手のひらの上で踊る

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本編

手のひらの上で惑う

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『――――ぃな。美衣菜』

やさしく名前を呼ばれると、あの頃の幸せな気持ちを思い出す。
そんな夢見心地のまま、美衣菜はゆっくり目を開けた。ぼんやりとした頭で焦点の合わない目を動かすと、細められた目と視線が交わる。

「美衣菜」

(あれ? これも夢?)

嬉しそうににこりと笑む晃は、夢の中で見たものよりも大人びて見える。

「あき、ら?」

夢の余韻をいくばくか残した脳は、目の前の現象ことに戸惑いを隠せない。困惑する美衣菜を面白そうに見下ろしていた彼は、ふ、と唇の端をわずかに上げると端整な顔をゆっくりと傾けた。
柔らかな感触が唇に触れる。
美衣菜はそこでようやく、それが現実であることに思い至った。
覚醒した美衣菜は慌てて目の前の男から逃れようとするが、いつの間にか体ごと押さえ込まれていて抜け出すことができない。逆に抗議しようと開いた唇の隙間からぬるりとしたものが口内に入ってくる。

「んんっ!?」

それは逃げようとした美衣菜の舌を絡めとり追い立てる。

(何この状況!?)

経験のない美衣菜にもこれはわかる。わかるが、理解したくなかった。
深くなる口付けに思考は完全に止まってしまった。口内をまさぐられ与えられる刺激に息があがった。
遅刻は確定、そう開き直ってしまえば気が楽で、せっかく家に帰ったのだからと汚れを拭っただけの髪をきれいに洗うために浴室に直行した。シャワーを浴びた後、バスの時間を調べ自室のベッドで横になったのは記憶している。
不覚にも寝入ってしまったのは、まあ仕方がないとしても、この状況は看過できない。玄関は鍵をかけていたし、そもそも寝込みを襲うなんて暴挙は許せるものではない。

「名前、やっと呼んでくれたね」

濡れた己の唇を自らの舌でぺろりとなぞり恍惚とした表情で悪魔が囁いた。

「嬉しいよ」
「勝手に入ってきて、なんてことするのよ! 私初めてだったのに!!」

しかも初心者相手にしては遠慮なくディープすぎるものだった。
真っ赤になって訴えると、晃は心外だと言わんばかりに眉根を寄せた。

「違うよ。初めてじゃないでしょ? それにわざわざ荷物持ってきた相手に酷い言いようだよね」
「…………え?」

意味がわからないと戸惑い見上げる美衣菜に、晃はにっこりと眩暈がするほど素晴らしい笑顔で答えた。

「だから初めてじゃないよ。美衣菜、俺とキスしたことあるよね?」
「いっ、一体いつ?!」

慌てて記憶を辿るが、美衣菜には全く、これっぽっちも該当するものがない。

「えー、忘れられてるなんてショックなんだけど」

こつんと晃のおでこが美衣菜のおでこに触れる。

(ひー! 近い! 近すぎる!)

美衣菜の両手はしっかりと晃の両手で確保されている。動かせない体は押しつぶさないように、でも逃げられないよう上手く彼の体でベッドに固定されている。それなりに運動をして鍛えている晃に、どちらかと言えば細身の女性である美衣菜が敵うはずもなかった。
どんなに目をそらしても、距離が近くて視界に彼の顔が入ってくる。
晃の整った顔を小さな頃から見慣れているはずの美衣菜だが、彼を見てときめいてしまうのは意図していることではない。
認めたくはないが、晃の顔は美衣菜の好みなのである。それもかなり。

(絶対に本人には言うつもりはないけど)

先ほどの行為も相まって、湯気がでるのではないかと思うほど顔が熱かった。心臓が跳ねる音もこの密着度合いから晃には筒抜けだろう。
今まで避けていたことが一瞬にして無駄になってしまった。避ける前よりも親密な状態に陥っているのは気のせいではない。
嫌いだと、関わり合いになりたくないのだと、何度も声を大にして晃にも自分にも言い続けてきたというのに。

「ね、本当に覚えてないの?」

ここで嘘をついても無駄な気がして、美衣菜は諦めて小さく頷いた。
そう、と残念そうな声が降ってきたかと思うと、何故か両手を頭の上に持っていかれる。美衣菜の手は晃の大きな手に簡単にとらわれひとつに纏められた。

「え? あの、ちょっと?」
「じゃあ、協力するからちゃんと思い出してよね」

晃は空いた片手をさりげなく美衣菜の顎に添えると、再び唇を塞ぎにかかる。

「な……ぅん!」

美衣菜の抗議は、その息ごと晃の口に含まれて消えていった。

 
顔は極上、性格は極悪。
それが、美衣菜が晃に下した評価である。

「思い出した? 俺たちのファーストキス」

長く深いキスと触れるだけの軽いキスを、角度を変えては何度となく繰り返され抵抗する気を根こそぎ奪われた美衣菜は、潤んだ目で晃を見上げた。

「むり……も、離して」
「ふふ。気持ちよかった? とろけるような表情(かお)してるよ」
「きらい。晃なんて大嫌い」
「まだすねてるの? 一体、俺を何年我慢させるつもりだよ」

晃はまなじりを下げて端整な顔を曇らせた。

「……そんなの知らない」
「4年だよ? そろそろ許してよ。馬鹿な女に美衣菜が傷つけられたのは俺のミスだし悪かったって思ってる。反省してるから」

ね、と小首を傾げて申し訳なさそうにする晃。自分の見目が良いことは織り込みずみに決まっている。あざとすぎる。

6年生の時に起こった美衣菜へのいじめ。
きっかけはやはり晃で。
水をかけた少女が、晃が首謀者だと言い出したから更に事態は複雑になった。

当の晃は、『俺だけを見て、俺だけを頼って』なんてふざけた事を言うだけで少女の言葉を否定しなかった。
その態度に美衣菜は間違いなく傷ついた。一番近くにいて、誰よりも信用をしていた晃に裏切られたと思った。

晃が何を考えているのかわからくなって。もしかしたら、本当に晃が首謀者なのではないかと疑ってしまうほどだったのだ。

だから晃と距離をおいた。
晃はそんな美衣菜に特別何を言うわけでもなかった。

今更、距離を縮められても戸惑うばかりだ。
美衣菜はあれからずっと一方的に彼を避け続けてきた。否定しなかった晃が悪いはずなのに、結果だけをみると美衣菜の方が悪者である。
どんな顔をして向き合えばいいのか。

「君は俺のものだよ」
「私はものじゃないから!」
「美衣菜は俺のこと好き、だよね?」

晃の熱を孕んだ眼差しが美衣菜を揺さぶる。
美衣菜は絶えられなくて、それから目をそむけた。

「……嫌い」
「嘘。ずっと嫌いって言いながら、でも俺のこと見てる」
「見てない」
「じゃあ何で顔赤くしてるの?」
「して、ない!」

晃の手が美衣菜の赤く染まった頬をそっと触れる。髪をなでられ、耳にも手を伸ばされる。
美衣菜はぎゅっと目を閉じた。

「俺はずっと美衣菜のことしか見てないよ?」

耳のすぐ横で、晃はそう囁く。ぞくりと背中に何かが走った。

「……っつ!」
「やっぱり、耳弱いね」

耳元でそんな声がしたかと思うと、耳朶にあり得ない感触がした。

(うそうそうそ! 舐められてる!!)

耳が弱いというのは本当なのだろう。何度も行き来する舌の感触に、今まで感じたこともないぞくぞくとした感覚が背筋を駆け上がる。

「あっ……」
「ほら、感じてる」

色めいた晃の低い声が、彼の暖かい息と共に敏感になった耳に入る。そして再開された愛撫。美衣菜は全神経がそこへ集まっているかのような錯覚に陥った。
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