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第22話 納期

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 十月のある日。

マルヴィナが顧客部の職場で暇そうにしていると、

「緊急の打ち合わせをやります」
とスキンヘッドで眼鏡の課長が声をかけてきた。

周囲のひとたちが立ち上がり、フロア内のオープンの会議室へゾロゾロ歩いていく。すでにそこは人だかりの山になっていた。

その中心で、

「設計課長です、日程についてお話しさせていただきます」
設計部からひとりの課長が来て、話しているようだった。

人垣の隙間から見ると、長テーブルに顧客部の偉いさん、つまり副部長や部長や本部長がずらりと並んで座っている。お偉いさんがたはみんな腕を組んで静かに俯いていた。

「本日、業務物語三〇〇〇の検査をご依頼させていただく予定でしたが、諸々の事情により日程を延期させていただきます」
設計課長の声はマルヴィナからはかろうじて聞き取れるレベルだ。

「いつまでずらすの?」
人垣の中から大きな声が聞こえてきた。誰が話しているのかはマルヴィナからは見えない。

「来月の半ばには完成させます」

「来月の半ばって、一か月も延期じゃないか。納期も一か月ずれるんだよね?」
顧客部は誰が喋っているのかわからなかったが、声が大きいので問題なかった。

「いえ、納期は絶対なので、そこは変わりません。チェックの開始が遅れるだけです」

「はあ? じゃあ顧客部は検査に何日かけられるの?」

「日程上は一日ということになります」
設計課長の声が小さいので、その部分だけみんなが耳を澄ます。

「一日? そんなんで検査できると思ってんの!?」

「はい、申し訳ございません」
設計課長は答えたきり、黙り込んでしまった。

「そもそも、今までは二か月かけてしっかり検査していたのに、開発手法が変わってそれが一か月に減って、しかもそれがさらに一日に減って、納期は変わらないって、そんなのあり得る?」
設計課長は俯いたまま黙っている。

そして、これだけの人数がいるにも関わらず誰も何も言葉を発しないまま数分が過ぎた。

「なんでそんなに遅れてるの?」

「トイレモジュールを新人が担当しており、そこが遅れています」

「遅れているのはトイレモジュールだけなの?」

「いえ」

「全体的に遅れているんだよね?」

「その通りでございます」

ふとマルヴィナが角度を変えて覗いてみると、なんと喋っているのはマルヴィナの隣の席のマダコだった。本部長と部長のすぐうしろで、顔を真っ赤にしながら話している。

「他のモジュールにも新人が配属されておりまして、そこが遅れています」

「それは新人の問題じゃなくて、マネージメントの問題じゃないの? そもそも開発体制がおかしいんじゃないの?」

「いえ、デスマーチ型開発は新人も差別せずに巻き込むのが標準でして」
マダコはその答えにややひるんだが、負けずに、

「だいたい、なんで設計の部長や本部長が説明に来ないんだ? 日程に関する話は重要だと思うんだけど」

「はい、そうなのですが、設計の部長や本部長が来たところで、詳細を説明できるのは我々課長以下の人間ですので」
設計課長もやや開き直ったような態度になってきた。

「顧客部としてはそんな日程受け入れられないよ」
というマダコをよそに、

「承認いただけますでしょうか」
と設計課長が本部長のほうを見て言った。本部長にみんなの注目が集まり、

本部長が腕を組んで目をつぶったまま、静かにうなずいた。

「ありがとうございます。承認いただけました」
そう言うと設計課長はそそくさと会議室を去っていった。

顧客部の面々も、そのままゾロゾロと席へ戻っていく。マダコも、席へ戻ったあともしばらく顔を赤くしていた。


 それから一か月後。

週末前で、マルヴィナがそろそろ帰る準備をする時間帯だった。

「緊急の打ち合わせを行います」
またスキンヘッド課長が声をかけてきた。

なんだろう、と思いながら会議室へゾロゾロと向かう。そこには、人だかりの中にまた設計課長が来て説明を始めていた。

「今日これから持ってきますので、検査をお願いできますでしょうか」

「今日これから? いつまでにやんの!?」
さっそくマダコが偉いさんがたのうしろで顔を赤くして言った。

「明日の朝に顧客先に持っていきます」

「そんなの無理だよ、元々どれだけ日程かけてやってきたの思ってんの」
激高するマダコをよそに、

「みなさん総出でやってもらえますか?」
設計課長が顧客部本部長に聞いた。

みんなが注目する中、本部長が目をつぶって腕を組んだまま、静かにうなずいた。

「え、これからやるの?」
マルヴィナも驚いて、フロア内も少しざわつきながらもゾロゾロとみなが席へ戻っていく。

しばらくすると、台車でたくさんの分厚い本が運ばれてきた。それぞれの机に置かれていく。

「ではみなさん、始めてください」
フロアの中央で、顧客部長が指示を出した。みんなが本を開いてチェックを始める。

マルヴィナはふと、本の最後のほうをめくってみた。

「え、三千ページ以上ある……」
明日の朝までに本当にチェックしきれるのだろうか。

「誤記がたくさんあるな」
隣の席では、マダコがさっそく誤記を見つけたようだ。チェックしながら誤記のページと行をノートにメモっているようなので、マルヴィナもそれを真似ることにした。

途中で、八階にある売店でサンドイッチを買ってきて、食べながら本のチェックを続けた。

そして、真夜中ごろ、

「緊急の打ち合わせを行います」
とスキンヘッド。

会議室には、再び設計課長が来ていた。

すでに顧客部のお偉いさんがたもずらりと並んでいるが、みな一様にやや眠そうに腕を組んで下を向いている。

「えー、それでは、緊急会議を始めさせていただきます」
ずいぶん顔色の悪くなった設計課長が口火を切った。

「業務物語三〇〇〇について、そろそろ印刷を始めないといけないので、出荷の承認をいただきたいのですがいかがでしょうか」

「出荷の承認? 明日の朝までじゃなかったの!?」
マダコが怒鳴った。

「はい、朝までに印刷の時間が必要なので」

「五百ページ確認して誤記が二百五十六か所あったんだけど、こんなんじゃ出荷できないよ」

「はい、しかし納期は絶対なので」
納期は絶対、というところだけ声が強くなる。同時に顧客本部長の体が前後に揺れ出した。

「こんなものを出したらぜったい顧客先で問題が出るよ」
マダコの言葉を無視して、

「出荷の承認をいただけますでしょうか」
設計課長が本部長に尋ねた。

本部長の体が前に揺れた。

「はい、では承認がいただけました。ついでに承認印も……」
設計課長が紙を取り出して前に置いた。

起きていた顧客部長がすぐさま印を押し、本部長を揺すって起こした。

「あ、ああ……」
本部長もすぐさま懐から印を取り出し、紙も見ないでブラインド押印した。

「ありがとうございます」
その紙をひったくって、設計課長が足早に会議室を去っていく。

顧客部の面々は、いつの間にかだいぶ数も減っていたが、ゾロゾロと戻っていった。

マルヴィナもしかたなく自分の席に戻って帰り支度をしようとすると、隣の席でマダコがまた本を開いていた。マルヴィナの視線に気づいて、

「あ、ぼくはまだチェックを続けるよ。君はもう帰ってくれたまえ。ぼくはこの業務物語三〇〇〇と運命をともにする。あとのことはぼくに任せてくれ」

と敬礼しつつ告げた。額には汗がにじんでいる。

マルヴィナは、とりあえず疲れたのもあって、わかりましたと退散させてもらうことにした。

建物を出ると、まだ全ての階の灯りがついたままだった。

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