怒り

神尾 点睛

文字の大きさ
2 / 8

しおりを挟む
 ところがある日、彼はとんでもないことに気がついてしまった。

 その日、彼はある友人とレストランで食事をしていた。その友人とは、度々こうして一緒に食事に行く仲だった。
 彼が友人にする話は、大抵生徒の愚痴だった。その日も例に漏れず、
「最近鈴木くんが言うことを聞かなくて困っているんだ」
 などと、生徒の愚痴を溢していた。
 一方友人は、話の流れで最近あったことを話すことが多かった。この日も何気なく最近の話をした。
 「この間さ、甥のお墓参りに行ったら、お寺でかすみ草が咲いてて、すごく綺麗だったんだ」
 「へー」
 彼は曇った顔で答えた。
 友人が甥の話をすると、彼はいつも、どこか悲しそうな顔をする。同情してくれているのは分かっていたが、もう随分経つのだからそんな顔をする必要は無いのになと、友人は思っていた。
 「ほら、写真撮ったんだ」
 そう言って、友人は彼にスマホの画面を見せた。途端に彼の顔が明るくなる。
 「おー、本当だ! ムレナデシコだね」
 「流石は生物教師!」

 その後もしばらく、世間話を弾ませていると、店の奥の方から、何やら店の雰囲気にそぐわない罵声が、飛んできた。
 「おいっ! ふざけるなよ!」
 見ると、中年のスーツ姿のサラリーマンらしき男が、同じくスーツ姿の若い男の胸倉を摑んでいた。
 それまで賑わいでいた店内が、まるで誰も居なくなったかのように静まりかえった。
 「人を侮辱するのもいい加減にしろ!」
 そう言って、中年の男は若い方を殴りつけた。驚いた若い方は、中年の男を睨み付け、今にも乱闘が始まりそうな、一触即発の様相を呈していた。
 呆然としていた店員が、やっと我に返って仲裁に入ろうとした時には、既に彼とその友人が間に入っていた。
 「まぁまぁ、そんなに怒りなさんな。 一体何があったんだ?」
 彼が中年の男に尋ねると、
 「お前には関係ないだろ! こいつは俺を侮辱したんだよ! だから怒るのも当然だろ!」
 と怒鳴られた。どうやら中年の男は、若い方の会社の上司で、お互い酔いが回り、些細なことから喧嘩になったようだった。
 そこで彼は、とにかく、若い方を友人に任せ、中年の男を落ち着かせようとした。しかし、後々これが、彼にとって、カタストロフの始まりとなるのだった。

 彼は、中年の男を何とかなだめようとしたが、その男は初めの態度を一向に変えようとしなかった。それどころか、あまつさえ彼の説得に対して更に激昂し出した。彼の性格が忍耐強ければ、事は丸く収まったかもしれない。しかし生憎あいにく、教師のさがとでも言うべきか、彼は昔から、言いたいことはハッキリと言うタイプだった。元々怒りという感情を忌み嫌っていた彼は、止せばいいものを、とうとうこんなことを言い出した。
 「だいたいそんなことで怒ること事態、言語道断。 お前みたいな器の小さな大人がこの社会に蔓延はびこっているから、世の中平和にならないんだ!」
 「なんだとっ!」
 日頃からこの社会に持っていた不満を、中年の男についうっかり洩らしてしまったのだ。果たして、これは火に油を注ぐ結果となり、罵倒の応酬はますます激化していった。

 そんな中、中年の男が彼に言い放ったある言葉に、彼は凍りついた。
 「百歩譲って、お前の怒ることは罪だとする主張が、正しいとしよう。だがそうすると、お前もまた罪を犯しているということになる」
 「……どういうことだ」
 「お前だって、今俺に向かって怒っているではないか。 いや、俺に、というよりも、むしろこの社会に対して、また怒りという感情そのものに対して、怒っているではないか!」
 「……!」
 彼は、雷に打たれたような衝撃を食らった。彼は、思わず絶句せざるを得なかった。先程まで、何か熱いものが跋扈ばっこしていた胸は、いつの間にか冷えきり、寒々しく空洞になっていた。
 彼は今まで、周囲の怒りに関しては、非常に敏感だったが、自分に関しては、全くもって無神経であった。俯瞰ふかんした目で冷静に見つめれば、中年の男の言うことは、至極真っ当なことであるが、彼は一度もそのように考えたことがなかった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

母の下着 タンスと洗濯籠の秘密

MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。 颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。 物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。 しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。 センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。 これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。 どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

還暦の性 若い彼との恋愛模様

MisakiNonagase
恋愛
還暦を迎えた和子。保持する資格の更新講習で二十代後半の青年、健太に出会った。何気なくてLINE交換してメッセージをやりとりするうちに、胸が高鳴りはじめ、長年忘れていた恋心に花が咲く。 そんな還暦女性と二十代の青年の恋模様。 その後、結婚、そして永遠の別れまでを描いたストーリーです。 全7話

夫が妹を第二夫人に迎えたので、英雄の妻の座を捨てます。

Nao*
恋愛
夫が英雄の称号を授かり、私は英雄の妻となった。 そして英雄は、何でも一つ願いを叶える事が出来る。 そんな夫が願ったのは、私の妹を第二夫人に迎えると言う信じられないものだった。 これまで夫の為に祈りを捧げて来たと言うのに、私は彼に手酷く裏切られたのだ──。 (1万字以上と少し長いので、短編集とは別にしてあります。)

処理中です...