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第五話 星、流れども。

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 遺体を検めている所員の話を聴き取りながら、時に図解を交えて書き記していく。
 ネイの命を絶ったのは、首に引かれた一文字いちもんじの傷だ。刃物で一太刀、ネイから見て右から左に抜けるように斬られている。
 おびただしい血が、その瞬間の凄まじさを物語っていた。

「何が起きたか理解できないまま意識を失われ、そのまま死に到ったと思われます」

 所員が告げる。ネイに悶絶した様子がなく、眠るように目を伏せている姿からそう推測したそうだ。それを敢えて口にしたのは、ショウスケの慰めになればと思ったからだが、どちらにせよ辛い現実を突き付けることに変わりはなかった。

 ショウスケも、ネイに触れながら他に変わったところがないか確認する。
 温もりを失った身体の強張りが、彼女を死人たらしめている。白々と眠るおもてが作り物のようだ。ほんの少し前まで快活なネイを作り上げていたあかだけがやたらと生々しく臭って、込み上げる吐き気を喉の奥に押し込めた。

 ネイに特別不審なところはなく、程なくして離れの方へ運び出された。所員たちは血の足跡を残さないように慎重な足運びだ。その様子もショウスケは記録に残した。

 続いて、ユキヘイを検める。卓のそばに行くまでについた己の足跡は、それとわかるように記しておいた。

 ユキヘイの傍らには、コイミズが膝をついてじっと死に顔を見つめていた。その目に悲哀は滲んでいない。無感情だ。
 所員の検分が終わるまで、ショウスケは卓周辺の状況を書き取って待った。

 赤い飛沫しぶきは卓にも降りかかっていて、ユキヘイの着物も右の片袖が染まっていた。その手に刀身を剥き出しにした合口が握られている。刃を染める血は乾いているようだ。
 間近で確認すると、合口の柄を握っているように見えた手は開かれ、ほとんど手放している状態だ。手のひらに寄りかかるように、かろうじて倒れずに手中に収まっている。
 ネイの首を斬りつけたと思しき合口だが、ショウスケには見覚えのないものだった。家族の持ち物など全て把握しているはずもなく、二人のどちらかの物かと問われても、知らないとしか答えようがなかった。
 どちらにも似つかわしくないことならば、はっきり主張できるが、それは記録に残せない。

 ため息をこらえて、卓を確認する。
 突っ伏したユキヘイの隣に硯と落款印が並べられ、その下に文が敷かれていた。

 破裂しそうなほどに鳴動する胸を撫でながら、ショウスケは文を手にした。

『此度、溟沢クラサワを揺るがした疑惑のすべては言ノ葉コトノハ浅井アサイ家が前当主、幸兵衛ユキヘイの一存により計画、実行されたことである。私欲に目が眩み、研究所及び町長……ひいては街の名を貶めた罪。死をもって償う』

 紛れもないユキヘイ本人の字だ。筆使い、文面、落款まで、ユキヘイの実直さが生きている。力強く、一切の迷いも感じさせぬ文字が迫ってきて、ショウスケは目眩を覚えた。

──わたしはもう、自分の字がどんなものであったか思い出せそうにない。

 潔い字だ。
 この文を書くために、心を失うまですり減らしたのだろうか。まるで墨をするように。
 だとしたら、文字を作り出す黒はユキヘイの涙だと、ショウスケは文に袖を当てた。

 硯が使われていない様子を見ると、遺書を書いたのは今日ではないようだ。最後に落款印だけを捺したらしく、印章を撫でるとまだ赤い顔料が滲んだ。

「ご主人の方は、服毒したと思われます」

 卓の下を探った所員が、転がっていた湯呑みを拾い上げた。刑番所に持ち帰って調べるのだろう。合口と一緒に、押収物の一つとしてしまわれた。

 ユキヘイの死に顔はネイに比べると、苦悶を浮かべていた。喉を掻きむしったのだろう。血が滲むほどの爪痕が幾筋も残っている。

「状況からして、妻を道連れに自死。これで間違いないわね?」

 コイミズは表情を変えずに口にした。
 ショウスケは唇を噛んで、何も答えない。客観的な事実はそうだ。だが、主観で述べていいのなら、ユキヘイがそんなことをするはずがないと言いたかった。

「……さっさと運びなさい」

 所長の指示で、刑番所の男たちがユキヘイを動かした。ネイより動かしにくそうだ。体勢のせいだろうか。
 一旦卓から離して、抱え直して運びにかかる。
 ショウスケはもうこれ以上見ていたくなくて、目を背けた。
 すると、思わぬところから叱咤が飛んできた。

「しゃんとなさってください、主人様! それでも書記屋ですか!?」

 不意に掛けられた声に、ショウスケは掬い上げられた。不思議と、コイミズまでも弾かれたように驚いた顔をしている。

 戸のそばには、まだ幼さの残る少女が立っているだけだ。それなのに、まるでネイがそこに立っているように見えた。

 ショウスケは頬をひと叩きして、気を引き締め直した。

「コイミズ様、お待ちを。そのまま、もう一度見させてください」


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