16 / 44
16 左大臣と聖女
しおりを挟む
4月の終わりごろ。ミリエラは、左大臣と会った。
日時と場所は、件の女官が設定したものだ。
刻限は、朝の9時。場所は、今は使われていない小宮だ。
時刻は、女官が左大臣の仕事の手が空く時間帯を考慮したものだろう。
大臣たちの始業は早朝で、6時には朝の会議が始まる。通常でもそれが1時間程度は続き、そのあと朝の引見と呼ばれる王の謁見とその立ち合いがある。今はこの朝の引見は代理で宰相が行っているが、どちらにせよ、大臣たちは立ち会う必要があった。そしてこれも、1時間程度はかかるもので、そのあとに朝食と休憩が1時間ほどある。
これらのあと、9時以降、大臣たちはそれぞれ個別の仕事をこなすことになるのだった。
多くは机に向かう書類仕事で、適宜休憩を取りながら3時間程度の執務を行う。
午後からは大臣たちの多くは、執務を官吏に任せて自宅に戻ったり、他の大臣らや貴族、あるいは市井へ出て平民の商人らと交流を持ったりして過ごす者が多かった。
なので、午後からの方が自由が利くといえばそうだったが、上位の大臣が城内に残っているのは怪しまれる原因にもなった。
それもあって女官は、執務に入る直前の時間を選んだのだろう。
場所もまた絶妙で、その小宮は聖堂と、今は聖女宮と呼ばれるようになった王妃宮とのちょうど中間地点にある。にも関わらず、使われていないことから庭などの手入れが行き届かず、外からは中に人がいても見られにくいという利点があった。むろん、聖堂に許可のない人間を入れられない点を考慮したためもあっただろう。が、そこは人に知られずに会うための場所としては、とても適していた。
とはいえ、そうしたお膳立てがあっても、ミリエラは不安だった。
最初に女官から話を聞かされた時には、仰天してすぐにも城から逃げ出すことを考えたほどだ。
それに対して女官は、左大臣が宰相とは別の派閥の貴族であること、聖女に対しても以前から気を配ってくれていたこと、彼の娘がルルイエの護衛騎士であり、追放された時にも同行したことなどを告げて、彼と会うよう説得した。
結局、城から出られない以上は後ろ盾を得るしかないと納得し、ミリエラは左大臣と会うことを承知した。そして迎えた今日である。
女官が整えた小部屋で、挨拶を交わしたあと、二人は古い木のテーブルを挟んで向かい合って座った。
ミリエラは、顔を上げるのが怖くて俯いたまま、膝の上で両手を強く握り合わせる。
左大臣の姿は、王妃の側近女官となってから、時おり宰相や右大臣と共に王妃宮へ来た姿を盗み見る程度だった。実際にどういう人なのかは先日、聖堂の女官から聞かされて初めて知った。
そんな彼女に、左大臣が口を開いた。
「まずは、会ってくれたことに礼を言う。ありがとう、ミリエラ」
「あ……いえ……」
まさか礼を言われるとは思わず、ミリエラは俯いたまま、慌ててかぶりをふった。それへ、左大臣は続ける。
「さて、今日の用件だが……率直に言おう。ミリエラ、私と共に聖女として来てはくれないだろうか」
「え……!」
直截な言葉に、ミリエラは思わず顔を上げた。それへたたみかけるように、左大臣は告げる。
「今の我が国に必要なのは、ちゃんと祈りを捧げて国に実りをもたらすことのできる聖女なのだ。だから、私と共に来て、聖女として国のために祈りを捧げてほしい」
「そ、それは……」
しばし答えに詰まったあと、ミリエラはふるふると首をふった。
「それは、できません……! 聖女は王女様です。わたくしは、聖女として認められてはおりません。ただの、王妃様の、聖女の代行者です……!」
悲痛な声で叫んで、彼女は再び俯いてしまう。
「ミリエラ……」
そんな彼女を見やって、左大臣は痛ましげに顔をゆがめた。
「王や宰相が怖いのだな。だが、このままでは我が国はいずれ荒れ果ててゆくだろう。そもそも予言がどこまで正しいかもわからぬし、たとえそれが正しかったにせよ、赤子の王女には何もできぬ。あの王女が、聖女として祈ることができるようになるには、最低でも2年、いや3年は必要だろう。それとても、幼子が形ばかり祈って、本当に国に実りをもたらすことができるのかはわからぬ。しかしそなたならば、今すぐにでも、聖女として祈り、国の荒廃を止められるはずだ」
「それは……」
切々と訴えられて、ミリエラは唇を噛む。
ややあって、彼女は小さくかぶりをふった。
「わたくしに、本当にそんな力があるかどうかは、わかりません。わたくしも、ただ教えられたとおりにやっているだけです。もうこの国に、先代から正しい導きを受け、聖女がどういうものか何をすればいいのかを知る者は、おりません。ですから、わたくしが祈っても、国は荒れて行くだけかもしれません」
「だが、夢を見たのだろう? 夢の中で新たな聖女だと啓示を受けたと聞いたぞ」
「はい。でも……」
左大臣に問われて、ミリエラは再び唇を噛む。
「夢に出て来た女が、何者なのかもわかりません。あれは、人をたぶらかす魔物だったのかも……」
「そなたに啓示を与えたのは、女だったのか。どのような者だったのだ?」
左大臣は、夢の内容に興味を持ったのか、問うて来た。
それで、ミリエラは答える。
「白い髪と白い肌をして、黒いドレスに身を包んだ女でした。黒いヴェールで隠れていて顔は見えませんでしたが……まるで女王様のような、尊大な物言いをなさる方でした」
彼女の答えに、左大臣は一瞬、眉根を寄せて考え込んだ。
その脳裏に浮かんだのは、昔どこかで見た肖像画だった。
あれは、どこで見たのだったか……と考え、思い出す。
(そうだ。王妃宮だ。……王妃宮のエントランスにあった肖像画だ)
そう、ルルイエの前の代の聖女が王妃だったころ、王妃宮のエントランスの一番目につく場所に、大きな肖像画が飾られていた。
白い髪を長く伸ばし、黒いドレスに身を包んだ女は、最初の聖女であるウルスラだと説明された。
ウルスラの出身は大国アルベヒライカだったが、西方世界ではどの国でも聖女の住まいにはかならず彼女の肖像画が飾られているのだそうだ。その例に漏れず、エーリカでも聖女の住居である王妃宮に飾られていた。
いや、そのはずだったが。
(そういえば、亡くなられた王妃が宮に移ったあと、肖像画を見なくなった……)
思い出して、左大臣は胸に呟く。
もとより王妃宮は、頻繁に大臣らが出向くような場所ではない。
後宮の内にあり、聖女の住まいでもあることから、男性の出入りはあまり喜ばれず、大臣らも大抵は自らの妻や娘を通してやりとりする者が多かった。公に使者を送る場合も、使者は女官か成人前の男児にさせるのが普通だった。
以前は左大臣もそうした慣習にならっていたので、王妃宮にはさほど多く出向いたことがなかったのだ。それもあって、肖像画のことも、今の今まで気づかず、思い出しもしなかった。
ちなみに、宰相の娘が王妃になってからは、宰相をはじめとする派閥の大臣らが頻繁に出入りするようになった。また、王の公式訪問の際には、宰相と共に右大臣、左大臣が同行するようにもなった。ミリエラが左大臣を見かけたのは、そうした訪問の際のことだろう。
だがなんにせよ、左大臣はこれで、ミリエラが本当に聖女だという確信が持てたと思った。
「その女はおそらく、最初の聖女ウルスラだ」
彼は、ミリエラに告げる。
それを聞いて、ミリエラは弾かれたように顔を上げた。
ウルスラのことは、ミリエラでも知っている。
西方世界に最初に現れた聖女。そして、大国アルベヒライカの王と周囲の国々を動かして、街道を造り、その街道にまで聖女の祈りと実りを届けた女性。西方世界の聖女の礎を築いた人物だ。
「あの方が……ウルスラ様……」
低く呟き、両手で口元をおおう。
夢でとはいえ、そんな崇高な者と相対したことと、自分が本当に聖女に選ばれてしまったのだということに対する畏れと。その両方が、今更のように足元から全身に這い上がって来る。
震えが止まらなかった。
「わ、わたくしは……どうすれば……」
自分で自分の肩を抱き、震えを抑えようとしながら、ミリエラは呟く。
エーリカの都の路地裏で生まれ育った自分が、城の女官にまでなったことさえ望外の幸運だと思っていた。なのに、聖女だなどとは、恐れ多すぎるし、荷が勝ちすぎる。
左大臣は、そんな彼女をいささか哀れに思いながら、見やった。
彼女に何も後ろ盾がないことは、会見前に調べてわかっていた。平民の出で、伝手を頼って城に勤め始め、最初は洗濯場の下働きだったことも、知っている。
そんな娘にとっては、自分が聖女になるなど、考えられないことかもしれない。ましてや今は、誰も聖女を導く者がいないのだ。
(せめて、ルルイエ様が西方世界を出られる前ならばな……)
左大臣はふと、年が変わる前に娘から届いた最後の書簡を思い出して、胸に呟く。
エーリカ内では彼だけが聖女の生存を知っているわけだが、連絡のつけようがないのは同じだった。娘と聖女が今、東方世界のどこを旅しているのかは、彼にも知りようがない。また、下手に動いて宰相に聖女が生きていることを知られるわけにもいかなかった。
だがなんにせよ、ミリエラに聖女として名乗りを上げてもらう以外ない。
なにより、彼女は「本物」なのだ。少なくとも、東方から来た呪い師の予言よりも、彼女の夢に現れたウルスラの方が、彼にとっては――いや、西方世界の者にとっては信じられる。
(だが、それを言っても、宰相は受け入れはすまい)
左大臣は、再び胸に呟いた。
聖女について何も教えられていない王に、誤った知識を植え付け、娘を王妃に据えて王の外戚にまで収まった男だ。娘が亡くなったのは誤算だったかもしれないが、王太子と聖女の祖父であることは、宰相にとってはけして手放したくない強みだろう。
そこに「本物の聖女」が現れれば、誰もが懸念するとおり、その聖女を亡き者にしようとするに違いない。だが、国のためにも、けしてそれをさせるわけにはいかなかった。
左大臣は、あれこれと考えを巡らせ、口を開く。
「ミリエラ、そなたが本物の聖女であることは、よくわかった。だが……それは諸刃の剣だ。そなたが何者かを知れば、そなたを亡き者にしようと考える者は、かならず出て来よう。だから、こうしようではないか。そなたは、王妃がおいでだった時と同じく、その代行を務めるのだ」
「え……」
ミリエラは、驚いて目を見開き、そちらを見やった。
それへ左大臣は安心させるように、笑いかける。
「聖女ではない。聖女の代行だ。王女が赤子にすぎないことは、いかに宰相とてどうにもできぬ。ゆえに、そなたがかわりに祈り、学ぶのだ。そなたは新年のおり、身重の王妃にかわって見事に聖女の役割を務めた。また、その役割にそなたがふさわしいと認めたのは、聖女だった王妃や王や宰相だ。であれば今、赤子の聖女のかわりに祈る役割にもふさわしいということだ」
一旦口を閉じると、左大臣は改めてミリエラを見やった。
「そのあたりの交渉は、私がやろう。おそらく、宰相は否やとは言わぬはずだ。……それと、そなたの後ろ盾には、私がなろう。そなたをあの聖堂から引きずり出したのは、私だ。ならば、それぐらいはせねばな」
ミリエラは、彼の言葉を目を見開いたまま、聞いていた。
だがやがて、うなずく。
彼女にも、それが最良だとわかったからだ。
自分が聖女だなどと、恐れ多いし、荷が勝ちすぎる。その気持ちは今も変わらなかったし、この先への不安や恐怖は変わらずある。それでもおそらく、聖堂にずっと隠れてはいられないことも理解できたし、宰相や王に自分が聖女だと知られれば、殺されるに違いないこともわかっていた。
聖女の力は、祈ることで国に実りをもたらす以外は、何もない。
かつて王がそれを理由にルルイエを追い出したように、聖女には病人を回復させたり、海水を真水に変えたりするような、奇跡的な力はないのだ。それはつまり、聖女になってもミリエラはただの女にすぎないということだった。幼いころはすばしこい足を持っていた彼女も、今はごく普通の運動能力しか持たなかったし、剣や弓などを使えるわけでもない。
誰かに庇護され、同時に権力者たちに自分は無害だと主張する、それしか己の命を守るすべはないのだ。
「承知いたしました。わたくしは、左大臣様に従います。ただ、住まいは今までどおり、聖堂に置いていただけるよう、お願いいたします」
彼女は震えながら、そう承諾の言葉と共に願いを口にする。
さすがに、聖女宮でずっとくらすのは、生きた心地がしないと思ったのだ。
「わかった。それも、交渉してみよう」
左大臣が、うなずく。
数日後。
聖堂を、宰相の使者と共に訪れた左大臣は、ミリエラが正式に聖女の代行者として認められたことを告げた。
そしてその日から、彼女の聖堂と聖女宮を行き来する生活は始まったのだった。
日時と場所は、件の女官が設定したものだ。
刻限は、朝の9時。場所は、今は使われていない小宮だ。
時刻は、女官が左大臣の仕事の手が空く時間帯を考慮したものだろう。
大臣たちの始業は早朝で、6時には朝の会議が始まる。通常でもそれが1時間程度は続き、そのあと朝の引見と呼ばれる王の謁見とその立ち合いがある。今はこの朝の引見は代理で宰相が行っているが、どちらにせよ、大臣たちは立ち会う必要があった。そしてこれも、1時間程度はかかるもので、そのあとに朝食と休憩が1時間ほどある。
これらのあと、9時以降、大臣たちはそれぞれ個別の仕事をこなすことになるのだった。
多くは机に向かう書類仕事で、適宜休憩を取りながら3時間程度の執務を行う。
午後からは大臣たちの多くは、執務を官吏に任せて自宅に戻ったり、他の大臣らや貴族、あるいは市井へ出て平民の商人らと交流を持ったりして過ごす者が多かった。
なので、午後からの方が自由が利くといえばそうだったが、上位の大臣が城内に残っているのは怪しまれる原因にもなった。
それもあって女官は、執務に入る直前の時間を選んだのだろう。
場所もまた絶妙で、その小宮は聖堂と、今は聖女宮と呼ばれるようになった王妃宮とのちょうど中間地点にある。にも関わらず、使われていないことから庭などの手入れが行き届かず、外からは中に人がいても見られにくいという利点があった。むろん、聖堂に許可のない人間を入れられない点を考慮したためもあっただろう。が、そこは人に知られずに会うための場所としては、とても適していた。
とはいえ、そうしたお膳立てがあっても、ミリエラは不安だった。
最初に女官から話を聞かされた時には、仰天してすぐにも城から逃げ出すことを考えたほどだ。
それに対して女官は、左大臣が宰相とは別の派閥の貴族であること、聖女に対しても以前から気を配ってくれていたこと、彼の娘がルルイエの護衛騎士であり、追放された時にも同行したことなどを告げて、彼と会うよう説得した。
結局、城から出られない以上は後ろ盾を得るしかないと納得し、ミリエラは左大臣と会うことを承知した。そして迎えた今日である。
女官が整えた小部屋で、挨拶を交わしたあと、二人は古い木のテーブルを挟んで向かい合って座った。
ミリエラは、顔を上げるのが怖くて俯いたまま、膝の上で両手を強く握り合わせる。
左大臣の姿は、王妃の側近女官となってから、時おり宰相や右大臣と共に王妃宮へ来た姿を盗み見る程度だった。実際にどういう人なのかは先日、聖堂の女官から聞かされて初めて知った。
そんな彼女に、左大臣が口を開いた。
「まずは、会ってくれたことに礼を言う。ありがとう、ミリエラ」
「あ……いえ……」
まさか礼を言われるとは思わず、ミリエラは俯いたまま、慌ててかぶりをふった。それへ、左大臣は続ける。
「さて、今日の用件だが……率直に言おう。ミリエラ、私と共に聖女として来てはくれないだろうか」
「え……!」
直截な言葉に、ミリエラは思わず顔を上げた。それへたたみかけるように、左大臣は告げる。
「今の我が国に必要なのは、ちゃんと祈りを捧げて国に実りをもたらすことのできる聖女なのだ。だから、私と共に来て、聖女として国のために祈りを捧げてほしい」
「そ、それは……」
しばし答えに詰まったあと、ミリエラはふるふると首をふった。
「それは、できません……! 聖女は王女様です。わたくしは、聖女として認められてはおりません。ただの、王妃様の、聖女の代行者です……!」
悲痛な声で叫んで、彼女は再び俯いてしまう。
「ミリエラ……」
そんな彼女を見やって、左大臣は痛ましげに顔をゆがめた。
「王や宰相が怖いのだな。だが、このままでは我が国はいずれ荒れ果ててゆくだろう。そもそも予言がどこまで正しいかもわからぬし、たとえそれが正しかったにせよ、赤子の王女には何もできぬ。あの王女が、聖女として祈ることができるようになるには、最低でも2年、いや3年は必要だろう。それとても、幼子が形ばかり祈って、本当に国に実りをもたらすことができるのかはわからぬ。しかしそなたならば、今すぐにでも、聖女として祈り、国の荒廃を止められるはずだ」
「それは……」
切々と訴えられて、ミリエラは唇を噛む。
ややあって、彼女は小さくかぶりをふった。
「わたくしに、本当にそんな力があるかどうかは、わかりません。わたくしも、ただ教えられたとおりにやっているだけです。もうこの国に、先代から正しい導きを受け、聖女がどういうものか何をすればいいのかを知る者は、おりません。ですから、わたくしが祈っても、国は荒れて行くだけかもしれません」
「だが、夢を見たのだろう? 夢の中で新たな聖女だと啓示を受けたと聞いたぞ」
「はい。でも……」
左大臣に問われて、ミリエラは再び唇を噛む。
「夢に出て来た女が、何者なのかもわかりません。あれは、人をたぶらかす魔物だったのかも……」
「そなたに啓示を与えたのは、女だったのか。どのような者だったのだ?」
左大臣は、夢の内容に興味を持ったのか、問うて来た。
それで、ミリエラは答える。
「白い髪と白い肌をして、黒いドレスに身を包んだ女でした。黒いヴェールで隠れていて顔は見えませんでしたが……まるで女王様のような、尊大な物言いをなさる方でした」
彼女の答えに、左大臣は一瞬、眉根を寄せて考え込んだ。
その脳裏に浮かんだのは、昔どこかで見た肖像画だった。
あれは、どこで見たのだったか……と考え、思い出す。
(そうだ。王妃宮だ。……王妃宮のエントランスにあった肖像画だ)
そう、ルルイエの前の代の聖女が王妃だったころ、王妃宮のエントランスの一番目につく場所に、大きな肖像画が飾られていた。
白い髪を長く伸ばし、黒いドレスに身を包んだ女は、最初の聖女であるウルスラだと説明された。
ウルスラの出身は大国アルベヒライカだったが、西方世界ではどの国でも聖女の住まいにはかならず彼女の肖像画が飾られているのだそうだ。その例に漏れず、エーリカでも聖女の住居である王妃宮に飾られていた。
いや、そのはずだったが。
(そういえば、亡くなられた王妃が宮に移ったあと、肖像画を見なくなった……)
思い出して、左大臣は胸に呟く。
もとより王妃宮は、頻繁に大臣らが出向くような場所ではない。
後宮の内にあり、聖女の住まいでもあることから、男性の出入りはあまり喜ばれず、大臣らも大抵は自らの妻や娘を通してやりとりする者が多かった。公に使者を送る場合も、使者は女官か成人前の男児にさせるのが普通だった。
以前は左大臣もそうした慣習にならっていたので、王妃宮にはさほど多く出向いたことがなかったのだ。それもあって、肖像画のことも、今の今まで気づかず、思い出しもしなかった。
ちなみに、宰相の娘が王妃になってからは、宰相をはじめとする派閥の大臣らが頻繁に出入りするようになった。また、王の公式訪問の際には、宰相と共に右大臣、左大臣が同行するようにもなった。ミリエラが左大臣を見かけたのは、そうした訪問の際のことだろう。
だがなんにせよ、左大臣はこれで、ミリエラが本当に聖女だという確信が持てたと思った。
「その女はおそらく、最初の聖女ウルスラだ」
彼は、ミリエラに告げる。
それを聞いて、ミリエラは弾かれたように顔を上げた。
ウルスラのことは、ミリエラでも知っている。
西方世界に最初に現れた聖女。そして、大国アルベヒライカの王と周囲の国々を動かして、街道を造り、その街道にまで聖女の祈りと実りを届けた女性。西方世界の聖女の礎を築いた人物だ。
「あの方が……ウルスラ様……」
低く呟き、両手で口元をおおう。
夢でとはいえ、そんな崇高な者と相対したことと、自分が本当に聖女に選ばれてしまったのだということに対する畏れと。その両方が、今更のように足元から全身に這い上がって来る。
震えが止まらなかった。
「わ、わたくしは……どうすれば……」
自分で自分の肩を抱き、震えを抑えようとしながら、ミリエラは呟く。
エーリカの都の路地裏で生まれ育った自分が、城の女官にまでなったことさえ望外の幸運だと思っていた。なのに、聖女だなどとは、恐れ多すぎるし、荷が勝ちすぎる。
左大臣は、そんな彼女をいささか哀れに思いながら、見やった。
彼女に何も後ろ盾がないことは、会見前に調べてわかっていた。平民の出で、伝手を頼って城に勤め始め、最初は洗濯場の下働きだったことも、知っている。
そんな娘にとっては、自分が聖女になるなど、考えられないことかもしれない。ましてや今は、誰も聖女を導く者がいないのだ。
(せめて、ルルイエ様が西方世界を出られる前ならばな……)
左大臣はふと、年が変わる前に娘から届いた最後の書簡を思い出して、胸に呟く。
エーリカ内では彼だけが聖女の生存を知っているわけだが、連絡のつけようがないのは同じだった。娘と聖女が今、東方世界のどこを旅しているのかは、彼にも知りようがない。また、下手に動いて宰相に聖女が生きていることを知られるわけにもいかなかった。
だがなんにせよ、ミリエラに聖女として名乗りを上げてもらう以外ない。
なにより、彼女は「本物」なのだ。少なくとも、東方から来た呪い師の予言よりも、彼女の夢に現れたウルスラの方が、彼にとっては――いや、西方世界の者にとっては信じられる。
(だが、それを言っても、宰相は受け入れはすまい)
左大臣は、再び胸に呟いた。
聖女について何も教えられていない王に、誤った知識を植え付け、娘を王妃に据えて王の外戚にまで収まった男だ。娘が亡くなったのは誤算だったかもしれないが、王太子と聖女の祖父であることは、宰相にとってはけして手放したくない強みだろう。
そこに「本物の聖女」が現れれば、誰もが懸念するとおり、その聖女を亡き者にしようとするに違いない。だが、国のためにも、けしてそれをさせるわけにはいかなかった。
左大臣は、あれこれと考えを巡らせ、口を開く。
「ミリエラ、そなたが本物の聖女であることは、よくわかった。だが……それは諸刃の剣だ。そなたが何者かを知れば、そなたを亡き者にしようと考える者は、かならず出て来よう。だから、こうしようではないか。そなたは、王妃がおいでだった時と同じく、その代行を務めるのだ」
「え……」
ミリエラは、驚いて目を見開き、そちらを見やった。
それへ左大臣は安心させるように、笑いかける。
「聖女ではない。聖女の代行だ。王女が赤子にすぎないことは、いかに宰相とてどうにもできぬ。ゆえに、そなたがかわりに祈り、学ぶのだ。そなたは新年のおり、身重の王妃にかわって見事に聖女の役割を務めた。また、その役割にそなたがふさわしいと認めたのは、聖女だった王妃や王や宰相だ。であれば今、赤子の聖女のかわりに祈る役割にもふさわしいということだ」
一旦口を閉じると、左大臣は改めてミリエラを見やった。
「そのあたりの交渉は、私がやろう。おそらく、宰相は否やとは言わぬはずだ。……それと、そなたの後ろ盾には、私がなろう。そなたをあの聖堂から引きずり出したのは、私だ。ならば、それぐらいはせねばな」
ミリエラは、彼の言葉を目を見開いたまま、聞いていた。
だがやがて、うなずく。
彼女にも、それが最良だとわかったからだ。
自分が聖女だなどと、恐れ多いし、荷が勝ちすぎる。その気持ちは今も変わらなかったし、この先への不安や恐怖は変わらずある。それでもおそらく、聖堂にずっと隠れてはいられないことも理解できたし、宰相や王に自分が聖女だと知られれば、殺されるに違いないこともわかっていた。
聖女の力は、祈ることで国に実りをもたらす以外は、何もない。
かつて王がそれを理由にルルイエを追い出したように、聖女には病人を回復させたり、海水を真水に変えたりするような、奇跡的な力はないのだ。それはつまり、聖女になってもミリエラはただの女にすぎないということだった。幼いころはすばしこい足を持っていた彼女も、今はごく普通の運動能力しか持たなかったし、剣や弓などを使えるわけでもない。
誰かに庇護され、同時に権力者たちに自分は無害だと主張する、それしか己の命を守るすべはないのだ。
「承知いたしました。わたくしは、左大臣様に従います。ただ、住まいは今までどおり、聖堂に置いていただけるよう、お願いいたします」
彼女は震えながら、そう承諾の言葉と共に願いを口にする。
さすがに、聖女宮でずっとくらすのは、生きた心地がしないと思ったのだ。
「わかった。それも、交渉してみよう」
左大臣が、うなずく。
数日後。
聖堂を、宰相の使者と共に訪れた左大臣は、ミリエラが正式に聖女の代行者として認められたことを告げた。
そしてその日から、彼女の聖堂と聖女宮を行き来する生活は始まったのだった。
28
あなたにおすすめの小説
弱小スキル【翻訳】が実は神スキルでした。追放されたが最強王国作ります
綾取
ファンタジー
万物の声を聴くスキル【翻訳】が実は【世界干渉】の神スキルでした~追放された俺が辺境を浄化して聖域を作ったら、加護を失った帝国が滅びかけてますがもう遅い。喋る野菜や聖獣たちと最強の王国を築きます
役立たずと追放された聖女は、第二の人生で薬師として静かに輝く
腐ったバナナ
ファンタジー
「お前は役立たずだ」
――そう言われ、聖女カリナは宮廷から追放された。
癒やしの力は弱く、誰からも冷遇され続けた日々。
居場所を失った彼女は、静かな田舎の村へ向かう。
しかしそこで出会ったのは、病に苦しむ人々、薬草を必要とする生活、そして彼女をまっすぐ信じてくれる村人たちだった。
小さな治療を重ねるうちに、カリナは“ただの役立たず”ではなく「薬師」としての価値を見いだしていく。
スキルで最強神を召喚して、無双してしまうんだが〜パーティーを追放された勇者は、召喚した神達と共に無双する。神達が強すぎて困ってます〜
東雲ハヤブサ
ファンタジー
勇者に選ばれたライ・サーベルズは、他にも選ばれた五人の勇者とパーティーを組んでいた。
ところが、勇者達の実略は凄まじく、ライでは到底敵う相手ではなかった。
「おい雑魚、これを持っていけ」
ライがそう言われるのは日常茶飯事であり、荷物持ちや雑用などをさせられる始末だ。
ある日、洞窟に六人でいると、ライがきっかけで他の勇者の怒りを買ってしまう。
怒りが頂点に達した他の勇者は、胸ぐらを掴まれた後壁に投げつけた。
いつものことだと、流して終わりにしようと思っていた。
だがなんと、邪魔なライを始末してしまおうと話が進んでしまい、次々に攻撃を仕掛けられることとなった。
ハーシュはライを守ろうとするが、他の勇者に気絶させられてしまう。
勇者達は、ただ痛ぶるように攻撃を加えていき、瀕死の状態で洞窟に置いていってしまった。
自分の弱さを呪い、本当に死を覚悟した瞬間、視界に突如文字が現れてスキル《神族召喚》と書かれていた。
今頃そんなスキル手を入れてどうするんだと、心の中でつぶやくライ。
だが、死ぬ記念に使ってやろうじゃないかと考え、スキルを発動した。
その時だった。
目の前が眩く光り出し、気付けば一人の女が立っていた。
その女は、瀕死状態のライを最も簡単に回復させ、ライの命を救って。
ライはそのあと、その女が神達を統一する三大神の一人であることを知った。
そして、このスキルを発動すれば神を自由に召喚出来るらしく、他の三大神も召喚するがうまく進むわけもなく......。
これは、雑魚と呼ばれ続けた勇者が、強き勇者へとなる物語である。
※小説家になろうにて掲載中
家族の靴を磨いていた私が、実は【神の加護を磨き上げた聖女】だった件。隣国の冷徹皇帝に「君の献身は世界を救う」と誘拐、24 執着されています
唯崎りいち
恋愛
「お前は一生、靴でも磨いていろ」
家族に虐げられ、靴を磨き続けた私。
実はその靴、磨くたびに『神の加護』が宿る聖具になっていました。
噂を聞きつけた隣国の冷徹皇帝に、出会い頭にさらわれて――
「君は俺のものだ。24時間、指一本触れさせない」
靴を履かせてもらえず、移動は常に皇帝の腕の中!?
磨き上げた加護のせいで、皇帝の執着が神レベルに育ってしまう溺愛物語。
「無能は去れ」と捨てられた私を、隣国の皇帝が神子として迎えた結果。捨てたはずの元婚約者が、私の足元に跪いて血を吐きながら愛を乞うています。
唯崎りいち
恋愛
無能扱いで追放された私。数年後、帝国で神子と呼ばれる私の前に、血を吐き狂った元婚約者が跪いた。『奪い返す』——彼は廃嫡され国も失い、私の神罰で逆らえなくなっていた。
偽りの呪いで追放された聖女です。辺境で薬屋を開いたら、国一番の不運な王子様に拾われ「幸運の女神」と溺愛されています
黒崎隼人
ファンタジー
「君に触れると、不幸が起きるんだ」――偽りの呪いをかけられ、聖女の座を追われた少女、ルナ。
彼女は正体を隠し、辺境のミモザ村で薬師として静かな暮らしを始める。
ようやく手に入れた穏やかな日々。
しかし、そんな彼女の前に現れたのは、「王国一の不運王子」リオネスだった。
彼が歩けば嵐が起き、彼が触れば物が壊れる。
そんな王子が、なぜか彼女の薬草店の前で派手に転倒し、大怪我を負ってしまう。
「私の呪いのせいです!」と青ざめるルナに、王子は笑った。
「いつものことだから、君のせいじゃないよ」
これは、自分を不幸だと思い込む元聖女と、天性の不運をものともしない王子の、勘違いから始まる癒やしと幸運の物語。
二人が出会う時、本当の奇跡が目を覚ます。
心温まるスローライフ・ラブファンタジー、ここに開幕。
捨てられた元聖女ですが、なぜか蘇生聖術【リザレクション】が使えます ~婚約破棄のち追放のち力を奪われ『愚醜王』に嫁がされましたが幸せです~
鏑木カヅキ
恋愛
十年ものあいだ人々を癒し続けていた聖女シリカは、ある日、婚約者のユリアン第一王子から婚約破棄を告げられる。さらには信頼していた枢機卿バルトルトに裏切られ、伯爵令嬢ドーリスに聖女の力と王子との婚約さえ奪われてしまう。
元聖女となったシリカは、バルトルトたちの謀略により、貧困国ロンダリアの『愚醜王ヴィルヘルム』のもとへと強制的に嫁ぐことになってしまう。無知蒙昧で不遜、それだけでなく容姿も醜いと噂の王である。
そんな不幸な境遇でありながらも彼女は前向きだった。
「陛下と国家に尽くします!」
シリカの行動により国民も国も、そして王ヴィルヘルムでさえも変わっていく。
そしてある事件を機に、シリカは奪われたはずの聖女の力に再び目覚める。失われたはずの蘇生聖術『リザレクション』を使ったことで、国情は一変。ロンダリアでは新たな聖女体制が敷かれ、国家再興の兆しを見せていた。
一方、聖女ドーリスの力がシリカに遠く及ばないことが判明する中、シリカの噂を聞きつけた枢機卿バルトルトは、シリカに帰還を要請してくる。しかし、すでに何もかもが手遅れだった。
婚約破棄された「無能」聖女、拾った子犬が伝説の神獣だったので、辺境で極上もふもふライフを満喫します。~捨てた国が滅びそう?知りません~
ソラ
ファンタジー
「エリアナ、貴様との婚約を破棄し、この国から追放する!」
聖女としての魔力を使い果たし、無能と蔑まれた公爵令嬢エリアナ。
妹に婚約者を奪われ、身一つで北の最果て、凍てつく「死の森」へと捨てられる。
寒さに震え死を覚悟した彼女が出会ったのは、雪に埋もれていた一匹の小さなしっぽ。
「……ひとりぼっちなの? 大丈夫、私が温めてあげるわ」
最後の手向けに、残されたわずかな浄化の力を注いだエリアナ。
だが、その子犬の正体は――数千年の眠りから目覚めた、世界を滅ぼす伝説の神獣『フェンリル』だった!
ヒロインの淹れるお茶に癒やされ、ヒロインのブラッシングにうっとり。
最強の神獣は、彼女を守るためだけに辺境を「極上の聖域」へと作り替えていく。
一方、本物の聖女(結界維持役)を失った王国では、災厄が次々と降り注ぎ、崩壊の危機を迎えていた。
今さら「戻ってきてくれ」と泣きついてくる王子たち。
けれど、エリアナの膝の上には、甘えん坊の神獣様(執着心MAX)が陣取っていて――。
「聖女の仕事? いえ、今は神獣様とのお昼寝の方が忙しいので」
無自覚チートな聖女と、彼女にだけはデレデレな神獣様による、逆転溺愛スローライフが幕を開ける!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる