悪役令嬢ですが、二度目は無能で通します……なので執事は黙っててください

放浪人

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第2話 無能宣言

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扉の向こうの気配に、私は息を呑む。
この屋敷で、ノックもせずに主人の寝室の前に立ち、気配だけで存在を主張する人間は一人しかいない。

「……入りなさい、レージ」

声を張り上げようとして、やめた。
喉がまだ渇いていて、弱々しい声しか出ない。
だが、それこそが今の私には都合が良かった。

カチャリ。
金属が噛み合うわずかな音がして、重厚な扉が無音で開く。

「失礼いたします、リディア様」

現れたのは、闇夜を切り取ったような黒髪の青年だった。
執事服の袖口から覗く白手袋。その布が擦れる微かな音が、妙に耳に残る。
レージ・ヴァルト。
幼い頃から私に仕える専属執事であり、私の家の影の部分を一手に担う男。
そして前回の人生で、最後まで私の側にいながら、断罪の瞬間にはその姿が見えなかった人物。

「うなされておいででしたか」

問いかけではなく、確認だった。
彼はすでに、私が汗ばんでいることや、呼吸が乱れていることを観察し終えている。
ベッドサイドに歩み寄ると、手際よく銀の水差しから水を注ぎ、私に差し出した。

「……ありがとう」

グラスを受け取る指が震える。
レージの視線が、その震えを見逃さずになぞった気がした。

私は水を一気に煽り、決意を言葉にする。
彼を味方につけなければ、私の「無能計画」は始まらない。だが、彼は有能すぎる。私の嘘など簡単に見抜くだろう。
だから、嘘をつくのはやめた。
「方針」として伝えるのだ。

「レージ。私は疲れたの」

「左様でございますか」

「王都の社交も、王太子殿下のご機嫌取りも、領地の経営を見るのも、もう限界よ。私は……自分が思うほど、賢くなかったみたい」

レージが、グラスを受け取りながら私を見る。
その瞳は静かな湖のようで、底が見えない。

「私はこれから、何も考えずに暮らしたいの。北の白夜領へ行って、療養という名目で引きこもるわ。面倒なことは全部やめる。数字も、契約も、もう見たくない」

一息に言い切る。
公爵令嬢としてあるまじき、無責任な逃避宣言。
普通の執事なら、「何を仰いますか」「お戯れを」と諌める場面だ。

けれど、レージは黙っていた。
ただ静かに、私を見下ろしている。
その沈黙が、言葉以上の圧を持って私に降り注ぐ。
肯定も否定もしない。ただ、私がさらに言葉を重ねて、ボロを出すのを待っているかのような「間」。

(負けない。私は、もう決めたんだから)

私は視線を逸らさず、彼を見上げた。
これは主人としての命令だ。
無能な私を、無能なまま扱えという命令。

「二度目は……いいえ、これからは無能で通すわ。だからレージ、あなたは黙ってて」

私の失言も、怠慢も、全て黙認して。
そう告げると、レージの表情がふわりと動いた。
それは氷が解けるような、けれどどこか温度を感じさせない、完璧な微笑みだった。

「――承りました」

たった一言。
彼は深く一礼する。
その所作があまりに美しくて、私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
彼は、理由を聞かなかった。
「なぜ」とも、「いつから」とも。
まるで、最初からそうなることを知っていたかのように。

「では、直ちに準備を始めましょう」

顔を上げたレージの瞳が、優しく細められる。
その優しさが、今はなぜか、底知れない落とし穴のように見えた。
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