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第四話 落雁ほろり。
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しおりを挟む「美味しゅうございます」
「本当だねぇ。やっぱりイサカさんの菓子は間違いない」
キョウコのかじった残りを、躊躇いなく口に放ってショウスケは満足そうに頷く。
「残りは、元気になってからのお楽しみに取っておこうね」
「その時も、一緒に召し上がってくださいますか?」
「おキョウさんがそう望むのなら、喜んでおよばれするよ」
嬉しげに微笑むキョウコの頭をひと撫でし、額の熱さを確かめた。熱くない。むしろ冷やりと感じるくらいだ。
「さぁ、もうお休み」
顔色は見られるくらいに、ランプの火を細くした。
背に手を添えて、再び横たえようとするも、キョウコは珍しくいやいやと聞き分けなかった。
ショウスケは知らなくて当然だろうが、キョウコはまさに地獄の淵から帰ってきたのだ。いくら肝が据わっていようと、暗闇で迎えを待つのは心細かった。
生身の体で感じられる主人の存在が恋しくて、手放しがたくて、また眠りに落ちるのが惜しくてならなかったのだ。
寝かせようとするとなぜだか抵抗するのだが、もとより小柄で、しかも今は病み上がりだ。抵抗もたかが知れている。ショウスケでも簡単に横たえることはできた。
……が、どうしても寝ようとしない。翡翠の瞳でじっくりと見つめてくるので、ショウスケは困惑した。目が覚めるまで、しつこいほど見ていたお返しをされている気分だ。
「どこにも行かないから、安心おし」
頭ではわかっているようで、キョウコは頷くのだが、いっこうに目を閉じる様子はない。
ハルが小さい頃、隣の奥さんが寝かしつけに苦労していたのが思い出されて、女性に対してそれも失礼かと、ショウスケは密かに笑った。
「やれやれ……」
ショウスケはおもむろに布団をめくると、キョウコの隣に体を滑り込ませた。胸に抱くようにして引き寄せる。子をあやすならトントンとするところだが、猫が相手だと思って、頭や背中をゆっくり撫でた。
「……あっ! 嫌なら言ってくださいね!」
猫の時に逃げ出され、生まれ変わったキョウコに「無理矢理……」と言われたことを思い出す。
腕の中で小さく首を振るのを肯定と受け取って、ショウスケは猫を安心させるようにさすり続けた。
胸に抱えているせいで、さっきまでじっと開いていた翡翠の瞳は見えない。だがまだ寝ていないことは気配で察することができた。
「……おキョウさんがいないと、僕はどうも調子が狂う気がする」
キョウコの髪を指ですくと、髪の内から桜の花びらが出てきた。川面で拾い上げてきたのだろう。
「朝が来て、おキョウさんが声を掛けてくれると、ああ一日が始まったなぁと感じるんだ」
「…………おはようございます、主人様。お仕事でございます
「そう、そんなふうに」
ふふふ、とショウスケは笑う。
「それがないと、起きられないかもしれない」
「旦那様がそれでは示しがつきませんね」
「だから早く元気になって、いつもの調子で起こしにきておくれ」
身動ぐ気配がして目をやると、キョウコがじっと見つめていた。
その頬が先刻よりも赤く色づいているのが、仄かな灯りの中でも確認できた。触れた手は温かく、脈も強く打っている。
ショウスケは嬉しげに微笑む。
「ああ、ずっと顔色が良くなった。よかった、よかった」
あっけらかんとした笑顔には、落雁の一欠片の甘さも含まれていない。
愛しさを全身に溢れさせて、潤んだ瞳で見つめていたキョウコにしたら、肩透かしをくらった気分だ。
つんと尖らせた唇は、桜色。ぷぅっと膨らませた頬は桃色。ただ一人のひとを見つめる瞳は翡翠色。
春を纏った少女はわざとらしく、主人の胸に額を押し付けて目を閉じた。
※ ※ ※
春の宵が静かに更ける。
川面を桜の花が埋め尽くし、クラサワの街から遠く、何処かへと旅立っていく。
橋の欄干に上半身をもたせた男の髪が、月明かりを受けて黄金色に光を弾く。
煙管の灰を灰吹に落として、男は大きなため息をついた。
静かな夜だ。空気に混じり気がなくて、冷たすぎるほどに。
やがて来る嵐を引き寄せるため、春は静かに逝こうとしていた。
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