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眠る
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夜に鳴く蝉はいつ眠るのだろう。
それとも眠らないのか。
僕は夜の青さの中でそんなことを考えていた。もう深く日は沈み、幻の青空は消えて、宇宙の本来の色が風に揺蕩っている。
山の中腹を軽く切り拓いただけの公園には、街灯の一つもない。なので、明るい時にはそれなりに人出のあるこの場所に、今は僕一人だけが立っていた。
明るい時。正午の公園。懐かしい思い出だ。もう昼を見なくなって2年は経つ。目の機能低下を抑えるために、病院ではたまに紫外線のライトを浴びたりしていたが、その必要性も怪しい。僕は昼間には絶対起きられないのだから。
蝉の鳴く声が聞こえる。耳に入る音はそれだけ。じいじいとやかましいノイズ。動きのない景色。壊れたビデオの中みたいだ。夕焼けが終われば見るべきものもない場所だけれど、病院から離れられる距離は決まっているから、外に出るときには運動がてら、いつもこの公園に来ていた。
12時間しかない一日では、やれることをはっきり認識していないと道端で行き倒れることになる。実際はじめの三か月の間に、二回コンクリートをベッドにした。その反省もあって、今は大抵のことはネットで済ましている。外に出るのは図書館に行くか、公園で運動するか、あとは回転寿司でも食べに行く時ぐらいだ。
運動は病院の方でも推奨しているから、文句も言われず気楽だ。長く眠っている分体力も有り余っているので、最近は入院する前より筋肉がついた気がする。
とはいえこんな暗い中ではおちおち走ることもできない。それでも僕が、この町中を眼下に見下ろせる場所に通っているのは、もうすぐ夕日が見える季節になるからだった。
僕は必ず決まった時刻に起きる。大体17時45分で、一分以上違うことはめったにない。そこから病院を出て公園に行くまで、約10分かかる。中学生時代は15分前後だったので、かなりの成長だ。
それはさておき、僕がこの高台にたどり着くのは18時の五分前程度になるわけで、そろそろ春になるこの時候から考えれば、あと一週間と少しで日没を観察できることになる。その夕焼けが見れる時間にここに来るのが、僕のとりあえずの目標だった。
ただ見るだけなら、分単位で日の入りの時刻を教えてくれるサイトなんていくらでもある。だけれど僕が大階段の上に立つのを日課にするのは、景色が好きだからというより、空の移り変わりを観察したいからだ。理不尽に変わらない生活を送ることになった人間の、ちょっとした抵抗なのかもしれない。
誰もいない広場に、木々の影に混じって風に吹かれる。寒さは雪解けとともに和らいでいた。
「谷川君じゃない?」
僕は兎のような反応で振り返った。自分以外いないはずの夜中の山で、名前まで呼ばれたんだから仕方ない。でも向こうからすれば滑稽この上なかったのだろう。吹き出す声が聞こえた。
当たり前だけど幽霊ではない。こんな生き生きと笑うお化けなら明日には生き返っているはずだ。でも、誰なのか分からなかった。
あたりは目鼻立ちが辛うじてわかる明るさ。顔にどこか見覚えはある。だけれど、どこで会ったのか。懐かしさが胸にこみあげるのは、多分病院で知り合った人ではないからか。
「谷川君でしょ。ほら、小学校で一緒だった。5年生のころに」
小学校。その単語に引きずられて、記憶が呼び起こされる。確かにいた。一年しか同じクラスにいなかったし、話したことはほとんどなかったけれど。名前くらいは憶えている。
「ああ、そう、そうだ。黒、黒田」
「黒野だよ。黒野立夏。惜しい。三角だね」
なんだか気まずい。名前を覚えるのは苦手なのだ。いや、これはむしろ僕みたいな目立たない奴をいちいち覚えていて、この暗い中で見分けられる彼女の方が凄い。
言い訳するとなおさら不愉快にさせそうで、何を話すべきか迷っている内に、黒野はまた話し始めた。
「まさかこんなところで会うなんて思わなかったな。ここにはよく来るの?」
「まあ、だいたい毎日は」
彼女はまた吹き出す。
「毎日って。きんべん~。スポーツマンなの?」
きんべん、の意味が一瞬つかめず、頭の中で変換して勤勉だと気付く。ちょっと変わった言い方をするな、というのが、その時の彼女への評価だった。
おぼろげな記憶では、もう少しおとなしい女の子だったはずだけれど、小学生のころの印象なんてあてにならないものだ。
あるいは、黒野は僕の知らないところでずっと成長し続けていて、ただ僕だけが時間に取り残されていたのかもしれない。
「別に、運動が大好きってわけじゃないけど、健康維持のためにね。ほれ、僕は例の病気だから」
例の病気、なんていうあいまいな表現でも、間違えられる心配はしない。僕の持病はそれだけ有名なものだったし、それに、堂々と名前を出すのは気恥ずかしい種類のものだった。
だけれど、黒野の返事はそんな臆病な気配りなど歯牙にもかけないもので。
「あ、谷川も空蝉病なの?じゃあ仲間だね」
「え?」
「よかった。それなら病院までの道も分かるよね?ちょっと長居しすぎちゃって。連れて行ってくれない?」
呆気にとられている僕をよそに、ふあ、とかわいいあくびを一つ。黒野はそのまま僕の背中に覆いかぶさって、穏やかな寝息をたてはじめた。
残照はすでに消え、眼下の明るい街並みから、クラクションの音が響いてくる。
救急車を呼ぶこともできたけど、緊急性が無いことは分かりきっている。救急隊員の人を煩わせたくはなかった。
「仕方ないか」
諦めて肩を落とす。黒野の腕を首に巻くようにして、膝の裏を持って一気に持ち上げた。女子の体の軽さにちょっと驚きながら、ゆっくり階段を下りていく。
もっと話をしたくなかったと言えば嘘になる。黒野は夜闇の元にあっても、十分魅力的な少女だった。
しかしそんな欲求は絶対叶いっこないと、僕は既に理解していた。彼女はこれから12時間、覚めない眠りの中にいるはずで、彼女が目覚める時刻には、今度は僕がベッドに横たわっているのだから。
蝉の鳴き声は、いつ果てるかも知れず、僕の背中を追ってきた。
それとも眠らないのか。
僕は夜の青さの中でそんなことを考えていた。もう深く日は沈み、幻の青空は消えて、宇宙の本来の色が風に揺蕩っている。
山の中腹を軽く切り拓いただけの公園には、街灯の一つもない。なので、明るい時にはそれなりに人出のあるこの場所に、今は僕一人だけが立っていた。
明るい時。正午の公園。懐かしい思い出だ。もう昼を見なくなって2年は経つ。目の機能低下を抑えるために、病院ではたまに紫外線のライトを浴びたりしていたが、その必要性も怪しい。僕は昼間には絶対起きられないのだから。
蝉の鳴く声が聞こえる。耳に入る音はそれだけ。じいじいとやかましいノイズ。動きのない景色。壊れたビデオの中みたいだ。夕焼けが終われば見るべきものもない場所だけれど、病院から離れられる距離は決まっているから、外に出るときには運動がてら、いつもこの公園に来ていた。
12時間しかない一日では、やれることをはっきり認識していないと道端で行き倒れることになる。実際はじめの三か月の間に、二回コンクリートをベッドにした。その反省もあって、今は大抵のことはネットで済ましている。外に出るのは図書館に行くか、公園で運動するか、あとは回転寿司でも食べに行く時ぐらいだ。
運動は病院の方でも推奨しているから、文句も言われず気楽だ。長く眠っている分体力も有り余っているので、最近は入院する前より筋肉がついた気がする。
とはいえこんな暗い中ではおちおち走ることもできない。それでも僕が、この町中を眼下に見下ろせる場所に通っているのは、もうすぐ夕日が見える季節になるからだった。
僕は必ず決まった時刻に起きる。大体17時45分で、一分以上違うことはめったにない。そこから病院を出て公園に行くまで、約10分かかる。中学生時代は15分前後だったので、かなりの成長だ。
それはさておき、僕がこの高台にたどり着くのは18時の五分前程度になるわけで、そろそろ春になるこの時候から考えれば、あと一週間と少しで日没を観察できることになる。その夕焼けが見れる時間にここに来るのが、僕のとりあえずの目標だった。
ただ見るだけなら、分単位で日の入りの時刻を教えてくれるサイトなんていくらでもある。だけれど僕が大階段の上に立つのを日課にするのは、景色が好きだからというより、空の移り変わりを観察したいからだ。理不尽に変わらない生活を送ることになった人間の、ちょっとした抵抗なのかもしれない。
誰もいない広場に、木々の影に混じって風に吹かれる。寒さは雪解けとともに和らいでいた。
「谷川君じゃない?」
僕は兎のような反応で振り返った。自分以外いないはずの夜中の山で、名前まで呼ばれたんだから仕方ない。でも向こうからすれば滑稽この上なかったのだろう。吹き出す声が聞こえた。
当たり前だけど幽霊ではない。こんな生き生きと笑うお化けなら明日には生き返っているはずだ。でも、誰なのか分からなかった。
あたりは目鼻立ちが辛うじてわかる明るさ。顔にどこか見覚えはある。だけれど、どこで会ったのか。懐かしさが胸にこみあげるのは、多分病院で知り合った人ではないからか。
「谷川君でしょ。ほら、小学校で一緒だった。5年生のころに」
小学校。その単語に引きずられて、記憶が呼び起こされる。確かにいた。一年しか同じクラスにいなかったし、話したことはほとんどなかったけれど。名前くらいは憶えている。
「ああ、そう、そうだ。黒、黒田」
「黒野だよ。黒野立夏。惜しい。三角だね」
なんだか気まずい。名前を覚えるのは苦手なのだ。いや、これはむしろ僕みたいな目立たない奴をいちいち覚えていて、この暗い中で見分けられる彼女の方が凄い。
言い訳するとなおさら不愉快にさせそうで、何を話すべきか迷っている内に、黒野はまた話し始めた。
「まさかこんなところで会うなんて思わなかったな。ここにはよく来るの?」
「まあ、だいたい毎日は」
彼女はまた吹き出す。
「毎日って。きんべん~。スポーツマンなの?」
きんべん、の意味が一瞬つかめず、頭の中で変換して勤勉だと気付く。ちょっと変わった言い方をするな、というのが、その時の彼女への評価だった。
おぼろげな記憶では、もう少しおとなしい女の子だったはずだけれど、小学生のころの印象なんてあてにならないものだ。
あるいは、黒野は僕の知らないところでずっと成長し続けていて、ただ僕だけが時間に取り残されていたのかもしれない。
「別に、運動が大好きってわけじゃないけど、健康維持のためにね。ほれ、僕は例の病気だから」
例の病気、なんていうあいまいな表現でも、間違えられる心配はしない。僕の持病はそれだけ有名なものだったし、それに、堂々と名前を出すのは気恥ずかしい種類のものだった。
だけれど、黒野の返事はそんな臆病な気配りなど歯牙にもかけないもので。
「あ、谷川も空蝉病なの?じゃあ仲間だね」
「え?」
「よかった。それなら病院までの道も分かるよね?ちょっと長居しすぎちゃって。連れて行ってくれない?」
呆気にとられている僕をよそに、ふあ、とかわいいあくびを一つ。黒野はそのまま僕の背中に覆いかぶさって、穏やかな寝息をたてはじめた。
残照はすでに消え、眼下の明るい街並みから、クラクションの音が響いてくる。
救急車を呼ぶこともできたけど、緊急性が無いことは分かりきっている。救急隊員の人を煩わせたくはなかった。
「仕方ないか」
諦めて肩を落とす。黒野の腕を首に巻くようにして、膝の裏を持って一気に持ち上げた。女子の体の軽さにちょっと驚きながら、ゆっくり階段を下りていく。
もっと話をしたくなかったと言えば嘘になる。黒野は夜闇の元にあっても、十分魅力的な少女だった。
しかしそんな欲求は絶対叶いっこないと、僕は既に理解していた。彼女はこれから12時間、覚めない眠りの中にいるはずで、彼女が目覚める時刻には、今度は僕がベッドに横たわっているのだから。
蝉の鳴き声は、いつ果てるかも知れず、僕の背中を追ってきた。
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