手のひらの上で踊る

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本編

手のひらの上で足掻く

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よくよく思えば、今日は朝からあり得ないくらいについていなかった。
美衣菜は数々の不運を思い出してそっとため息をついた。

まず始めに、セットしていた目覚ましが鳴らずに寝坊をした。慌てて飛び起き支度をすれば、食卓の椅子に足をとられ転倒し、手に持っていた荷物を全て床にぶちまけてしまった。
スマホは床に落ちた衝撃で画面に取り返しのつかない傷を負い、強打した膝はすりむいてじんわりと血が滲んだ。

それでも嘆いている時間はないと痛みに涙を浮かべながらバス停に向かえば、途中、鳩の糞が頭に直撃。家に引き返す余裕もないので持っていたウェットティッシュでなんとかそれを拭いとり、バス停に急いだ。
しかしいつも遅れがちなバスが定刻前だというのにすでに出た後で、次のバスは20分後――現在、ここである。
一本後のバスでも遅刻することはない。でも、この時点ですごく精神的に参っていた。

「帰ろうかな……」
「へえぇ、サボり?」

小さく呟いたつもりなのに、聞き覚えのある声が返されて美衣菜は顔を引きつらせて振り向いた。
誰もいないと思っていた場所に、そいつはにこにこと笑みを浮かべて立っていた。

桜木 あきら。美衣菜の幼馴染。そして美衣菜の……初恋の相手。
初恋と書いて黒歴史と読む。間違いない。
柔らかそうなちょっとくせ毛の薄い色素の髪に、二重のはっきりとした瞳。通った鼻筋に薄すぎない唇。180センチの身長に制服の上からでもわかる部活でほどほどに鍛えられた体躯。その上うっとりする低めの甘い声の持ち主だ。
アイドルにでもいそうなくらい無駄に整った顔である。目が合うだけで女子生徒たちは頬を染めるほどだ。ただし、美衣菜は冷めた目をして彼を見る。
無駄にイケメンだ。絶対に無駄。

(ううっ。本気で帰りたくなってきた)

「で、サボるの?」

面白そうに聞いてくる声を無視して、美衣菜は晃から目をそらした。

「ふーん。やっぱり無視するんだ」

 口も利きたくもない、という美衣菜の意図をしっかりと理解しているはずなのに、晃はこうやって何かと絡んでくる。
 見た目さわやかなこの男は、外見とは裏腹に性格が悪い。その事実を幼馴染である美衣菜は知っている。

「桜木くん話しかけないでくれる? イライラするから」
「えー、昔みたいに晃って呼んでよ。それにイライラするってひどくない?」
「ちっともひどくないから。それと名前。呼ばないでって言ったよね」
「そうだっけ」

美衣菜の突き放すような言葉にも、晃は気にする様子もなくにこりと笑顔で答える。逆に美衣菜は眉間に皺を寄せる。いつもそうだ。彼は美衣菜の言うことなんてまるで聞く気がない。
当然のように隣に立った晃に、美衣菜は不覚にもどきりとしてしまう。視界の片隅にちらりと入る彼の横顔は、悔しいけれど見惚れてしまうほどにカッコいい。

(いやいやいや、騙されるな私!)

美衣菜は晃から視線を引きはがして足元を凝視した。
ふたりの関係も昔はもう少し違ったものだった。幼馴染というだけあって、とても仲がよかった。
でも。それを壊したのは晃だ。

「……美衣菜」
「ひゃあっ!!」

耳元に生暖かな息がかかり、美衣菜は思わず声を上げた。背中がぞわりとして思わず持っていた荷物を落としてしまう。

「な、な、なにするのっ!」

いつの間にか接近していた晃に、つり目がちな目を険しくして向けた。
息がかかるくらい耳のすぐ横で囁くなんて何を考えているのだ。
顔が熱い。これは絶対に赤くなっている。美衣菜は晃を相手に赤くなってしまったことに憤慨しつつ耳を押さえ距離をとろうとするが、腕をつかまれて逃げることができない。

「ねぇ、顔赤いよ?」

逃げられない美衣菜を引き寄せ、晃は更に顔を近づけてきた。そして頬にちゅっと音を立ててキスを落とす。

(いや―――!!)

今まで晃を避けまくり、三往復以上の会話を成立させないよう過ごしてきた美衣菜にとって、これは予想外の状況だった。
しかも他に人気がないとはいえ、ここは道のど真ん中である。年齢イコール彼氏いない歴を更新中の美衣菜には刺激が強すぎた。
今どきの高校生にしては珍しい、などと言ってはいけない。16歳ともなれば異性関係で進んでいる子もいるが、奥手の子はいくらでもいるのだから。
美衣菜は力任せに晃を突き飛ばすと、どうにか彼の手を振り払ってその場から逃げ出した。


桜木家との付き合いは、十数年前、彼らが美衣菜の家の隣に越してきた時から始まった。
親同士の年齢も近く、男女の差こそあれ子どもは同じ年でひとりきり。早々に意気投合した母親たちにより顔を合わせることも多くなった晃とは、よくふたりで遊んだものだ。
女の子が欲しかったという桜木夫婦からは我が子のように可愛がられていたし、晃もその頃はまだ幼くその本性を顕著にしていなかったので美衣菜とは仲の良い幼馴染として育った。
きっと『あの事』がなければ、今でも仲良く近所付き合いをしていただろう。

「あっ……荷物、置いてきちゃった」

美衣菜は自宅を前にして現実に引き戻された。
何も考えずに逃げ出したが、久しぶりに全力疾走をしたせいでお腹が痛い。日頃の運動不足を実感してしまう。
荒い息を整え大きく弾む心臓をなだめながら、そっと左腕の時計を見る。そしてひとつため息をついた。

引き返したとしても、次のバスには到底間に合わない時間だった。遅刻は確実である。
どうしようかと考えかけて、やめた。幸いなことに家の鍵は財布や定期と一緒に制服のポケットに入っている。
どうせ遅刻ならば、自宅で気分を落ち着けて改めて学校に向かう方がいいだろう。
置き去りにした荷物は多分、晃が回収している。そこは疑う余地もなかった。これ幸いにと手元の美衣菜の荷物を人質に何か要求してくる。あいつはそういう男だ。立ち向かう気力を補充してからでないと、きっとロクなことにならない。

「いい加減に振り回すのやめてくれないかな」

小さく文句を口にしながら、美衣菜は鍵を取り出して玄関を開けた。
誰もいない家の中は静かなものである。
この時間いつもなら母親が家にいるのだが、昨日から父親と二泊三日の温泉旅行へと出掛けている。一人娘を置いてなんとも自由なものだとは思うが、両親の仲は悪いよりも良い方がいいので、美衣菜も文句は言わなかった。

家に上がると、玄関に置いてある姿見が目に入った。
首を傾げれば背中の中ほどまであるストレートの黒髪がさらりと揺れた。頬は珍しく走ったせいかほんのりと赤みがさし、白すぎる肌を健康そうに見せている。でもそこにはいつもの『気の強そうな』表情はない。

(大丈夫。ひとりで、大丈夫――――)

美衣菜は、不安げに見返す鏡の中の自分にわずかに瞳を揺らした後、いつもの呪文を心の中で呟き、姿見から目を離した。
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