平行線

ライ子

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第三章

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4月に入った。毎日、マスターの様子を見に、ホスピスへ通う吉行だったが、最近は、訪ねても眠っていることの方が多くなった。そんな中、結婚記念日を迎えた。
朝、早めに目が覚めた。隣には、まだ気持ちよさそうに眠っている麗がいた。長いまつ毛が綺麗だった。吉行は、その寝顔をしばらく眺めていた。可愛いと思った。愛おしいと思った。麗と結婚できて良かったと思った。もっと大切にしないと…。
「吉行。おはよう。」
いつの間にか、また眠ってしまったらしい。キッチンから、いい匂いがした。麗が、朝食の準備を終えて、起こしに来たのだった。
「おはよう。」
「お誕生日おめでとう。今日は、結婚記念日よ。」
「うん。1周年だ…。早いな。俺、30歳かぁ。」
吉行は、ベッドからのそっと起きると、
「ブランチになっちゃったね。」
と言いながら、ダイニングに向かう。
サラダ、サンドイッチ、オニオンスープ、どれも出来たてで、美味しかった。
今日は、ふたりとも休みなので、のんびりデートする予定だった。
「今日は、麗が観たいって言ってた映画観て、買い物して…。」
ピンポーンと、インターホンが鳴った。麗がモニターを見て、嬉しそうに玄関の方へ歩いて行った。
「吉行。ありがとう。覚えててくれて。」
大きなバラの花束を抱えて、リビングに戻って来た。プロポーズした時、毎年結婚記念日に、バラの花束をプレゼントすると約束していた。今年は、自分で買いに行く時間がなさそうだったから、事前に花屋に注文しておいたのだ。
花瓶にバラを楽しそうに生ける麗を見て、吉行は、幸せだった。このままずっと、穏やかに過ごしていければいいのではないか。
「今日、マスターの所、行かないの?」
突然、麗が聞いた。
「あぁ。少し、様子を見に行くよ。」
「私、部屋の前まで行っていいかしら?」
「部屋の前まで?」
「私も、マスターにはお世話になったし…。きっと、弱っている姿を見られてたくないんだと思う。」
「最期までカッコつけさせろって、言ってたな。」
「近くに行きたいの。私は、父親を知らない。もし、お父さんがいたら、マスターみたいな、カッコイイお父さんだって、勝手に想像してた。」
「俺、二十歳の時、親父を亡くして…ずっとマスターを親父のように思ってた。」
マスターは、いつも吉行のことを息子みたいなもんだと言っていた。大好きなマスターだ。
「最近、マスター、眠ってることが多いんだ。俺が話しかけてみて、返事はないかもしれないけど…部屋の前で聞いてて。」
麗は、静かに頷くと、バラを数本包み直した。
「これ、マスターにおすそ分け。」

ふたりは、吉行の運転で、マスターのいるホスピスに向かった。春の日差しが暖かく、車の中は暑いぐらいだった。桜の花は、ほとんど散って葉桜になっていた。
マスターの部屋の前に着くと、麗に待っていてもらって、吉行は中に入った。今日もマスターは、眠っていた。
「マスター。おはようございます。」
「……。」
「今日は、僕達の結婚記念日なんですよ。それに、僕の誕生日なんです。」
「……。」
「この花、麗からです。」
花瓶にバラを生けた。規則正しい呼吸音が聞こえていた。部屋は暑くもなく、寒くもなく、ちょうどいい温度だった。部屋の窓からは、ホスピスの中庭の景色がよく見えた。
「今日は天気がよくて、気持ちいいです。」
ごそっと、布団が動いた。マスターが、ゆっくり目を開けていた。
「吉行か…。」
「はい。」
「最近、眠気がすごくてなぁ。うつらうつらして…。今日は、出勤か?」
「今日は、休みです。」
「じゃあ、俺が出勤だな。支度しないと…。」
マスターは、起き上がろうとした。
「スーツとネクタイは、あるか?」
ベッドの枠に手をかけて、必死に体を起こしている。
「大丈夫です。今日はマスターも、お休みです。」
「そうか。」
「はい。」
マスターは、また目を閉じた。終末期せん妄の症状だった。他のがん患者と比べるものではないが、マスターのせん妄の症状は穏やかな方だった。暴れたり、暴言を吐いたりすることはなく、店で働いていた時のことを言うことが多かった。この症状がで始めたのは、2日前だった。ホスピスのスタッフから、マスターに認知症のような症状が現れても、否定せず話を合わせるように言われていた。
「マスター、水飲みますか?」
「いや。いらないよ。」
水分をあまり摂らなくなった。
「氷、砕いたのはどうです?」
「少し…もらおうか…。」
吉行は、砕いた氷をスプーンでマスターの口まで運んだ。
「体がだるいんだ。どれだけ寝ても疲れが取れない…。俺も年だな…。」
マスターは、そう言うとまた静かに眠った。吉行は、そっと部屋を出た。
「麗。ありがとう。」
「マスター、しんどいのかしら?」
心配そうに、尋ねた。
「モルヒネで、かなり痛みは抑えられているらしいけど…。」
「そう。」
ふたりが、マスターの部屋から離れると、以前、吉行をマスターの息子だと勘違いしていたスタッフに呼び止められた。
「あの…。先生が、少しお時間いただきたいと…。」
吉行は、いよいよ覚悟するべき時が来たのかと思った。麗の表情もこわばっていた。
「はい。」
マスターの主治医からは、食欲がなく、水分も摂らなくなり、せん妄の症状が出ているので、あと数日のうちにその時を迎えるだろうと話があった。冷静に聞いていたつもりだったが、変な汗をかいて、フワフワと宙を浮いているような気持ちだった。
「吉行…。今日は、マスターに付いていてあげて。」
「でも…。」
「結婚記念日は、また何度でも来るわ。」
「麗…。」
麗は、目にいっぱい涙を溜めていた。
「マスターは、吉行にだけ、見送って欲しいのよ。私は大丈夫だから。ね。」
「ありがとう。」
麗は、吉行を置いてひとりで帰って行った。吉行は、マスターの部屋に戻ると、マスターの手や足を優しくさすった。
「足、だるいですか?」
返事はなかったが、気のせいか、気持ち良さそうにしているように見えた。その時、マスターの目から一筋の涙が流れた。
「マスター…。僕の声、聞こえてますか…。」
マスターの唇が、かすかにひらき、聞き取れないほど小さな声で、
「ありがとな…。」
と、言った。吉行は、マスターの手を握った。
「マスター。本当に、カッコイイです。僕の憧れです。」
口元が、少し笑ったように見えた。
しばらくすると、呼吸が不規則になってきた。ホスピスのスタッフに、知らせると、もうあまり時間はなさそうとのことだった。本人が延命処置は、一切望んでいないので、そのまま、自然に任せることになった。聴力は、最後まで残ると言われているから、吉行は、話しかけていた。
日付が変わり、午前3時ころから、呼吸がかなり乱れ出した。もう、いつ息が止まってもおかしくない状態だった。吉行は、マスターの背中をさすった。だんだん呼吸が浅くなってきて、すうっと、1度だけ大きく息を吸って吐くと、呼吸が止まった。午前4時だった。
「マスター…。閉店の時間ですよ…。最後まで、カウンターに立っていたんですか…。」
吉行は、マスターの手を握りしめた。
「店、守りますからね。安心してください。」
マスターの顔は、とても穏やかだった。
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