手のひらの上で踊る

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本編

手のひらの上で顧みる

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それは小学校6年生の初夏だった。
 
発熱によって学校を二日間休んだ美衣菜は、まだ本調子でない体のまま、同じクラスの晃と学校に向かった。
最初に気付いたのは、教室の空気とか雰囲気とかそういったものだった。いつもと違う、となんとなく違和感を覚えた。6年生ともなれば友達付き合いも結構複雑になってくる。だからまだ幼くてもそれくらいは肌で感じとれた。
そんな中、最初に大きく態度を変えたのは隣の席の男の子だった。

熱で休む前までは普通に話していたはずのその男の子が、あからさまに美衣菜を避けだした。話しかけても顔を強ばらせてろくに返事もしない上に、その子から話しかけられることがなくなった。
何か怒らせることをしただろうかと不安になったが、美衣菜に心当たりは全くない。
納得できなかったが仕方がないとそのままにしておいた。

元々、晃以外の男の子とはそこまで親しくはない。隣の席でちょっとした時に言葉を交わしていた程度だから、不都合があるわけでもなかった。
しかししばらくするとそれが隣の子だけでないことに気付いた。

男の子たちとの会話がほとんどないのだから、気付くのが遅かったのだろう。
美衣菜が話しかけただけで、男の子たちが顔を背けて去っていく。
愕然とした。そんなに嫌われているなんて思いもしなかったのだ。それでも晃は、晃だけは眩しいくらいの笑顔でいつもと変わらず話しかけてくれた。
それに態度が変わったのは男の子だけだった。クラスの女の子とはいつもどおりに話もできたし、遊びもした。だからその後に起こったことが信じられなかった。

「……ごめんね?」

授業の一環で班分けをすることになっていた。
一番仲のいい友達の所へ行こうとすると、彼女は小さくそう口にして別の友達の所へさっさと行ってしまったのだ。
ひとりぽつりと取り残された美衣菜はショックで立ち尽くすしかできなかった。

「美衣菜、俺の班へおいで」

それを見た晃が美衣菜を自分の班へ誘ってくれなければ、きっとその場で泣き出してしまったに違いない。
以来、他の女の子たちの態度も男の子たちとそう変わらなくなった。目に見えた酷いいじめではなかったが、どこか遠巻きにされ無視に近い扱いは続いた。

理由はわからないままである。
落ち込む美衣菜の唯一の救いはやはり晃だった。ひとりだけ前と変わらず接してくれる晃。彼のやさしさに助けられながら表面上は穏やかな日々を過ごしていた。

その些細な平和さえ崩れたのはいつだっただろう。
ある日、美衣菜は無視以外のいじめをはじめて受けることになった。
思い返せば、彼女はいつも少し離れた場所から恨みがましい目を向けてきていた。多分、彼女は晃が美衣菜に構うのが許せなかったのだろう。当然だ。晃はモテた。彼女も晃が好きだったのだ。

でもさすがに、掃除時間中にバケツの水を頭からかけられるとは予想もしていなかった。
不幸中の幸いなのは、季節が夏に差しかかる頃で、そのバケツの水も入れたばかりのきれいな水だったことだろう。
それでも今回はさすがに美衣菜も泣いた。今まで泣かなかった分、溢れるものを止められなかった。

泣きながら教室へ向かう途中、驚いてかけつけた担任から保健室へと連れていかれた。担任は若い男性で、今までの美衣菜の状況を全く気付きもしなかった。今回のこともどう捉えているのか、泣きやまない美衣菜をおろおろしながらなだめるだけだった。
保健室で泣けるだけ泣いた美衣菜は、濡れた服から体操服に着替え終えると仕方なく教室へと戻ることにした。

教室に向かう足取りは当然ながら重い。
まだ下校時刻には早いようで、ちらほらと他の学年の生徒たちとすれ違う。彼らは美衣菜の姿と濡れた髪を不思議そうに見ていく。なんとも居心地の悪い視線だが、最近はそんな視線ばかりを浴び続けているので慣れたものだ。
ようやく三階に辿り着いて顔を上げると、教室の入口付近に見覚えのある後姿を見つけた。

ここ二年ほどで随分と成長し美衣菜との差をつけつつある晃の身長は、クラスでも同学年でも高い部類に入る。整った顔立ちと相まってひと際目立つその姿は、誰が呼び始めたか女の子たちから王子様と言われるようになっていた。
美衣菜はほっと安堵の息をついた。晃がいるなら大丈夫だろうとそのまま教室に近づこうとして、しかし次の瞬間聞こえてきたあり得ないくらい低い彼の声に思わず足を止める。

「――だから?」

自分には向けられたことはない種類の、声。
教室から美衣菜のいる場所は死角になっているようで、誰も気付いてはいない。当の晃も入口に半ば背を向けるように立っているので、かろうじて横顔が見えるくらいだ。
その横顔がなんだか険しい。

「言ったよね? 手出しはするな、って」
「で、でもっ!」
「うるさい」

慌てたように言い募る少女を一言で黙らせる。決して大きな声ではないのに有無を言わさない力がある声色だった。
彼女は怯えているのか、でも、とかだって、とか小さく言っているのが漏れ聞こえてくる。

「残念だけど、約束が守れないのならあの話もなかったことにするから」

(……約束? あの話?)

つきりと胸が痛んだ。
晃は彼女と何を約束したというのだろう。相手の顔は見えないが、声で先ほど美衣菜に水をかけた少女であろうことはわかった。

(それに手出しはするな、って……私のこと? もしかして守ってくれていた?)

痛んだはずの胸が今度は違う意味できゅっと締め付けられる。
いつも傍にいてくれた晃。やさしくてカッコよくて、何よりクラスメイトたちと違いただひとり態度を変えなかった人。好きなのだと自覚していたけれど、今の関係が壊れるのが恐くて目を背け続けている。
晃は昔からとても女の子たちに人気があった。幼馴染でなければ、美衣菜はきっと近くにいることができなかった。 
でも。もしかして。想われていると自惚れてもいいのだろうか。

「ま、待って! じゃあ今度――――」
「馬鹿だな。次なんてある訳ないだろ」

晃は辛らつな口調で少女の言葉を遮ると、にっこりと笑った。少女は浴びせられた言葉と向けられた笑顔を前に黙り込んだ。

「何度も言わせるな。お前たちも覚えておけ。美衣菜には一切、手を出すな」
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