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第18話 通常業務

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 十日間の工場実習が終わった。

マルヴィナは、ようやくオプションライン工程の色々な作業に慣れかけてきたところで、元の職場に戻ることになった。

元職場に戻った二日目の朝、机の左隣の男性が話しかけてきた。

「君、ストーリー検査の仕事をひとつやってくれないか?」
その男性は、顔を真っ赤にしながら伏し目がちに尋ねてきた。

「あ、はい。いいですよ」
昨日、工場実習から戻ってきた初日は、誰からも話しかけられることがなく、したがって何もすることがなく一日が終わり、今朝も職場に来てから少し暇で手持無沙汰だったからちょうどよかったのだ。

「業務物語二〇〇〇の影武者ギルド向けに変更が入ったんだ」

「あ、はい」
その男性は、自分の机のうえに置いてあった大きな本をマルヴィナに渡した。マルヴィナは、その男性の名前がわからなかったので、とりあえずマダコと名づけることにした。

「業務物語二〇〇〇、影武者ギルド向け丙五三の五か」
と自席で本を開けようとすると、

「君、検査ルームへは行かないのかい?」
マダコが聞いてきた。

「検査ルームとは?」
聞き返すマルヴィナ。

「検査ルームを教えてなかったかな?」
そう言いながら、マダコが自分の棚から鼠色のジャケットを取り出して羽織った。

「今から教えます。ジャケットはありますか?」
マルヴィナは、工場実習が終わったときに持って帰ってよいと言われた鼠色のジャケットを自分の鞄から取り出した。

「では行きましょう」
大きな本を抱えて、マダコに連れられて移動する。階段をどんどん降りていくと、二階についた。

「ここに顧客部の検査ルームがあります」
と扉が開いたフロアを入ると、七階と同じかなり広めのフロアになっていた。だが、所狭しと色んなものが置いてあってごちゃごちゃしている。

マダコがそこをどんどん奥へと歩いていく。

「われわれのエリアはここです。そうだなあ……」
マダコは、いろいろとよくわからないものが山積みにされた一角にある机にマルヴィナを連れてきた。

「とりあえず、前任者が使っていたここを使ってもらえますか」

「あ、はい、わかりました」
そう言われて、さっそくその椅子に座って本を机に置いた。

「ぼくも時々あそこの机で検査をしています」
そうそちらを指さすと、マダコは七階へ戻っていった。

「たしかに、時々机からいなくなるのはそういうことだったのね」
昨日、特にやることがなく職場をただ観察していたマルヴィナは、隣に座るマダコを含め、職場にいるひとたちが時々長時間いなくなることに気づいていたのだ。

「さあ、確認するか」
分厚い本を開き、注意書きを飛ばし読みする。そして物語の本文が始まると、適当に斜め読みしていった。

「業務物語だから仕方ないのかもしれないけど、ストーリーが単調で面白くないのよね」
そう言いながら、本をパラパラやりだす。すると、ふとあるところで目が止まった。

「あれ?」
何か違和感に気づくマルヴィナ。

「市役所のトイレ、って書いてあるけど、このバージョンは影武者ギルド向けだよね……」
そこだけを注意深く読んでいく。

「うーん、主人公が市役所に行く場面でもなく、影武者ギルドの建物内の話なのにトイレに行く場面で唐突に市役所のトイレが出てくるわ。これってあれよね?」
さっそく、そのページに折り目を付けて、本も持って七階に戻ることにした。

階段を元気に五階分駆け上がっていく。七階に着くと、

「あれ、マダコがいないや」
隣の席の男性がどこかに行っているようだ。二階の検査ルームにもいなかったから、どこに行ったのだろう。と一時間ほど待っていると、マダコが戻ってきた。

「あの、マダコさん、これを……」
本を開いて記載を見せた。

「う、うん? た、たしかに、これはまずいね。さっそく打ち合わせしよう」
マダコは顔を赤くして興奮しながら立ち上がった。よく見ると、マダコの身長はマルヴィナよりやや低いようだ。

「これはたぶんモジュール部だから、四階だね」
とマダコが本を持ち、二人でさっそく階段で四階へ移動する。

四階のフロアは、七階よりも人が多くて混み合っている印象だった。パッと見で、若い人と、女性の比率が高い気がする。

「トイレ課に聞いてみよう」
マダコがどんどんフロアを歩いていき、ある机で止まった。

「すみません、これ……」
その三十代後半に見える分厚い眼鏡の男性に説明した。

「あ……」
と言ってその男性が立ち上がり、フロア隅の小さな会議室に三人で歩いていく。

「このたびは申し訳ございません」
と言って急遽打ち合わせが始まった。

「影武者ギルド向けの業務物語に間違って市役所のトイレの記載があるわね」
マルヴィナがさっそく問いただす。

「はい、もうしわけございません」

「原因はなに?」

「えっと、今は担当者がいないので……。あとで確認します」
そのトイレ課の男性がノートに何かメモった。

「では、そこを修正してからもう一度持ってきてもらえますか?」
とマダコが打ち合わせを閉めた。

また七階に戻ったマルヴィナ。やることがない。

「そうだわ、二階に行こう」
特にやることがないのだが、二階の検査机で時間をつぶすことにした。二階のほうが人目もあまり気にしなくて済む。


 一方、こちらはディタ。

工場実習から戻ってきた昨日の初日から、とても忙しかった。

「ふう、やっと戻ってきた」
業務物語三〇〇〇の担当モジュールの単体検査を何項目か終え、四階職場の自席に戻ってくると、となりの分厚い眼鏡の男性が話しかけてきた。

「物語二〇〇〇の誤記修正依頼が来ててね……」
男性が、顧客部が置いていった本を開いて問題の部分を見せた。

「あ、はい」
ディタが規定の変更用紙に書き込んでいき、

「それが書けたら変更表紙のハンコをもらってきてね」
と、たくさんのハンコ枠がついた紙をディタに渡した。

「あ、はい」
変更用紙を書き終わり、表紙にまず自分のハンコを押す。そして、逆隣のひとに話しかけた。

「あの、ハンコをいただきたいんですが……」
その人はとても忙しそうだったが、手を止めてものも言わずに紙を受け取るとポンとハンコを押した。

「次は主任印ね」
さらに隣の中年女性にハンコをもらい、そして戻ってきて隣の分厚い眼鏡の男性に課長印をもらった。

「次は部長印ね」
とフロアの北側を睨む。各部長席にはいつものごとく行列が出来ていた。

「まず副部長からだわ」
副部長の行列に並ぶ。副部長は五人いるのだが、必要な副部長印はふたつだった。

一人目の副部長の番が回ってくると、その副部長はディタの顔と書類を一瞥するとポンとハンコを押した。二人目も同様だった。

「次は正部長ね」
さらに長い行列に並ぶ。一時間ほどかけて順番が回ってきて、正部長が書類を一瞥してディタの顔も見ずにハンコを押した。

「次は副本部長ね」
なんとか副本部長の印をもらい、

「最後は本部長ね」
また一時間ほど行列に並んで、番が回ってきた。本部長はとても忙しいのか、ディタが書類を机の端に置くと、書類も顔も見ないで差し出された紙にハンコを押した。慣れているのか、その印影は正確に本部長印の枠に収まっていた。

「さすがだわ」

気づくと、その日もすでに夜が遅くなっていた。

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