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零話 わたしの名前。あなたの名前。

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 餌と居場所を求めて、彼女は流れた。

 ある日、とんでもない性悪の中年に売られた喧嘩を買ったらしこたまやられて、脇腹を掻っ捌かれた。
 相手は彼女より縦にも横にも大きくて、当然ながら持っている爪も馬鹿みたいに大きく鋭かった。
 彼女らは皮が厚く柔軟で、見かけより深傷ふかでを負うことはないのが常だったが、その時ばかりは肉まで裂けて血が溢れた。

 誰にも邪魔されぬ縁の下などで、傷が癒えるのを待ったが、性悪のオヤジが放っておいてくれず、治りかけると住処を追われた。閉じかけては開く傷を抱えて逃げ延びる日々を送って、気付けば隣町までやって来ていた。
 そこは意地悪な同族もおらず、隠れ潜む場所さえ見つけてしまえば、落ち着いて傷を癒すことができた。しかし治るべき時を逸した傷は膿んで、彼女の体を蝕んだ。
 奇しくも季節は暑さの厳しい夏の終わり。動くのもままならないため、ほとんど飲まず食わずで、日干しのように横たわっているしかなかった。
 おそらくこれで死ぬのだろうと覚悟はした。それでも、痛む体を起こして縁の下に溜まった水を舐め、弱った手を伸ばしてはたまに横切る鼠を食ったのは、まだ諦めきれなかったからかもしれない。
 きっとどこかにある、ここなら骨を埋められると思える場所を。
 そうして数週間を、死ぬまで生きると決めて過ごした。

 残暑が過ぎ、いくらか涼しい日が続くようになると、すっかり傷は乾いて新しい毛が生えてきた。
 濁った水にも飽きたところだ。少しばかり欲が出て、養生先を変えることにした彼女は、街を歩いた。
 萎えた手足が言うことを聞かない。これではとても探索なんてできやしない。そう悟った彼女は、安全な場所の匂いを瞬時に嗅ぎ取った。
 あの杉林の奥がよさそうだ。嫌な気配を感じない。緩い坂道にかかった石段が少し厄介ではあったが、程よく日も遮られ、静かで良さそうな場所だった。
 朱塗りと呼ぶらしい鳥居をくぐった先に、それほど大きくないが、歴史の古そうな社があった。
 拝殿を繋ぐきざはしの前に賽銭箱と縄を垂らした鈴がある。それに向き合って手を合わせる人間がいる。
 誰もいないと思ったのに、と彼女は踵を返そうとした。しかしどうしてだろうか。足が動かない。
 それもそのはず。彼女の体はとうに限界だった。自分でもわからないうちに、力が抜けてその場に倒れてしまったのだ。

 目と、意識だけははっきりしていて、拝殿の前にいた人間が近付いてくるのを、逃げることも威嚇することもできずに見ていることしかできなかった。
 まだ少年と青年の間にいるような、穏やかそうな人間だった。
 濡羽色の髪と、御空みそら色の羽織がなんとも言えず涼やかだが、彼女の目にその色は映らない。ただ一心に己を見つめてくる瞳と、何か語りかけてくる声に、妙に心が落ち着けられて、そこで彼女は意識を失った。
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