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其の七「ってぇな!? どこを見ていやがる! 来い! 謝り方ってやつを教えてやらぁ!」
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同日の逢魔時。
麹町富士見町の空は、西へと放射状に垂れた雲が斜陽に照らしあげられて、どこかで大きな火が燃えあがっているかのごとき様相を呈している。町屋の店先に点々と置かれた辻行灯の火は、空から落ちて 燻る火の粉のように恐ろしげで、不吉だ――表通りにひとけが少ないのは、刻限のみが理由ではないように思われた。
一軒の居酒屋の引き戸が開く。それなのに縄のれんが動かないのは、出てきた男の背が縄のれんの下をくぐれるほどに低かったからだ。宗我兵衛である。その顔は燃えさしの炭みたいにどす赤かった。
「一働きしたあとに飲む酒の、うめぇのなんの……働かねぇで飲む酒にゃあ、及ばねぇがよ」
彼は河畑の裏長屋をあとにすると、その足で麹町富士見町へやってきて、酒と金と恫喝、はては暴力をもってそうそうに左右吉の素性を洗いだし、その所在をも突きとめ、一杯引っかけていたのであった。
「誰の暗殺を頼ませるつもりか知らねぇが、あんな情けねぇ野郎にそんな気概があるもんかねぇ」
宗我兵衛は、盗みみた左右吉のありさまを思いだしながら呟いた。
左右吉は和算に秀で、その腕を買われて広沢真臣のもとで会計を任されていたが、主家の金を着服した疑いで暇を出されてからというもの、裏長屋に閉じこもり、日がな酒を呷っているようだった。聞く者もいないのに、自身の潔白を訴え、慟哭しながら。
宗我兵衛はその醜態を覗いているあいだ、蜂のごとく押しいって、泣きっ面に嘲罵を浴びせてやりたいという衝動を堪えるのに苦労したものだ。思いだすだに、嗜虐心がそそられる。
「……こうしちゃいられねぇ」
宗我兵衛は 眦を決すると、その足を、河畑の裏長屋のほう――ではなく、牛込神楽町の花街に向けた。嗜虐心の昂ぶりを芸者にぶつけようと思ったのだ。
河畑の口ぶりからすれば、彼が依頼人探しを急いでいることはあきらかだったが、宗我兵衛の知ったことではない。彼は「日が変わるまでに」といわれたからには、日が変わる寸前まで泡銭で遊びあるく腹づもりだった。幸い、金はうなるほどある。河畑からの礼金は、いつにも増して多額であった。
そんなわけで、宗我兵衛はぶらぶらと歩いていたが、
「あん?」
つと一軒の居酒屋の前で立ち止まると、辻行灯の陰に潜んで聞き耳をそばだてた。
「――薩摩藩士をこういうところに連れてきちゃあ、いけない……なにを飲んでも、芋焼酎を飲んでいる気分になっちまう――」
後半は酔漢たちの笑いの渦に飲みこまれたが、紛れもなく河畑の声だ。宗我兵衛は呆れ顔をした。
「野郎……人を急がせておいて、手前は飲んだくれていやがるたぁ、いいご身分じゃぁねぇか」
急がされる気などまったくない癖に、もっともらしい愚痴をいう。
しかし、面と向かっていうわけにもゆかないので、宗我兵衛は再び牛込神楽町を目指して歩きだした。
やがて日は落ち、月は雲の陰。
辻行灯も減ってきて、闇のたむろする辺りにさしかかった頃、宗我兵衛は向かいから、ウスバカゲロウみたいに右にふらふら、左にへろへろしながら歩いてくる小柄な男――といっても、宗我兵衛よりは大きいが――を見いだした。
宗我兵衛の口の端が歪む。彼は鏡のごとく、男と同じ方向にふらつきながら歩くと、
「ってぇな!? どこを見ていやがる!」
男にわざとぶつかるや、その胸倉を掴んでねじりあげ、唾を飛ばした! 先の嗜虐心の昂ぶりを、ひとまずこの酔っ払いで鎮めようと思ってのことだ。小遣い稼ぎにもなる。このように因縁をつけるのは、彼にとって日常茶飯事であった。
「申し……申しわけ……!」
「うるせぇ! 来い! 謝り方ってやつを教えてやらぁ!」
男は居眠りを咎められたときに似て、呆けながら謝ろうとしたが、宗我兵衛は聞く耳を持たぬ。男を駄馬のごとく路地裏に引きずってゆくと、足を払って地面に投げたおした。
「……あ?」
宗我兵衛は、いささか飲みすぎたかと思った。
酔いが回れば、目も回る。だからかと思い、自分の頬を張り、目元をこすり、何度かまばたきをしてみた。しかし、それでも男は目の前に立っていた。投げたおしたはずなのに……
……してみると、あれは酒のための錯覚ではなかったのだ。自分が投げた男が宙でくるりと一回転して、目の前で見事な着地を決めたのは。
宗我兵衛の酔いは覚めた!
「て、手前――なんだ、手前は!?」
宗我兵衛が後ずさりながら問えば、男は、
「そいはこちらの 科白……」
と左手を闇に翳しながらいった――薩摩訛りで。その左手に、落ちてくるものがある。刀だ!
「首尾よういったようじゃな」
新たな声は、宗我兵衛の後ろからした。振りむけば、腰に大小を差した大柄な男が、宗我兵衛の退路を断つように立っていた。この男が刀を投げたに相違ない。
「いや、おいからぶつかってやろうと酔漢のふりまでしたが、なんのこつあらん、こやつのほうからぶつかってきおったわ」
小柄な男が笑いながら答える――いわずもがな、中村半次郎のお供、時正と明村であった。彼らは河畑の裏長屋を張り、出てきた宗我兵衛を 尾けていたのだった。
もちろん、宗我兵衛はそんなことは知るよしもない。ただ愕然として、顎の外れんばかりに口を開け、喘いでいた。
――この宗我兵衛ともあろう者が、尾行に気付かぬどころか、罠にかかるとは!
と……そしてその事実から、このふたりの男を容易ならぬ手並みの持ち主と推察した。まさに前門の虎、後門の狼だが、大小も差していない老いたる小男にすぎぬ宗我兵衛の身を 慮れば、袋の鼠といったほうがいいかもしれない。
「さて、おはんには聞きたかこつがある」
時正は刀を閂ざしにすると、宗我兵衛にいった。鯉口を切りながら。
「な、なんでごぜぇましょう……」
宗我兵衛は神妙になった。彼は弱きを挫き、強きを助く男であった。
「必要なか。斬ってしまえばこつは済む」
一方、明村はすでに抜刀し、大上段に構えている。その柄尻は生え際を越えている。時正は、
「まあ、待て」
といったが、まんざらでもない顔つきだったので、宗我兵衛はまったく安心できなかった。
「して、おはん――河畑深左衛門から、なにを頼まれた?」
あらためて、時正が問うた。
宗我兵衛は河畑を呪った!
――あの糞餓鬼め! こんな奴らが出てくると知ってりゃぁ、断ったものを!
しかし、そんな呪詛はおくびにも出さず、
「河畑深左衛門……? どちらさまでござんしょう」
と、とぼけた。
「やはり、斬ろう」
が、後ろから明村の足音がするや、土下座して 長広舌をふるった。
「お、思いだしやした! いえね、あっしもこの年でござんすから、忘れっぽくっていけねぇ――河畑深左衛門! よおく知ってますとも。ちょこちょこ、酒の道づれにしてやしてね、今日も誘ったんですが、断られて――」
「嘘を申すな。きゃつはおはんと別れてからずっと、麹町富士見町で飲んでおる。おはんが酒に誘ったなら、断る道理はなか!」
しかし、時正には通じない! 宗我兵衛が河畑を呪う暇もあらばこそ、
「もうよか!」
明村は間合いを詰めてくる。
「こげな爺を斬るための刀ではなかが……」
時正も――溜息をつきながらではあるが――刀を抜いた。
「ひっ……! お、お助けを!」
宗我兵衛は明村へ半身になり、びくっと大袈裟に両肩を揺らしながら悩んだ。河畑を売れば、この場を容易く切りぬけられるかもしれない。だが河畑を売れば、きっと河畑に殺される。暗殺者の仁義だ。宗我兵衛はそのことをよく知っている。だからこそ、彼と長く付きあってこれているのだ。ならば――
「きえーっ!」
明村が猿叫をあげながら踏みこみ、宗我兵衛の悩める頭へと白刃を振りおろした。闇のとばりをまっすぐに引き裂く、暗き落雷がごとき太刀筋はしかし、宗我兵衛の頭を見失った。
「!?」
明村は残心を乱しはしなかったが、不意をつかれた。宗我兵衛はしゃがんだわけでも、下がったわけでも、左右に飛びずさったわけでもなかった。明村に向かってきた。
それなのに頭が消えたのは、宗我兵衛が明村の横を――死の曲線たる刀身の一寸横を通りすぎるよう、側転したからだ。なんたる身軽さ!
明村は一の太刀をかわされた屈辱を怒りに変えて、転瞬の間に二の太刀を練った。
それを迂闊と、誰がいえよう?
「明村!」
時正が叫んだ。側転中の宗我兵衛の両袖からするりと抜けて、宙に投げだされた二本の棒――否、棒手裏剣を見て。側転の終わり際に、宗我兵衛が両手でその二本の棒手裏剣を掴み、一本を時正へ、もう一本を明村の右膝の裏へ投げたのを見て! なんたる攻防一体の 手妻か!
宗我兵衛は棒手裏剣の行方を見ず逃げだす。時正は飛来する棒手裏剣を刀で弾く。明村は、よもや老いたる窮鼠が猫ならぬ虎を噛むとは知らず、時正の叫びの意味もわからぬまま、棒手裏剣に右膝裏を噛まれる――
かに思われた、そのとき!
軽い音と重い音がした。
振りむいた明村は――そう、彼はなんの障りもなく振りむくことができた――目の前を、棒手裏剣が風車みたいにくるくると縦回転しながら飛び、落ちてゆくのを見た。
駆けよった時正は、地面に突き刺さった脇差しを見た。
そして立ちどまった宗我兵衛は、行く手を阻む男を見た。
「てっ、ててっ、ててて……手前は!?」
男は脇差しを投げた手を翻し、刀の柄を握るといった。
「おはんがまだ生きておったとはな……」
「手前は、人斬り半次郎!?」
宗我兵衛は男――桐野利秋こと中村半次郎を指差しながら、顔面を殴られたようにのけぞって、そのまま尻餅をついた。
麹町富士見町の空は、西へと放射状に垂れた雲が斜陽に照らしあげられて、どこかで大きな火が燃えあがっているかのごとき様相を呈している。町屋の店先に点々と置かれた辻行灯の火は、空から落ちて 燻る火の粉のように恐ろしげで、不吉だ――表通りにひとけが少ないのは、刻限のみが理由ではないように思われた。
一軒の居酒屋の引き戸が開く。それなのに縄のれんが動かないのは、出てきた男の背が縄のれんの下をくぐれるほどに低かったからだ。宗我兵衛である。その顔は燃えさしの炭みたいにどす赤かった。
「一働きしたあとに飲む酒の、うめぇのなんの……働かねぇで飲む酒にゃあ、及ばねぇがよ」
彼は河畑の裏長屋をあとにすると、その足で麹町富士見町へやってきて、酒と金と恫喝、はては暴力をもってそうそうに左右吉の素性を洗いだし、その所在をも突きとめ、一杯引っかけていたのであった。
「誰の暗殺を頼ませるつもりか知らねぇが、あんな情けねぇ野郎にそんな気概があるもんかねぇ」
宗我兵衛は、盗みみた左右吉のありさまを思いだしながら呟いた。
左右吉は和算に秀で、その腕を買われて広沢真臣のもとで会計を任されていたが、主家の金を着服した疑いで暇を出されてからというもの、裏長屋に閉じこもり、日がな酒を呷っているようだった。聞く者もいないのに、自身の潔白を訴え、慟哭しながら。
宗我兵衛はその醜態を覗いているあいだ、蜂のごとく押しいって、泣きっ面に嘲罵を浴びせてやりたいという衝動を堪えるのに苦労したものだ。思いだすだに、嗜虐心がそそられる。
「……こうしちゃいられねぇ」
宗我兵衛は 眦を決すると、その足を、河畑の裏長屋のほう――ではなく、牛込神楽町の花街に向けた。嗜虐心の昂ぶりを芸者にぶつけようと思ったのだ。
河畑の口ぶりからすれば、彼が依頼人探しを急いでいることはあきらかだったが、宗我兵衛の知ったことではない。彼は「日が変わるまでに」といわれたからには、日が変わる寸前まで泡銭で遊びあるく腹づもりだった。幸い、金はうなるほどある。河畑からの礼金は、いつにも増して多額であった。
そんなわけで、宗我兵衛はぶらぶらと歩いていたが、
「あん?」
つと一軒の居酒屋の前で立ち止まると、辻行灯の陰に潜んで聞き耳をそばだてた。
「――薩摩藩士をこういうところに連れてきちゃあ、いけない……なにを飲んでも、芋焼酎を飲んでいる気分になっちまう――」
後半は酔漢たちの笑いの渦に飲みこまれたが、紛れもなく河畑の声だ。宗我兵衛は呆れ顔をした。
「野郎……人を急がせておいて、手前は飲んだくれていやがるたぁ、いいご身分じゃぁねぇか」
急がされる気などまったくない癖に、もっともらしい愚痴をいう。
しかし、面と向かっていうわけにもゆかないので、宗我兵衛は再び牛込神楽町を目指して歩きだした。
やがて日は落ち、月は雲の陰。
辻行灯も減ってきて、闇のたむろする辺りにさしかかった頃、宗我兵衛は向かいから、ウスバカゲロウみたいに右にふらふら、左にへろへろしながら歩いてくる小柄な男――といっても、宗我兵衛よりは大きいが――を見いだした。
宗我兵衛の口の端が歪む。彼は鏡のごとく、男と同じ方向にふらつきながら歩くと、
「ってぇな!? どこを見ていやがる!」
男にわざとぶつかるや、その胸倉を掴んでねじりあげ、唾を飛ばした! 先の嗜虐心の昂ぶりを、ひとまずこの酔っ払いで鎮めようと思ってのことだ。小遣い稼ぎにもなる。このように因縁をつけるのは、彼にとって日常茶飯事であった。
「申し……申しわけ……!」
「うるせぇ! 来い! 謝り方ってやつを教えてやらぁ!」
男は居眠りを咎められたときに似て、呆けながら謝ろうとしたが、宗我兵衛は聞く耳を持たぬ。男を駄馬のごとく路地裏に引きずってゆくと、足を払って地面に投げたおした。
「……あ?」
宗我兵衛は、いささか飲みすぎたかと思った。
酔いが回れば、目も回る。だからかと思い、自分の頬を張り、目元をこすり、何度かまばたきをしてみた。しかし、それでも男は目の前に立っていた。投げたおしたはずなのに……
……してみると、あれは酒のための錯覚ではなかったのだ。自分が投げた男が宙でくるりと一回転して、目の前で見事な着地を決めたのは。
宗我兵衛の酔いは覚めた!
「て、手前――なんだ、手前は!?」
宗我兵衛が後ずさりながら問えば、男は、
「そいはこちらの 科白……」
と左手を闇に翳しながらいった――薩摩訛りで。その左手に、落ちてくるものがある。刀だ!
「首尾よういったようじゃな」
新たな声は、宗我兵衛の後ろからした。振りむけば、腰に大小を差した大柄な男が、宗我兵衛の退路を断つように立っていた。この男が刀を投げたに相違ない。
「いや、おいからぶつかってやろうと酔漢のふりまでしたが、なんのこつあらん、こやつのほうからぶつかってきおったわ」
小柄な男が笑いながら答える――いわずもがな、中村半次郎のお供、時正と明村であった。彼らは河畑の裏長屋を張り、出てきた宗我兵衛を 尾けていたのだった。
もちろん、宗我兵衛はそんなことは知るよしもない。ただ愕然として、顎の外れんばかりに口を開け、喘いでいた。
――この宗我兵衛ともあろう者が、尾行に気付かぬどころか、罠にかかるとは!
と……そしてその事実から、このふたりの男を容易ならぬ手並みの持ち主と推察した。まさに前門の虎、後門の狼だが、大小も差していない老いたる小男にすぎぬ宗我兵衛の身を 慮れば、袋の鼠といったほうがいいかもしれない。
「さて、おはんには聞きたかこつがある」
時正は刀を閂ざしにすると、宗我兵衛にいった。鯉口を切りながら。
「な、なんでごぜぇましょう……」
宗我兵衛は神妙になった。彼は弱きを挫き、強きを助く男であった。
「必要なか。斬ってしまえばこつは済む」
一方、明村はすでに抜刀し、大上段に構えている。その柄尻は生え際を越えている。時正は、
「まあ、待て」
といったが、まんざらでもない顔つきだったので、宗我兵衛はまったく安心できなかった。
「して、おはん――河畑深左衛門から、なにを頼まれた?」
あらためて、時正が問うた。
宗我兵衛は河畑を呪った!
――あの糞餓鬼め! こんな奴らが出てくると知ってりゃぁ、断ったものを!
しかし、そんな呪詛はおくびにも出さず、
「河畑深左衛門……? どちらさまでござんしょう」
と、とぼけた。
「やはり、斬ろう」
が、後ろから明村の足音がするや、土下座して 長広舌をふるった。
「お、思いだしやした! いえね、あっしもこの年でござんすから、忘れっぽくっていけねぇ――河畑深左衛門! よおく知ってますとも。ちょこちょこ、酒の道づれにしてやしてね、今日も誘ったんですが、断られて――」
「嘘を申すな。きゃつはおはんと別れてからずっと、麹町富士見町で飲んでおる。おはんが酒に誘ったなら、断る道理はなか!」
しかし、時正には通じない! 宗我兵衛が河畑を呪う暇もあらばこそ、
「もうよか!」
明村は間合いを詰めてくる。
「こげな爺を斬るための刀ではなかが……」
時正も――溜息をつきながらではあるが――刀を抜いた。
「ひっ……! お、お助けを!」
宗我兵衛は明村へ半身になり、びくっと大袈裟に両肩を揺らしながら悩んだ。河畑を売れば、この場を容易く切りぬけられるかもしれない。だが河畑を売れば、きっと河畑に殺される。暗殺者の仁義だ。宗我兵衛はそのことをよく知っている。だからこそ、彼と長く付きあってこれているのだ。ならば――
「きえーっ!」
明村が猿叫をあげながら踏みこみ、宗我兵衛の悩める頭へと白刃を振りおろした。闇のとばりをまっすぐに引き裂く、暗き落雷がごとき太刀筋はしかし、宗我兵衛の頭を見失った。
「!?」
明村は残心を乱しはしなかったが、不意をつかれた。宗我兵衛はしゃがんだわけでも、下がったわけでも、左右に飛びずさったわけでもなかった。明村に向かってきた。
それなのに頭が消えたのは、宗我兵衛が明村の横を――死の曲線たる刀身の一寸横を通りすぎるよう、側転したからだ。なんたる身軽さ!
明村は一の太刀をかわされた屈辱を怒りに変えて、転瞬の間に二の太刀を練った。
それを迂闊と、誰がいえよう?
「明村!」
時正が叫んだ。側転中の宗我兵衛の両袖からするりと抜けて、宙に投げだされた二本の棒――否、棒手裏剣を見て。側転の終わり際に、宗我兵衛が両手でその二本の棒手裏剣を掴み、一本を時正へ、もう一本を明村の右膝の裏へ投げたのを見て! なんたる攻防一体の 手妻か!
宗我兵衛は棒手裏剣の行方を見ず逃げだす。時正は飛来する棒手裏剣を刀で弾く。明村は、よもや老いたる窮鼠が猫ならぬ虎を噛むとは知らず、時正の叫びの意味もわからぬまま、棒手裏剣に右膝裏を噛まれる――
かに思われた、そのとき!
軽い音と重い音がした。
振りむいた明村は――そう、彼はなんの障りもなく振りむくことができた――目の前を、棒手裏剣が風車みたいにくるくると縦回転しながら飛び、落ちてゆくのを見た。
駆けよった時正は、地面に突き刺さった脇差しを見た。
そして立ちどまった宗我兵衛は、行く手を阻む男を見た。
「てっ、ててっ、ててて……手前は!?」
男は脇差しを投げた手を翻し、刀の柄を握るといった。
「おはんがまだ生きておったとはな……」
「手前は、人斬り半次郎!?」
宗我兵衛は男――桐野利秋こと中村半次郎を指差しながら、顔面を殴られたようにのけぞって、そのまま尻餅をついた。
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