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其の十九「さ、ここで絶句」
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一月九日、子の二刻―いまでいう、午前零時頃。半月まではあと一夜。月はいま、笑っている。
広沢真臣の邸宅は静まりかえっていた――ただ一室を除いて。
庭に面したその一室からは薄明かりが漏れている。雨戸を閉める暇もないらしい。障子には男と女の影絵が映っている。絡まりあう蛇めいた影絵……手押し車めいた影絵……その合間合間に、けだものじみた唸りと、とろけた声と、熱っぽい息づかいと、瑞々しさを孕んだ音が混ざる……
その一室は広沢真臣の寝室で、彼はいま、愛妾の福井かねと布団の上で交合しているのだった。
洋燈が朧に照らすふたりの体は、冬だというのにいたるところ、汗やらなにやらで濡れそぼっていて、湯気さえあげている。この男女の交合がいかに激しく、また長時間にわたっているかを物語っている。しかも、まだまだ終わりそうにない。いましも、広沢はかねを四つんばいにさせ、自分はその後ろに膝立ちになって、己が剛直を突き入れたところであった。
不意に、洋燈の火が消えた。
「……む?」
先に気がついたのは、広沢だった。
というより、かねは気付く素振りもなく喘ぎつづけている。後ろの広沢が腰の動きを止めてしまったので、自らの尻を振ってねだってすらいる。
蝋燭でもあるまいに、何故洋燈の火が消えたのか――そんな疑問は、かねのおねだりの前に吹き飛んだ。広沢は苦笑し、腰の動きを再開させた。かねがひときわ高い、発情した猫みたいな鳴き声をあげた。
そのとき!
「うむ!?」
広沢の叫びは、かねの嬌声にかき消された。
広沢が声をあげたのは、痛みを覚えたからだ。両足首に痛みを覚えたからだ。それも、長らく味わっていない、どこか懐かしさすら感じる痛みを。広沢がその正体に気がつき、苦悶の叫びをあげようとしたとき、彼はのけぞった――いや、のけぞらされた。
顎に何者かの手があった。後頭部が何者かの腹と接していた。ゆえに、口を開くことはできなかった。
広沢がそう認識したとき、視界の端に、後ろからにゅっとあらわれたものがある。
「よう! 久し振りだな、波多野金吾さん――おっと、いまは広沢真臣さんだったな。こうして面と向かって会うのは、京以来か?」
覆面頭巾をかぶった男の頭だった。しかし、広沢にはその素顔を見透かす余裕はなかった――男の右手に、濡れた刀があったからには! いま、その刀を喉元に突きつけられたからには!
ことここに至って、広沢は理解した。先の痛みは、両足首の後ろを斬られた痛みだったのだ。
「お、お前は……一体、誰の差し金……」
広沢がもぐもぐと誰何すると、男は意外にもこう名乗った。
「おれだよ。河畑深左衛門だよ。お前さんを斬りに来たんだよ……」
――河畑深左衛門!
交合のため上気していた広沢の顔は、両足首からの失血を待たずして真っ青になった。
当然、広沢はその名を知っている。かつては血風吹きあれた京で、いまは新風吹きこむ東京府で、その暗殺者の名を「聞き」知っている。いまだかつて、失敗を知らぬ暗殺者の名を! 会ったことはないと思っていたが、河畑の口振りからすると、どうやらいあわせたことがあるらしい……
しかし、広沢はそれ以上、「河畑深左衛門」に思いを巡らすことはできなかった。河畑が、名乗り以上に意外というか、場違いにも、
「それより、腰を振れ」
と小声でいったからだ。
「な、なに?」
そういえば、男――河畑があらわれてより、広沢はかねと繋がっていながら動けずにいた。かねは先ほど気をやったのか、いまはうつぶせになったままぐったりしている。汗の珠散る白い背が、おねだりするよう上下する……
一瞬、その光景に見惚れていた広沢だったが、それにしても、この場合に腰を振れとは一体?
すると河畑は、目に苦笑の色を滲ませながら、内緒話をするようにいった。
「お前さんが腰を振らないと、かねが不審に思うだろう? それとも、かねを先に斬ってほしいのかい……」
「……!」
まさにそのとき、布団に抱かれていたかねが身動ぎして、こう呟いていたのである。
「殿さま……? どなたか、いらっしゃるんですか……? お珍しいこと……今夜は、ふたりであたしを滅茶苦茶にしてくれるんですか……?」
夢見心地で、うっとりと、期待するように。
しかしつぎの瞬間には、彼女は発情した雌猫みたいに唸って、そのしとどに濡れた背中を弓なりにくねらせていた。
広沢が河畑の目と、喉元にある刀を慌ただしく見比べながら、
「ば、ばかを申せ……お前の体はわしだけのものだ。……お、お前の菊門がなにかいいたげにひくついておったから、どうしてほしいのか聞いておっただけのこと――こ、こうしてほしいといっておったわ!」
と誤魔化すや、その指を花よ散れよとばかりに、彼女の愛らしい菊に突きいれたからである。
さらに広沢は、逆の手で食べごろの果実のように張りのよいかねの尻を掴むと、その白い肉の形が変わるさまを凝視して叫んだ。
「こ、こうしてほしいともな! この欲しがりめ!」
これほど滑稽なことがあろうか? 広沢は刀を喉元に突きつけられながら、己が肉の刀をかねの蜜壺に突きつけ、腰を振りはじめた! かねは両手で布団を握りしめながら、獣めいたあえぎ声をあげはじめた!
「摩羅垂涎の艶姿……あやかりたいね……」
河畑の囁きは、かねの淫らな声に上塗りされる。広沢は腰を振りながら、河畑の意図を理解した。なるほど、広沢が後ろから突きつづけるかぎり、かねはあえぎつづけるから、後ろを向いて河畑を見ることはない――河畑の声はあえぎ声にかき消されて、かねに届くことはない……なんたる馬鹿げた隠蔽工作か!
「さて――誰の差し金かといわれて、吐く奴はいない」
淫らな声が響きわたる中、河畑は横から広沢の顔を覗きこんで、ぼそぼそという。
「当ててみなよ……当てられたら、見逃してやる」
広沢は、後ろから迫る恐怖と、前からたばしり昇る快感に挟まれて、混乱の極みにあった。正常な判断などできようはずもなかった――だから、河畑の戯言を真に受けて、いいつのった。
「そ、左右吉か!? 濡れ衣だったなら謝る! だが、詮無いことだったのだ! もはや、時がなかった! ことが公になる前に、片がついたと見せかける必要があった! 参議たるわしが、家中の不義を誅せぬままとあっては示しがつかぬだろう!? きゃつはいわば人柱、尊い犠牲よ……むしろ誇りに思ってもらいたいものだ! 金が足りぬならくれてやる、だから――」
「ちがう」
河畑は肩を揺らしながら首を振る。広沢は息を吸うのも忘れたかのように喋りつづける。
「く、雲井の縁者か!? わ、わしも悔いておるのだ! お前たちは知るまいが、わしはきゃつの斬首を防ぐべく内々に働きかけておった! それを知ってなお、わしを斬るか!? 仕官が望みなら口を利いてやる、だから――」
「ちがうちがう」
河畑は拍子を取るように首を振っていたが、不意にやめると、双眸を刀のごとく細め、突きさすように広沢を睨みつけた。
「……おい、腰を振れといっただろう。なにを休んでいる?」
そして、刃を広沢の喉にあてがった! 広沢は、冷たく鋭い感触に巨躯を縮こませながら呻いた。
「ま、待ってくれ! な、中で萎えてしまって、うまく振れぬのだ」
「なに?」
河畑は、広沢とかねの結合部を瞥見する。確かに陰茎の付け根が撓んでしまっている。いつのまにか、かねの歌も終奏を迎えつつある。
河畑は広沢に視線を戻すと、両目を弛緩させることで、覆面頭巾越しにもそれとわかるような呆れ顔を作り、
「びびりすぎだろう……でかい図体をして、情けない奴め」
と罵ってから、こう付け加えた。
「――仕方がない、手伝ってやる」
「えっ?」
いうや、河畑は左手で広沢の口を塞いだ! 同時、刀を下に向けると、広沢の太ももに突き刺した!
「――!」
広沢の喉の奥から悲鳴がこみあげるが、口を塞がれているので行き場がない! それが下半身へと逆流したか、くじけるように中折れしていた彼の分身が雄叫びをあげるように勃ちあがった! 死を目前にした獣の生殖本能か! かねが身悶えし、再び歌いはじめる!
「わはははは! どうだ、大きくなったろう? さあ、腰を振れ!」
翻った刀が、またしても広沢の喉に突きつけられる! 広沢はもはや腰を振るしかない! 月すら覗き見を躊躇う闇の中、かねの喜悦の声に、合いの手のごとく広沢が腰を打ちつける生々しい音が混じりはじめると、河畑は奇妙な拷問を再開した。
「時に、大久保さんや木戸さんは元気かい?」
広沢は一瞬、ぽかんとした――そのあいだも腰の動きは止めなかった。それから、河畑がほのめかしている恐るべき可能性に思いあたって、叫んだ。
「ば、ばかな!? なんで自ら留守を預けた者を暗殺あろうか!? そも、木戸はわしの朋輩だ! それに、薩人には雲井を始末させてやった! わしが口実を作ってやったのだ! 大久保には感謝されこそすれ、暗殺される謂れはない!」
「おいおい、さっきといっていることがちがうぜ……まあ、いい」
河畑は広沢の言い分の変遷を嘲笑うと、話題を変えた。
「薩人といえば――大久保さんたちは、さる薩人を迎えに行っているんだろう?」
「……」
一瞬、腰の動きが止まる。広沢は無言のまま、すぐにまた腰を振りはじめた。動揺を悟られぬように……だが、無駄な抵抗だった。河畑は、しようのない奴、といった風情で親しみぶかげに続ける。
「隠すな、隠すな……人斬り半次郎がわざわざ東京府まで来る理由など、ほかにない。近々、きゃつが出仕するんだろう? 一度は明治政府の腐敗を憂い、東京府にある薩人を呼びもどそうとまでしたきゃつが……半次郎は、そのお膳立てのためにやってきた――」
「な、何故、いまそのことを――」
もはや否定はしない広沢を無視して、河畑は微笑んだ。
「――いや、露払いか?」
広沢の総身を、快感に由来しない震えが走った。
「ばかな!? 西郷隆盛が!?」
腰と首をもろともに振りながら否定する!
「西郷は政府の改革のために出仕するのだぞ! 参議たるわしの助力を仰ぎこそすれ、暗殺するなど――」
「西郷さんといえば、御用盗よな」
「……は?」
その否定を、全く無関係と思える懐古で遮られ、広沢は間の抜けた声をあげた。河畑は構わずに、闇を仰いで心ここにあらずといった風情で喋りつづける――「風情で」というのは、このあいだも刀は油断なく広沢の喉元に突きつけられていたからだ。
「あれは、素晴らしかった。なかなかできることじゃあ、ない……倒幕の初志を貫徹するためだけに、無辜の民を犠牲にするとはよ。おかげで、おれもいい思いをさせてもらったが……首尾一貫とはまさにきゃつのことだ。実際の首と尻の重さは、一貫どころではなかろうが……く、く……」
「……」
広沢は無言で腰を振るばかりだ。かねはよがっている。広沢の代わりに相槌を打っているかのようだ。
「お前さんはどうだ?」
出し抜けに、河畑がいった。ぐるりと首を巡らして、広沢を見る。その目には、いじめっ子みたいなわざとらしい憐憫の色があった。
「えっ?」
なにがどうなのか広沢が戸惑っていると、河畑は急変、瀑布のごとくまくしたてた!
「長州の内乱では正義派にも俗論派にも与せず、勝った正義派に取りいって藩政に参画し! 戊辰の戦では東征大総督符の下参謀に任じられながら、さっさと辞して西郷さんに後事を押しつけたばかりか、米沢の宮島誠一郎の訪問に応じて非戦を訴え、きゃつらに恩を売り、てめえだけ恨みを買うまいとし! 明治政府では雲井龍雄に帰順部曲点検所の看板を出すことを許し、きゃつらの歓心を買いながら、ひとたび薩人が気色ばむや、これを売って薩人の歓心に買いかえた!」
「……」
交合のため、汗にまみれた広沢の顔に、脂汗が混じりはじめた。
河畑は一転、声調を落とし、広沢の耳に顔を近づけて、囁きを流しこむ。
「……しかもお前さん、常々、『旧習を脱却すべし』とか偉そうにいっているそうだが――てめえが脱却していないじゃあないか」
「な、なんのことだ?」
今度は思いあたる節がない。すると河畑は、闇に不吉な輪郭を浮かべる刀の切っ先で指ししめした――かねの桃みたいな尻を。
「妾だよ、妾……お前さんらが追いつかなきゃいけないらしい西欧の国々じゃあ、妾なんぞ囲わないそうだぜ。つまり妾は、脱却すべき旧習だ……それなのに……」
「ばかな!?」
広沢は仰天した。かねの腰を掴む両手に力がこもった。離すまいとするかのように。一瞬かねの声がくぐもったが、どうやら乱暴にされるのもよいらしく、すぐに元のとおり鳴きはじめる。
我知らず、腰を振る拍子をはやめながら、広沢は抗弁した。
「妾を囲っておるのは、わしだけではない! それに、京では西郷も妾を囲っておった! それを――」
広沢は口をつぐんだ。河畑が何度も頷いて見せたからだ。憂いを孕んだような顔で。その見せかけの肯定に、広沢はむしろ突きはなされたような気がした。
「そのとおり……それなのに、なんでお前さんが選ばれたのか……」
河畑は何度も首を振って見せてから、厳かな声で――もっとも、目は笑っていたが――いった。
「お前さんには首尾一貫というものがない。あるとしたら、我が身可愛さだけだ。西郷さんが作る、首尾一貫した明治政府には『いなくてもいい』人間さ……だから、『いなくちゃあ困る』人間への見せしめに、暗殺しようというのさ!」
「み、見せしめだと!?」
「そうさ! 広沢のように暗殺されたくなければ、日頃の行いをあらため、我が意に従えというわけだ! お前さんはいわば人柱、尊い犠牲よ――誇りに思ったらどうだい?」
広沢はつかのま、言葉を失った。長州藩の中級武士の子に生まれながら、参議として明治政府の実権を握るまでになった自分が、見せしめに殺される……? そのような大それた話があるはずがない、という思いと、西郷ならやりかねない、という思いがせめぎあう中、広沢はすがるように河畑を見た。
「お、お前は……お前は、本当にそう依頼されたというのか? 西郷から……」
当てられたら見逃してやる、という暗殺者の言葉を頼みにして。
「わはははは!」
河畑は笑った。
「ちがうんだな、それが」
「……は?」
広沢は絶句した。すべてが止まったような感覚に襲われる中、腰だけが別の生き物のように動いていた。
「いまのは全部、おれの想像だよ――西郷さんなら、そうするだろうというな。……もう時がない。答え合わせといこうかい」
待ってくれ、ということもできなかった。河畑は悪戯が成った童子みたいな、いまにも噴きだしそうな顔つきでこう告げた。
「おれにお前さんの暗殺を依頼したのは、西郷さんのような大物じゃあない……かねに横恋慕した小物さ! お前さんは女で身を滅ぼすのさ――いや、その摩羅でな!」
「……」
広沢は股間を見おろした。濡れそぼり、絡まりあい、へばりつく陰毛が、明治政府にめぐっているであろう数々の陰謀を連想させた。
その顔を、河畑が斜め下方から覗きこんでいう。
「あっちにふらふら、こっちにふらふら、八方美人のかぎりを尽くして得た輝かしい参議の地位が、下のぶらぶらで崩れさろうとはよ……」
「……」
広沢の目の端に涙が浮かんだ。腰の動きがにぶる。
河畑は小首を傾げながら、いった。
「なあ――いま、どんな気分だ?」
続けざま、囁いた。
「さ、ここで絶句……」
ついに腰の動きは止まり、かねの声も余韻を愛おしむ静かで切れ切れのものとなった。河畑も黙っている。
やがて、広沢が呟いた。
「……い、嫌だ」
「ああ?」
反射的に凄んだ河畑であったが、すぐに左手で自らの口を塞いだ。広沢が腰を振りはじめたからだ。しかも、いまだかつてない速さと力強さで! かねが絶叫する! 広沢も絶叫する!
「嫌だ! 死にたくない! 死にたくない! 余人の顔色をうかがい、政敵を作ることなく立ち回り! 天子様を欺き、密勅の片棒を担いでまで幕府を斃し! 参議となってようやっと! 富も! 名声も! 女も! やっと欲しいままになったのに!」
河畑は目を見はる! その頬がひくつく! かねが泣き叫ぶ! 広沢も泣き叫ぶ!
「それなのに! お、女がために……ま、摩羅がために死ぬなど……嫌だ! だが、嗚呼! 嗚呼、畜生!」
「わはははは!」
ついに河畑が噴きだしたのは、広沢が魔羅を弾劾しながらも、かねの尻に腰を打ちつけるのをやめなかったからだ。河畑はひとしきり笑うと、広沢の痴態をうっそりと眺め……
「摩羅が憎いか? なら、こうしてやろう!」
叫ぶや、地に弧を描くように刀を引き、広沢の陰茎を根元から断った! 紅に白のまじった、たいへんめでたい色合いの液体が迸る。それが刀の軌跡を彩って、瞬間、闇に仄赤い三日月が笑った。刀はそのままぐるりと大きく円を描いてから、流れるように広沢の背を貫いた。
広沢の断末魔は、下手人たる河畑の耳にも届かなかった。何故なら、勢いよく斬りとばされた陰茎に最奥を突かれたかねが、今宵最高の法悦に泣きさけんでいたからである。
広沢真臣の邸宅は静まりかえっていた――ただ一室を除いて。
庭に面したその一室からは薄明かりが漏れている。雨戸を閉める暇もないらしい。障子には男と女の影絵が映っている。絡まりあう蛇めいた影絵……手押し車めいた影絵……その合間合間に、けだものじみた唸りと、とろけた声と、熱っぽい息づかいと、瑞々しさを孕んだ音が混ざる……
その一室は広沢真臣の寝室で、彼はいま、愛妾の福井かねと布団の上で交合しているのだった。
洋燈が朧に照らすふたりの体は、冬だというのにいたるところ、汗やらなにやらで濡れそぼっていて、湯気さえあげている。この男女の交合がいかに激しく、また長時間にわたっているかを物語っている。しかも、まだまだ終わりそうにない。いましも、広沢はかねを四つんばいにさせ、自分はその後ろに膝立ちになって、己が剛直を突き入れたところであった。
不意に、洋燈の火が消えた。
「……む?」
先に気がついたのは、広沢だった。
というより、かねは気付く素振りもなく喘ぎつづけている。後ろの広沢が腰の動きを止めてしまったので、自らの尻を振ってねだってすらいる。
蝋燭でもあるまいに、何故洋燈の火が消えたのか――そんな疑問は、かねのおねだりの前に吹き飛んだ。広沢は苦笑し、腰の動きを再開させた。かねがひときわ高い、発情した猫みたいな鳴き声をあげた。
そのとき!
「うむ!?」
広沢の叫びは、かねの嬌声にかき消された。
広沢が声をあげたのは、痛みを覚えたからだ。両足首に痛みを覚えたからだ。それも、長らく味わっていない、どこか懐かしさすら感じる痛みを。広沢がその正体に気がつき、苦悶の叫びをあげようとしたとき、彼はのけぞった――いや、のけぞらされた。
顎に何者かの手があった。後頭部が何者かの腹と接していた。ゆえに、口を開くことはできなかった。
広沢がそう認識したとき、視界の端に、後ろからにゅっとあらわれたものがある。
「よう! 久し振りだな、波多野金吾さん――おっと、いまは広沢真臣さんだったな。こうして面と向かって会うのは、京以来か?」
覆面頭巾をかぶった男の頭だった。しかし、広沢にはその素顔を見透かす余裕はなかった――男の右手に、濡れた刀があったからには! いま、その刀を喉元に突きつけられたからには!
ことここに至って、広沢は理解した。先の痛みは、両足首の後ろを斬られた痛みだったのだ。
「お、お前は……一体、誰の差し金……」
広沢がもぐもぐと誰何すると、男は意外にもこう名乗った。
「おれだよ。河畑深左衛門だよ。お前さんを斬りに来たんだよ……」
――河畑深左衛門!
交合のため上気していた広沢の顔は、両足首からの失血を待たずして真っ青になった。
当然、広沢はその名を知っている。かつては血風吹きあれた京で、いまは新風吹きこむ東京府で、その暗殺者の名を「聞き」知っている。いまだかつて、失敗を知らぬ暗殺者の名を! 会ったことはないと思っていたが、河畑の口振りからすると、どうやらいあわせたことがあるらしい……
しかし、広沢はそれ以上、「河畑深左衛門」に思いを巡らすことはできなかった。河畑が、名乗り以上に意外というか、場違いにも、
「それより、腰を振れ」
と小声でいったからだ。
「な、なに?」
そういえば、男――河畑があらわれてより、広沢はかねと繋がっていながら動けずにいた。かねは先ほど気をやったのか、いまはうつぶせになったままぐったりしている。汗の珠散る白い背が、おねだりするよう上下する……
一瞬、その光景に見惚れていた広沢だったが、それにしても、この場合に腰を振れとは一体?
すると河畑は、目に苦笑の色を滲ませながら、内緒話をするようにいった。
「お前さんが腰を振らないと、かねが不審に思うだろう? それとも、かねを先に斬ってほしいのかい……」
「……!」
まさにそのとき、布団に抱かれていたかねが身動ぎして、こう呟いていたのである。
「殿さま……? どなたか、いらっしゃるんですか……? お珍しいこと……今夜は、ふたりであたしを滅茶苦茶にしてくれるんですか……?」
夢見心地で、うっとりと、期待するように。
しかしつぎの瞬間には、彼女は発情した雌猫みたいに唸って、そのしとどに濡れた背中を弓なりにくねらせていた。
広沢が河畑の目と、喉元にある刀を慌ただしく見比べながら、
「ば、ばかを申せ……お前の体はわしだけのものだ。……お、お前の菊門がなにかいいたげにひくついておったから、どうしてほしいのか聞いておっただけのこと――こ、こうしてほしいといっておったわ!」
と誤魔化すや、その指を花よ散れよとばかりに、彼女の愛らしい菊に突きいれたからである。
さらに広沢は、逆の手で食べごろの果実のように張りのよいかねの尻を掴むと、その白い肉の形が変わるさまを凝視して叫んだ。
「こ、こうしてほしいともな! この欲しがりめ!」
これほど滑稽なことがあろうか? 広沢は刀を喉元に突きつけられながら、己が肉の刀をかねの蜜壺に突きつけ、腰を振りはじめた! かねは両手で布団を握りしめながら、獣めいたあえぎ声をあげはじめた!
「摩羅垂涎の艶姿……あやかりたいね……」
河畑の囁きは、かねの淫らな声に上塗りされる。広沢は腰を振りながら、河畑の意図を理解した。なるほど、広沢が後ろから突きつづけるかぎり、かねはあえぎつづけるから、後ろを向いて河畑を見ることはない――河畑の声はあえぎ声にかき消されて、かねに届くことはない……なんたる馬鹿げた隠蔽工作か!
「さて――誰の差し金かといわれて、吐く奴はいない」
淫らな声が響きわたる中、河畑は横から広沢の顔を覗きこんで、ぼそぼそという。
「当ててみなよ……当てられたら、見逃してやる」
広沢は、後ろから迫る恐怖と、前からたばしり昇る快感に挟まれて、混乱の極みにあった。正常な判断などできようはずもなかった――だから、河畑の戯言を真に受けて、いいつのった。
「そ、左右吉か!? 濡れ衣だったなら謝る! だが、詮無いことだったのだ! もはや、時がなかった! ことが公になる前に、片がついたと見せかける必要があった! 参議たるわしが、家中の不義を誅せぬままとあっては示しがつかぬだろう!? きゃつはいわば人柱、尊い犠牲よ……むしろ誇りに思ってもらいたいものだ! 金が足りぬならくれてやる、だから――」
「ちがう」
河畑は肩を揺らしながら首を振る。広沢は息を吸うのも忘れたかのように喋りつづける。
「く、雲井の縁者か!? わ、わしも悔いておるのだ! お前たちは知るまいが、わしはきゃつの斬首を防ぐべく内々に働きかけておった! それを知ってなお、わしを斬るか!? 仕官が望みなら口を利いてやる、だから――」
「ちがうちがう」
河畑は拍子を取るように首を振っていたが、不意にやめると、双眸を刀のごとく細め、突きさすように広沢を睨みつけた。
「……おい、腰を振れといっただろう。なにを休んでいる?」
そして、刃を広沢の喉にあてがった! 広沢は、冷たく鋭い感触に巨躯を縮こませながら呻いた。
「ま、待ってくれ! な、中で萎えてしまって、うまく振れぬのだ」
「なに?」
河畑は、広沢とかねの結合部を瞥見する。確かに陰茎の付け根が撓んでしまっている。いつのまにか、かねの歌も終奏を迎えつつある。
河畑は広沢に視線を戻すと、両目を弛緩させることで、覆面頭巾越しにもそれとわかるような呆れ顔を作り、
「びびりすぎだろう……でかい図体をして、情けない奴め」
と罵ってから、こう付け加えた。
「――仕方がない、手伝ってやる」
「えっ?」
いうや、河畑は左手で広沢の口を塞いだ! 同時、刀を下に向けると、広沢の太ももに突き刺した!
「――!」
広沢の喉の奥から悲鳴がこみあげるが、口を塞がれているので行き場がない! それが下半身へと逆流したか、くじけるように中折れしていた彼の分身が雄叫びをあげるように勃ちあがった! 死を目前にした獣の生殖本能か! かねが身悶えし、再び歌いはじめる!
「わはははは! どうだ、大きくなったろう? さあ、腰を振れ!」
翻った刀が、またしても広沢の喉に突きつけられる! 広沢はもはや腰を振るしかない! 月すら覗き見を躊躇う闇の中、かねの喜悦の声に、合いの手のごとく広沢が腰を打ちつける生々しい音が混じりはじめると、河畑は奇妙な拷問を再開した。
「時に、大久保さんや木戸さんは元気かい?」
広沢は一瞬、ぽかんとした――そのあいだも腰の動きは止めなかった。それから、河畑がほのめかしている恐るべき可能性に思いあたって、叫んだ。
「ば、ばかな!? なんで自ら留守を預けた者を暗殺あろうか!? そも、木戸はわしの朋輩だ! それに、薩人には雲井を始末させてやった! わしが口実を作ってやったのだ! 大久保には感謝されこそすれ、暗殺される謂れはない!」
「おいおい、さっきといっていることがちがうぜ……まあ、いい」
河畑は広沢の言い分の変遷を嘲笑うと、話題を変えた。
「薩人といえば――大久保さんたちは、さる薩人を迎えに行っているんだろう?」
「……」
一瞬、腰の動きが止まる。広沢は無言のまま、すぐにまた腰を振りはじめた。動揺を悟られぬように……だが、無駄な抵抗だった。河畑は、しようのない奴、といった風情で親しみぶかげに続ける。
「隠すな、隠すな……人斬り半次郎がわざわざ東京府まで来る理由など、ほかにない。近々、きゃつが出仕するんだろう? 一度は明治政府の腐敗を憂い、東京府にある薩人を呼びもどそうとまでしたきゃつが……半次郎は、そのお膳立てのためにやってきた――」
「な、何故、いまそのことを――」
もはや否定はしない広沢を無視して、河畑は微笑んだ。
「――いや、露払いか?」
広沢の総身を、快感に由来しない震えが走った。
「ばかな!? 西郷隆盛が!?」
腰と首をもろともに振りながら否定する!
「西郷は政府の改革のために出仕するのだぞ! 参議たるわしの助力を仰ぎこそすれ、暗殺するなど――」
「西郷さんといえば、御用盗よな」
「……は?」
その否定を、全く無関係と思える懐古で遮られ、広沢は間の抜けた声をあげた。河畑は構わずに、闇を仰いで心ここにあらずといった風情で喋りつづける――「風情で」というのは、このあいだも刀は油断なく広沢の喉元に突きつけられていたからだ。
「あれは、素晴らしかった。なかなかできることじゃあ、ない……倒幕の初志を貫徹するためだけに、無辜の民を犠牲にするとはよ。おかげで、おれもいい思いをさせてもらったが……首尾一貫とはまさにきゃつのことだ。実際の首と尻の重さは、一貫どころではなかろうが……く、く……」
「……」
広沢は無言で腰を振るばかりだ。かねはよがっている。広沢の代わりに相槌を打っているかのようだ。
「お前さんはどうだ?」
出し抜けに、河畑がいった。ぐるりと首を巡らして、広沢を見る。その目には、いじめっ子みたいなわざとらしい憐憫の色があった。
「えっ?」
なにがどうなのか広沢が戸惑っていると、河畑は急変、瀑布のごとくまくしたてた!
「長州の内乱では正義派にも俗論派にも与せず、勝った正義派に取りいって藩政に参画し! 戊辰の戦では東征大総督符の下参謀に任じられながら、さっさと辞して西郷さんに後事を押しつけたばかりか、米沢の宮島誠一郎の訪問に応じて非戦を訴え、きゃつらに恩を売り、てめえだけ恨みを買うまいとし! 明治政府では雲井龍雄に帰順部曲点検所の看板を出すことを許し、きゃつらの歓心を買いながら、ひとたび薩人が気色ばむや、これを売って薩人の歓心に買いかえた!」
「……」
交合のため、汗にまみれた広沢の顔に、脂汗が混じりはじめた。
河畑は一転、声調を落とし、広沢の耳に顔を近づけて、囁きを流しこむ。
「……しかもお前さん、常々、『旧習を脱却すべし』とか偉そうにいっているそうだが――てめえが脱却していないじゃあないか」
「な、なんのことだ?」
今度は思いあたる節がない。すると河畑は、闇に不吉な輪郭を浮かべる刀の切っ先で指ししめした――かねの桃みたいな尻を。
「妾だよ、妾……お前さんらが追いつかなきゃいけないらしい西欧の国々じゃあ、妾なんぞ囲わないそうだぜ。つまり妾は、脱却すべき旧習だ……それなのに……」
「ばかな!?」
広沢は仰天した。かねの腰を掴む両手に力がこもった。離すまいとするかのように。一瞬かねの声がくぐもったが、どうやら乱暴にされるのもよいらしく、すぐに元のとおり鳴きはじめる。
我知らず、腰を振る拍子をはやめながら、広沢は抗弁した。
「妾を囲っておるのは、わしだけではない! それに、京では西郷も妾を囲っておった! それを――」
広沢は口をつぐんだ。河畑が何度も頷いて見せたからだ。憂いを孕んだような顔で。その見せかけの肯定に、広沢はむしろ突きはなされたような気がした。
「そのとおり……それなのに、なんでお前さんが選ばれたのか……」
河畑は何度も首を振って見せてから、厳かな声で――もっとも、目は笑っていたが――いった。
「お前さんには首尾一貫というものがない。あるとしたら、我が身可愛さだけだ。西郷さんが作る、首尾一貫した明治政府には『いなくてもいい』人間さ……だから、『いなくちゃあ困る』人間への見せしめに、暗殺しようというのさ!」
「み、見せしめだと!?」
「そうさ! 広沢のように暗殺されたくなければ、日頃の行いをあらため、我が意に従えというわけだ! お前さんはいわば人柱、尊い犠牲よ――誇りに思ったらどうだい?」
広沢はつかのま、言葉を失った。長州藩の中級武士の子に生まれながら、参議として明治政府の実権を握るまでになった自分が、見せしめに殺される……? そのような大それた話があるはずがない、という思いと、西郷ならやりかねない、という思いがせめぎあう中、広沢はすがるように河畑を見た。
「お、お前は……お前は、本当にそう依頼されたというのか? 西郷から……」
当てられたら見逃してやる、という暗殺者の言葉を頼みにして。
「わはははは!」
河畑は笑った。
「ちがうんだな、それが」
「……は?」
広沢は絶句した。すべてが止まったような感覚に襲われる中、腰だけが別の生き物のように動いていた。
「いまのは全部、おれの想像だよ――西郷さんなら、そうするだろうというな。……もう時がない。答え合わせといこうかい」
待ってくれ、ということもできなかった。河畑は悪戯が成った童子みたいな、いまにも噴きだしそうな顔つきでこう告げた。
「おれにお前さんの暗殺を依頼したのは、西郷さんのような大物じゃあない……かねに横恋慕した小物さ! お前さんは女で身を滅ぼすのさ――いや、その摩羅でな!」
「……」
広沢は股間を見おろした。濡れそぼり、絡まりあい、へばりつく陰毛が、明治政府にめぐっているであろう数々の陰謀を連想させた。
その顔を、河畑が斜め下方から覗きこんでいう。
「あっちにふらふら、こっちにふらふら、八方美人のかぎりを尽くして得た輝かしい参議の地位が、下のぶらぶらで崩れさろうとはよ……」
「……」
広沢の目の端に涙が浮かんだ。腰の動きがにぶる。
河畑は小首を傾げながら、いった。
「なあ――いま、どんな気分だ?」
続けざま、囁いた。
「さ、ここで絶句……」
ついに腰の動きは止まり、かねの声も余韻を愛おしむ静かで切れ切れのものとなった。河畑も黙っている。
やがて、広沢が呟いた。
「……い、嫌だ」
「ああ?」
反射的に凄んだ河畑であったが、すぐに左手で自らの口を塞いだ。広沢が腰を振りはじめたからだ。しかも、いまだかつてない速さと力強さで! かねが絶叫する! 広沢も絶叫する!
「嫌だ! 死にたくない! 死にたくない! 余人の顔色をうかがい、政敵を作ることなく立ち回り! 天子様を欺き、密勅の片棒を担いでまで幕府を斃し! 参議となってようやっと! 富も! 名声も! 女も! やっと欲しいままになったのに!」
河畑は目を見はる! その頬がひくつく! かねが泣き叫ぶ! 広沢も泣き叫ぶ!
「それなのに! お、女がために……ま、摩羅がために死ぬなど……嫌だ! だが、嗚呼! 嗚呼、畜生!」
「わはははは!」
ついに河畑が噴きだしたのは、広沢が魔羅を弾劾しながらも、かねの尻に腰を打ちつけるのをやめなかったからだ。河畑はひとしきり笑うと、広沢の痴態をうっそりと眺め……
「摩羅が憎いか? なら、こうしてやろう!」
叫ぶや、地に弧を描くように刀を引き、広沢の陰茎を根元から断った! 紅に白のまじった、たいへんめでたい色合いの液体が迸る。それが刀の軌跡を彩って、瞬間、闇に仄赤い三日月が笑った。刀はそのままぐるりと大きく円を描いてから、流れるように広沢の背を貫いた。
広沢の断末魔は、下手人たる河畑の耳にも届かなかった。何故なら、勢いよく斬りとばされた陰茎に最奥を突かれたかねが、今宵最高の法悦に泣きさけんでいたからである。
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