指で持ち上げ、自分の方へ向かせた。
「君は私だけを見ていればいい。……今夜は、君の功績を称えて、とびきりのダンスを踊ろう」
ダンス。 そういえば、次の曲はワルツだ。
待って。 私、ダンス苦手なんです。 前世でもよくアデルの足を踏んで怒られていました。 運動神経が壊滅的なんです。
「あ、あの……(無理です)」
私は首を横に振ろうとした。 しかし、音楽が始まってしまった。 優雅な調べに乗せて、クラウス様が私の手を取り、フロアの中央へと導いていく。
逃げ場はない。 衆人環視の中、宰相閣下と「沈黙の聖女」のファーストダンスが始まろうとしていた。
(踏む。絶対に踏む。そして転ぶ)
私の予感は、たいてい悪い方に的中する。 次回、私の運動音痴が、またしても奇跡(と勘違い)を引き起こすことになるなんて、この時の私はまだ知らなかった。
そして、その様子を憎々しげに見つめるミリアの姿があることも……。
「……調子に乗るのも今のうちよ。次のダンスで、あんたのドレス、血祭りにあげてやるわ」
彼女の手には、怪しげな赤い液体が入った小瓶が握られていた。
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