2 / 61
第2話 無能宣言
しおりを挟む
扉の向こうの気配に、私は息を呑む。
この屋敷で、ノックもせずに主人の寝室の前に立ち、気配だけで存在を主張する人間は一人しかいない。
「……入りなさい、レージ」
声を張り上げようとして、やめた。
喉がまだ渇いていて、弱々しい声しか出ない。
だが、それこそが今の私には都合が良かった。
カチャリ。
金属が噛み合うわずかな音がして、重厚な扉が無音で開く。
「失礼いたします、リディア様」
現れたのは、闇夜を切り取ったような黒髪の青年だった。
執事服の袖口から覗く白手袋。その布が擦れる微かな音が、妙に耳に残る。
レージ・ヴァルト。
幼い頃から私に仕える専属執事であり、私の家の影の部分を一手に担う男。
そして前回の人生で、最後まで私の側にいながら、断罪の瞬間にはその姿が見えなかった人物。
「うなされておいででしたか」
問いかけではなく、確認だった。
彼はすでに、私が汗ばんでいることや、呼吸が乱れていることを観察し終えている。
ベッドサイドに歩み寄ると、手際よく銀の水差しから水を注ぎ、私に差し出した。
「……ありがとう」
グラスを受け取る指が震える。
レージの視線が、その震えを見逃さずになぞった気がした。
私は水を一気に煽り、決意を言葉にする。
彼を味方につけなければ、私の「無能計画」は始まらない。だが、彼は有能すぎる。私の嘘など簡単に見抜くだろう。
だから、嘘をつくのはやめた。
「方針」として伝えるのだ。
「レージ。私は疲れたの」
「左様でございますか」
「王都の社交も、王太子殿下のご機嫌取りも、領地の経営を見るのも、もう限界よ。私は……自分が思うほど、賢くなかったみたい」
レージが、グラスを受け取りながら私を見る。
その瞳は静かな湖のようで、底が見えない。
「私はこれから、何も考えずに暮らしたいの。北の白夜領へ行って、療養という名目で引きこもるわ。面倒なことは全部やめる。数字も、契約も、もう見たくない」
一息に言い切る。
公爵令嬢としてあるまじき、無責任な逃避宣言。
普通の執事なら、「何を仰いますか」「お戯れを」と諌める場面だ。
けれど、レージは黙っていた。
ただ静かに、私を見下ろしている。
その沈黙が、言葉以上の圧を持って私に降り注ぐ。
肯定も否定もしない。ただ、私がさらに言葉を重ねて、ボロを出すのを待っているかのような「間」。
(負けない。私は、もう決めたんだから)
私は視線を逸らさず、彼を見上げた。
これは主人としての命令だ。
無能な私を、無能なまま扱えという命令。
「二度目は……いいえ、これからは無能で通すわ。だからレージ、あなたは黙ってて」
私の失言も、怠慢も、全て黙認して。
そう告げると、レージの表情がふわりと動いた。
それは氷が解けるような、けれどどこか温度を感じさせない、完璧な微笑みだった。
「――承りました」
たった一言。
彼は深く一礼する。
その所作があまりに美しくて、私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
彼は、理由を聞かなかった。
「なぜ」とも、「いつから」とも。
まるで、最初からそうなることを知っていたかのように。
「では、直ちに準備を始めましょう」
顔を上げたレージの瞳が、優しく細められる。
その優しさが、今はなぜか、底知れない落とし穴のように見えた。
この屋敷で、ノックもせずに主人の寝室の前に立ち、気配だけで存在を主張する人間は一人しかいない。
「……入りなさい、レージ」
声を張り上げようとして、やめた。
喉がまだ渇いていて、弱々しい声しか出ない。
だが、それこそが今の私には都合が良かった。
カチャリ。
金属が噛み合うわずかな音がして、重厚な扉が無音で開く。
「失礼いたします、リディア様」
現れたのは、闇夜を切り取ったような黒髪の青年だった。
執事服の袖口から覗く白手袋。その布が擦れる微かな音が、妙に耳に残る。
レージ・ヴァルト。
幼い頃から私に仕える専属執事であり、私の家の影の部分を一手に担う男。
そして前回の人生で、最後まで私の側にいながら、断罪の瞬間にはその姿が見えなかった人物。
「うなされておいででしたか」
問いかけではなく、確認だった。
彼はすでに、私が汗ばんでいることや、呼吸が乱れていることを観察し終えている。
ベッドサイドに歩み寄ると、手際よく銀の水差しから水を注ぎ、私に差し出した。
「……ありがとう」
グラスを受け取る指が震える。
レージの視線が、その震えを見逃さずになぞった気がした。
私は水を一気に煽り、決意を言葉にする。
彼を味方につけなければ、私の「無能計画」は始まらない。だが、彼は有能すぎる。私の嘘など簡単に見抜くだろう。
だから、嘘をつくのはやめた。
「方針」として伝えるのだ。
「レージ。私は疲れたの」
「左様でございますか」
「王都の社交も、王太子殿下のご機嫌取りも、領地の経営を見るのも、もう限界よ。私は……自分が思うほど、賢くなかったみたい」
レージが、グラスを受け取りながら私を見る。
その瞳は静かな湖のようで、底が見えない。
「私はこれから、何も考えずに暮らしたいの。北の白夜領へ行って、療養という名目で引きこもるわ。面倒なことは全部やめる。数字も、契約も、もう見たくない」
一息に言い切る。
公爵令嬢としてあるまじき、無責任な逃避宣言。
普通の執事なら、「何を仰いますか」「お戯れを」と諌める場面だ。
けれど、レージは黙っていた。
ただ静かに、私を見下ろしている。
その沈黙が、言葉以上の圧を持って私に降り注ぐ。
肯定も否定もしない。ただ、私がさらに言葉を重ねて、ボロを出すのを待っているかのような「間」。
(負けない。私は、もう決めたんだから)
私は視線を逸らさず、彼を見上げた。
これは主人としての命令だ。
無能な私を、無能なまま扱えという命令。
「二度目は……いいえ、これからは無能で通すわ。だからレージ、あなたは黙ってて」
私の失言も、怠慢も、全て黙認して。
そう告げると、レージの表情がふわりと動いた。
それは氷が解けるような、けれどどこか温度を感じさせない、完璧な微笑みだった。
「――承りました」
たった一言。
彼は深く一礼する。
その所作があまりに美しくて、私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
彼は、理由を聞かなかった。
「なぜ」とも、「いつから」とも。
まるで、最初からそうなることを知っていたかのように。
「では、直ちに準備を始めましょう」
顔を上げたレージの瞳が、優しく細められる。
その優しさが、今はなぜか、底知れない落とし穴のように見えた。
115
あなたにおすすめの小説
婚約者チェンジ? 義理の妹は公爵令嬢の地位もチェンジされました』 ~三日で破談、家ごと褫奪の末路です~
ふわふわ
恋愛
「お姉様の婚約者、私がいただきますわ。だって“公爵令嬢”ですもの」
義理の妹コンキュはそう言って、王太子との婚約を奪いました。
父はそれを容認し、私は静かに受け入れます。
けれど――
公爵令嬢とは“地位”ではなく、“責任”の継承者。
王宮で礼儀も実務も拒み、「未来の王太子妃」を名乗った義妹は、わずか三日で婚約破棄。
さらに王家への不敬と統治能力の欠如が問題視され、父の監督責任が問われます。
そして下されたのは――家ごとの褫奪。
一方で私は、領地を守り、帳簿を整え、静かに家を支え続ける。
欲しがったのは肩書。
継いだのは責任。
正統は叫びません。
ただ、残るだけ。
これは、婚約を奪われた公爵令嬢が
“本当に継がれるべきもの”を証明する物語。
断罪まであと5秒、今すぐ逆転始めます
山河 枝
ファンタジー
聖女が魔物と戦う乙女ゲーム。その聖女につかみかかったせいで処刑される令嬢アナベルに、転生してしまった。
でも私は知っている。実は、アナベルこそが本物の聖女。
それを証明すれば断罪回避できるはず。
幸い、処刑人が味方になりそうだし。モフモフ精霊たちも慕ってくれる。
チート魔法で魔物たちを一掃して、本物アピールしないと。
処刑5秒前だから、今すぐに!
王国最強の天才魔導士は、追放された悪役令嬢の息子でした
由香
ファンタジー
追放された悪役令嬢が選んだのは復讐ではなく、母として息子を守ること。
無自覚天才に育った息子は、魔法を遊び感覚で扱い、王国を震撼させてしまう。
再び招かれたのは、かつて母を追放した国。
礼儀正しく圧倒する息子と、静かに完全勝利する母。
これは、親子が選ぶ“最も美しいざまぁ”。
幽閉王女と指輪の精霊~嫁いだら幽閉された!餓死する前に脱出したい!~
二階堂吉乃
恋愛
同盟国へ嫁いだヴァイオレット姫。夫である王太子は初夜に現れなかった。たった1人幽閉される姫。やがて貧しい食事すら届かなくなる。長い幽閉の末、死にかけた彼女を救ったのは、家宝の指輪だった。
1年後。同盟国を訪れたヴァイオレットの従兄が彼女を発見する。忘れられた牢獄には姫のミイラがあった。激怒した従兄は同盟を破棄してしまう。
一方、下町に代書業で身を立てる美少女がいた。ヴィーと名を偽ったヴァイオレットは指輪の精霊と助けあいながら暮らしていた。そこへ元夫?である王太子が視察に来る。彼は下町を案内してくれたヴィーに恋をしてしまう…。
『処刑されるたびに12歳に戻る悪役令嬢、7回目の人生は「何もせず寝て過ごす」ことに決めたら、なぜか周囲が勝手に勘違いして聖女扱いされています
六角
恋愛
公爵令嬢リリアーナは、18歳の誕生日に必ず断罪・処刑されては12歳に戻るという地獄のループを6回も繰り返していた。 真面目に努力しても、剣を極めても、裏社会を支配しても、結局は殺される運命。 心折れた彼女は、7回目の人生でついに決意する。 「もう頑張らない。どうせ死ぬなら、今回はひたすら寝て過ごそう」と。
しかし、安眠を求めて「うるさい」と敵を黙らせれば『王者の覇気』と恐れられ、寝ぼけて放った魔法は『神の奇跡』と崇められ、枕への異常なこだわりは『深遠なる儀式』と誤解されてしまう。 気がつけば、ストーカー気味のヤンデレ王子、パン屋の元ヒロイン、狂犬の如きライバル令嬢、元部下の暗殺者、そして不眠症の魔王までもが彼女の信者となり、リリアーナは意図せずして国を、そして世界を救う「最強の聖女」へと祭り上げられていく。
「お願いだから、私を寝かせて!」 睡眠欲だけで運命(システム)さえもねじ伏せる、無気力悪役令嬢の痛快勘違いサクセス(?)ストーリー!
【完結】ひとつだけ、ご褒美いただけますか?――没落令嬢、氷の王子にお願いしたら溺愛されました。
猫屋敷むぎ
恋愛
没落伯爵家の娘の私、ノエル・カスティーユにとっては少し眩しすぎる学院の舞踏会で――
私の願いは一瞬にして踏みにじられました。
母が苦労して買ってくれた唯一の白いドレスは赤ワインに染められ、
婚約者ジルベールは私を見下ろしてこう言ったのです。
「君は、僕に恥をかかせたいのかい?」
まさか――あの優しい彼が?
そんなはずはない。そう信じていた私に、現実は冷たく突きつけられました。
子爵令嬢カトリーヌの冷笑と取り巻きの嘲笑。
でも、私には、味方など誰もいませんでした。
ただ一人、“氷の王子”カスパル殿下だけが。
白いハンカチを差し出し――その瞬間、止まっていた時間が静かに動き出したのです。
「……ひとつだけ、ご褒美いただけますか?」
やがて、勇気を振り絞って願った、小さな言葉。
それは、水底に沈んでいた私の人生をすくい上げ、
冷たい王子の心をそっと溶かしていく――最初の奇跡でした。
没落令嬢ノエルと、孤独な氷の王子カスパル。
これは、そんなじれじれなふたりが“本当の幸せを掴むまで”のお話です。
※全10話+番外編・約2.5万字の短編。一気読みもどうぞ
※わんこが繋ぐ恋物語です
※因果応報ざまぁ。最後は甘く、後味スッキリ
冷遇夫がお探しの私は、隣にいます
終日ひもの干す紐
恋愛
愛人がいるなら、さっさと言ってくれればいいのに!
妻に駆け落ちされた、傷心の辺境伯ロシェのもとへ嫁いでほしい。
シャノンが王命を受け、嫁いでから一年……とんでもない場面に立ち会ってしまう。
「サフィール……またそんなふうに僕を見つめて、かわいいね」
シャノンには冷たいの夫の、甘ったるい囁き。
扉の向こうの、不貞行為。
これまでの我慢も苦労も全て無駄になり、沸々と湧き上がる怒りを、ロシェの愛猫『アンブル』に愚痴った。
まさかそれが、こんなことになるなんて!
目が覚めると『アンブル』になっていたシャノン。
猫の姿に向けられる夫からの愛情。
夫ロシェの“本当の姿”を垣間見たシャノンは……?
* * *
他のサイトにも投稿しています。
私を裏切った夫が、後悔しているようですが知りません
藤原遊
恋愛
政略結婚として、公爵家に嫁いだ私は
愛のない夫婦関係を「仕事」だと思い、正妻の役目を果たしてきた。
夫が愛人を持つことも、
その子を屋敷に迎え入れることも、黙って受け入れてきた。
けれど――
跡取りを、正妻の子ではなく愛人の子にする。
その言葉を、人前で軽く口にした瞬間。
私は悟ったのだ。
この家では、息子を守れないと。
元々、実家との間には
「嫡子以外の子は実家の跡取りにする」という取り決めがあった。
ならば話は簡単だ。
役目を終えた私は、離縁を選ぶ。
息子と共に、この家を去るだけ。
後悔しているようですが――
もう、私の知るところではありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる