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46話「ミレイユの笑顔の裏」
監査官バイルを論理で退けたその日の午後。
辺境伯邸の静かな執務室で、セレナはバイルが渋々置いていった偽造帳簿の束を、改めて一枚ずつ丁寧に検分していた。
「……数字の矛盾こそ突けましたが、この偽造技術自体は見事なものです。筆跡の似せ方といい、羊皮紙の質といい、王宮の文書院で使われている特注品と瓜二つです。ローデリク侯爵が裏で専門の代書屋を動かしたのは間違いないでしょう」
セレナは羊皮紙を窓からの光に透かしながら言った。
だが、その時、ふと奇妙な感覚に囚われた。
紙の端に顔を近づけた瞬間、微かに甘く重い香りが鼻を掠めたのだ。北辺の冷たく澄んだ空気の中では、ひどく場違いで不快な、王都の温室を思わせる香水の匂い。
「……この匂いは」
セレナはわずかに目を細め、すぐに自分の机の引き出しを開けた。
そこから取り出したのは、以前王都から送られてきた一通の封筒。ミレイユ・ローディアからの、あの悪意と優越感に満ちた嘲笑の手紙だ。
二つの紙を並べ、静かに香りを嗅ぎ比べる。
「間違いありません。まったく同じ香水です」
「どういうことだ」
向かいに座り、報告書に目を通していたオスカーが、怪訝そうに眉をひそめて身を乗り出した。
「ローデリク侯爵が用意したはずの偽造帳簿に、なぜ王太子の新しい婚約者の香水の匂いが移っているんだ。偶然にしては不自然すぎる」
「偶然ではありません。彼女が、この偽造の過程に直接関与しているからです」
セレナは確信を持って断言した。
先日の、元侍女クラリスの証言が、頭の中で完璧な論理の線として繋がっていく。
「クラリスは、ミレイユ様が王太子の側近たちと結託し、私を陥れる噂を社交界に流したと証言しました。ですが、彼女の役割はただ噂を流すことだけではなかったのです」
セレナは偽造帳簿の束を机の真ん中に置いた。
「このレベルの偽造文書を王宮の内部で作成し、監査院の手に渡すには、文書院の役人や政務院の官僚たちを実際に動かす必要があります。ローデリク侯爵の権力からの命令だけでは、後難を恐れて不信感を抱く者もいたはずです。そこで、彼女の『愛嬌』が武器として使われたのです」
「愛嬌、だと?」
「はい。彼女は彼らの前で可憐で無力な令嬢を演じ、『殿下のために、あの恐ろしい悪役令嬢から国を守って』と涙を流して頼み込んだのでしょう。彼女のその甘い微笑みと、この香水の匂いに当てられた官僚たちが、自らが悲劇のヒロインを救う正義の騎士になったつもりで、喜んでこの偽造という犯罪に手を染めたのです」
ミレイユの真の武器は、ただ男に媚びることではない。
自分の弱さと可憐さを最大限に利用し、他人の庇護欲を刺激して、最も汚れの大きい実務や犯罪を無自覚に代行させる。それこそが、底辺の貴族から這い上がるための彼女の生存戦略であり、笑顔の裏に隠された真の恐ろしさだった。
「なるほどな。自分は手を汚さずに男を動かす、悪辣だが合理的な手口だ」
壁際で聞いていたイザークが、吐き捨てるように言った。
「ええ。ですが、この香水の匂いが書類に染み付いていることで、彼女自身がこの偽造文書の作成・運搬の場に立ち会っていたという物理的な接点が生まれました。クラリスの証言だけでは足りなかった『物証』が、今ここに揃ったのです」
セレナの瞳に、氷のような冷たい光が宿る。
自分を完膚なきまでに追い詰めるはずだった偽造文書が、逆に彼らの首を絞める最強の武器へと反転した瞬間だった。
証拠を隠そうと焦れば焦るほど、彼らは自らの致命的な痕跡を撒き散らしている。
「あとは、王都の文書院からエドガー司書官が無事に抜け出してくるのを待つだけですね」
セレナは香水の匂いが染み付いた羊皮紙を、冷ややかに証拠箱の中へ封印した。
王都の華やかな社交界で、愛嬌という仮面を被って踊り続ける女の足元が、今、確実に崩れ始めていた。
辺境伯邸の静かな執務室で、セレナはバイルが渋々置いていった偽造帳簿の束を、改めて一枚ずつ丁寧に検分していた。
「……数字の矛盾こそ突けましたが、この偽造技術自体は見事なものです。筆跡の似せ方といい、羊皮紙の質といい、王宮の文書院で使われている特注品と瓜二つです。ローデリク侯爵が裏で専門の代書屋を動かしたのは間違いないでしょう」
セレナは羊皮紙を窓からの光に透かしながら言った。
だが、その時、ふと奇妙な感覚に囚われた。
紙の端に顔を近づけた瞬間、微かに甘く重い香りが鼻を掠めたのだ。北辺の冷たく澄んだ空気の中では、ひどく場違いで不快な、王都の温室を思わせる香水の匂い。
「……この匂いは」
セレナはわずかに目を細め、すぐに自分の机の引き出しを開けた。
そこから取り出したのは、以前王都から送られてきた一通の封筒。ミレイユ・ローディアからの、あの悪意と優越感に満ちた嘲笑の手紙だ。
二つの紙を並べ、静かに香りを嗅ぎ比べる。
「間違いありません。まったく同じ香水です」
「どういうことだ」
向かいに座り、報告書に目を通していたオスカーが、怪訝そうに眉をひそめて身を乗り出した。
「ローデリク侯爵が用意したはずの偽造帳簿に、なぜ王太子の新しい婚約者の香水の匂いが移っているんだ。偶然にしては不自然すぎる」
「偶然ではありません。彼女が、この偽造の過程に直接関与しているからです」
セレナは確信を持って断言した。
先日の、元侍女クラリスの証言が、頭の中で完璧な論理の線として繋がっていく。
「クラリスは、ミレイユ様が王太子の側近たちと結託し、私を陥れる噂を社交界に流したと証言しました。ですが、彼女の役割はただ噂を流すことだけではなかったのです」
セレナは偽造帳簿の束を机の真ん中に置いた。
「このレベルの偽造文書を王宮の内部で作成し、監査院の手に渡すには、文書院の役人や政務院の官僚たちを実際に動かす必要があります。ローデリク侯爵の権力からの命令だけでは、後難を恐れて不信感を抱く者もいたはずです。そこで、彼女の『愛嬌』が武器として使われたのです」
「愛嬌、だと?」
「はい。彼女は彼らの前で可憐で無力な令嬢を演じ、『殿下のために、あの恐ろしい悪役令嬢から国を守って』と涙を流して頼み込んだのでしょう。彼女のその甘い微笑みと、この香水の匂いに当てられた官僚たちが、自らが悲劇のヒロインを救う正義の騎士になったつもりで、喜んでこの偽造という犯罪に手を染めたのです」
ミレイユの真の武器は、ただ男に媚びることではない。
自分の弱さと可憐さを最大限に利用し、他人の庇護欲を刺激して、最も汚れの大きい実務や犯罪を無自覚に代行させる。それこそが、底辺の貴族から這い上がるための彼女の生存戦略であり、笑顔の裏に隠された真の恐ろしさだった。
「なるほどな。自分は手を汚さずに男を動かす、悪辣だが合理的な手口だ」
壁際で聞いていたイザークが、吐き捨てるように言った。
「ええ。ですが、この香水の匂いが書類に染み付いていることで、彼女自身がこの偽造文書の作成・運搬の場に立ち会っていたという物理的な接点が生まれました。クラリスの証言だけでは足りなかった『物証』が、今ここに揃ったのです」
セレナの瞳に、氷のような冷たい光が宿る。
自分を完膚なきまでに追い詰めるはずだった偽造文書が、逆に彼らの首を絞める最強の武器へと反転した瞬間だった。
証拠を隠そうと焦れば焦るほど、彼らは自らの致命的な痕跡を撒き散らしている。
「あとは、王都の文書院からエドガー司書官が無事に抜け出してくるのを待つだけですね」
セレナは香水の匂いが染み付いた羊皮紙を、冷ややかに証拠箱の中へ封印した。
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