3 / 16
1巻
1-3
「えっと……では、お言葉に甘えて。僕はここでも勉強がしたいです。本を貸していただけませんか」
セオリスの要望を聞いたディルモアは、意外そうに片眉を跳ね上げた。
「そんなことで構わないのか? 装飾品や衣類を買ってもいいのだぞ」
「この通り、病弱の身には不要な物ですから……。部屋から出られないことも多いので、退屈しのぎが欲しいのです」
「君はそこまでか弱いのか……。なるほど、シエンが弟の保護を結婚の条件にあげるわけだな」
大きな問題を前にした時のように、ディルモアは顔をしかめる。少し考えた後、頷いた。
「では、教師の手配をしておく。毎日ではなく週に二度、二時間程度にしておこう。無理をさせては良くないからな。合間に休憩をとるように言っておく」
ディルモアがちらと背後にいる側近の男を見ると、彼は頷いた。手配するのは彼らしい。
「それから、本だな。北館の図書室を使ってもいいが、西館にも客用の書斎がある。どちらも利用を許可しよう。後で鍵を持ってこさせるから、好きな時に出入りしなさい。ただし、貸出は司書が許可するものだけだ。貴重な本もあるのでな」
「はい」
「そもそもの話、君の分の予算も用意しているから、それで好きな本を買っても構わない。本の購入が必要なら、西館の司書に伝えれば手配してくれるだろう」
セオリスは首を傾げる。
「僕の分の予算ですか?」
「侯爵家が世話をしている親戚だ。当然、生活費くらい用意している。君はまだ子どもだから、百万ゴールドくらいあればいいな?」
「ひゃ、百万ゴールドも!?」
セオリスが驚いたのは、ラーベル家の一月分の領地収入と同じくらいだったからだ。世情に疎いセオリスでも、算術の勉強をした時におおよその年収くらいは教わっている。庶民ならば、無駄遣いしなければ、五人家族が一年暮らせる金額だ。
ディルモアはけげんそうに問う。
「何を驚く?」
「いえ、最初に通された客室がラーベル家にある僕の部屋よりひどかったので、もしかしてこの家は貧しいのではないかと思い……」
うっかり本音をこぼしてしまい、セオリスは両手で口をふさいだが、時すでに遅し。ディルモアはありえないという顔をして固まり、シエンは噴き出した。
「あはっ、あははは。セオってば、そんなことを思っていたの? だから遠慮して、私を呼ばなかったのだね。ようやく納得したよ」
シエンは口端を緩め、セオリスに説明する。
「グレン家は、小国と変わらない規模を誇る富豪だよ。セオは世間知らずだし素直な子だから、この家の財務を心配したんだね。あーあ、ディルモアってば、客人に財布の中身を気遣わせるなんて、面目丸つぶれじゃないか」
シエンはからかっている口調で、遠慮なく言葉の矢を放った。笑っているが、この件で怒っているのは間違いない。
ディルモアの顔に朱が差す。恥なのか怒りなのか分からないが、それが良くない感情なのは分かる。セオリスは急いで謝った。
「申し訳ありません!」
「いや、構わぬ。あの連中の失態だ」
ディルモアは強面だが、子どもを責める真似はしないようだ。分かりにくいだけで、優しさを感じられた。
(はあ、さすが、あの小説のヒーローだよ。人格者なんだろうな)
これが実父や叔父ならば、すでに怒鳴り散らしているような失言をしただろうという確信がある。ディルモアの寛大な面を見て、セオリスはファン心もあって感動した。
二人の仲を取り持とうと決意を新たにして、セオリスはさっそく行動に移す。
「お兄様、閣下はこんなに優しくてご立派な方なのですから、あまり怒らないであげてください。それから、僕のことを心配してくれてありがとうございました」
「セオ、なんて良い子なんだろう。分かった、君がそう言うなら許すよ」
シエンがそう宣言したことで、ようやくディルモアの眉間のしわが消えた。表情が穏やかなものになる。
「シエン、すまなかったな。今後は気をつける」
「ええ、期待しています」
ディルモアに、シエンは微笑を向けた。
このまま二人の世界に入る前にと、セオリスはディルモアに質問する。
「あの、ところで、先ほどの予算というのは、本以外を買ってもいいのですか?」
「ああ、好きに使うといい。欲しい物があるなら、出入りの商人を呼んで構わん」
ディルモアはそう答え、セオリスを見た。
「必要な物があるのか?」
「この地が思ったよりも寒いので、羽織物を買い足そうかと……」
「それくらいなら、衣装部屋にいくらでも余りがあるから、あとで届けさせよう」
ディルモアはクローゼットに目をとめて、側近に手振りで開かせた。セオリスの持ち物が少ないことに驚きを見せる。
「引っ越しの時も、荷物が少ない気はしていたが……。いいだろう。身の回りの品も、クローゼットいっぱいに補充させておく。それから」
次にディルモアは暖炉を示す。
「必要なら、暖炉の火を入れてもいい」
余り物なら受け取ってもいいかと思ったが、暖炉を使っていいと言われたことには、セオリスも驚いた。
「そんな! 夏に暖炉を使うだなんて贅沢はできません」
「我が家は富豪だからな。それくらいで破産したりはしないのだ」
ディルモアは軽口を叩いた。先ほどのセオリスの言葉を揶揄したようだ。セオリスは顔を赤らめて首をすくめる。
「もう言いませんので、どうか忘れてください」
「ははは。では、あとは医者に任せて、私は先に失礼する。まだ公務があるのでな」
どうやらディルモアは公務の合間に、セオリスとシエンの様子を見に来たらしい。ディルモアは去り際にシエンの左頬にキスをしてから、部屋を出て行った。
「お兄様もどうぞお休みください。ずっと傍にいてくださったのでしょう? お疲れのようです」
シエンは昔からセオリスが寝こむと、忙しい合間を縫って自ら看病をしてくれた。
「医者の診察を見届けてから戻るよ。少し待っていなさい。消化に優しいスープを用意させるから」
「魔力漏出病ですか」
シエンが食事を終えた頃、魔竜族の医師エドアが診察に来た。病名を聞いたエドアは首を傾げた。初老に見えるが、魔竜族なので実年齢は見た目より上だろう。白髪交じりの黒い髪と灰色の目をしている。
「人間でも発症者が少ない病でしょう? 魔力が漏れるのを防ぐ手立てはありませんし……できるだけ魔法を使わないようにして、安静にして過ごすしかありません。魔力補給薬の連用はおすすめできませんし……」
エドアは困り顔をした。シエンが残念そうな表情を浮かべる。
「人族の医師にも、同じことを言われました」
「魔力補給薬は緊急用のもので、未発達の魔力器官には負荷がかかりすぎますから。しかし、このようにしょっちゅうゲートが閉じるのは、あまり良いことではありませんね。ゲート不全病になる確率が上がります」
エドアは有能な医師なようで、魔竜族に存在しない病でも把握しているようだ。
「ゲート不全病ってなんですか?」
セオリスが質問すると、エドアは眉間にしわを寄せる。痛ましげな様子だ。
「あまり患者を驚かせたくはないのですが……当事者なので知っているべきでしょうね。あなたの今後に関わることです」
セオリスは嫌な予感がした。まるで不治の病を通告されるような前置きではないか。
「魔力が足りなくなると、生命力を使わないように、魔力器官と生命力のラインの間にあるゲートが閉じ、気絶することはご存知ですね? それにより、体は魔力回復期に入ります。この仕組みは、人族も魔竜族も変わりません」
「はい。それでたまに倒れて、寝こんでいます」
分かりきったことを説明され、セオリスはもどかしい気持ちになった。不安が胸に押し寄せる。
(ゲート不全病なんて、あの小説にあったかな?)
悪役セオリスが病弱で、使用人からいじめられたせいで性格がゆがんだとは知っているが。
「実は、健常な者の場合、ゲートは滅多なことでは閉じません。ゲートが閉じるほどの無茶をする状況なんて限られています」
「え? 戦闘を行う魔法使いでもですか?」
「戦いを本業にしている者でも、一度、ゲートが閉じるほど使って限界量を把握したら、それ以降は気をつけるようになります。戦場で気絶なんてしてごらんなさい、待っているのは死だけでしょう?」
「ああ、そうですね」
敵の前で倒れるなんて、殺してくれと言っているようなものだ。
「便宜的にゲートと呼んでいるだけで、ゲートはそう開閉するものではないんですよ。一生のうち、開閉できる回数は決まっているというのが通説です」
「つまり、どういうことですか?」
シエンのほうがしびれを切らして、エドアに結論を迫る。
「扉だって、何回も開閉していたら蝶番にガタがくるでしょう? それと同じことです。ゲートも、何回も開閉していると、やがて機能しなくなります。そうすると、魔力が底をついた時、体が生命力を消費し始めるんですよ」
「生命力を……?」
シエンが口を覆い、青ざめた。
「運が悪ければ、そのまま生命力が尽きてお亡くなりになります」
「では、セオは……?」
「だいたいどれくらいの頻度で倒れるのですか?」
「二~三ヶ月に一度くらいでしょうか。ひどい時は一月に二回ほど」
「ううむ。そうなると、二十歳までもつかどうか……。ゲート不全病になったらおしまいです。肝に銘じておいてください。安静にするのですよ」
今のところ、これといった治療法はないらしい。エドアは、魔力を補給しやすい食事を積極的にとること、どんな時に倒れるのか記録しておくこと、この二つを告げた。
「先生、夫にはしばらく黙っていていただけませんか。私達はまだ侯爵家になじめていないので……」
「そうですね。繊細な問題ですし、ご家族がそうおっしゃるなら私からは何も申し上げませんよ。では、薬を出しておきます」
エドアは解熱剤と咳止めを処方すると、退室した。
「セオ……」
シエンが目に涙を浮かべ、悲壮な顔でセオリスを見つめる。
二十歳まで生きられたらいいほうだと言われたセオリスは、当然、ショックを受けていたが、今はシエンを慰めることにした。
「お兄様、良いこともあります。少なくとも、あと十年近くは生きられることが分かったのですから」
「優しい子だね。私を気遣わなくていいんだよ。君のほうがつらいだろうに……」
シエンはセオリスを優しく包みこむようなハグをしてから、寝るように促す。診察のために起き上がっていたセオリスは、ベッドに横たわった。やわらかいベッドは寝心地が良い。
「先生にも言った通り、このことは、ディルモアにはしばらく内緒にしておこう。君も気を遣うだろうし……。私は時間がある時はできるだけ顔を見せるからね」
「あまり心配しないでください。お兄様まで病気になってはいけませんから。眠くなってきたので、休んでも構いませんか」
「そうしなさい。ゆっくりお休み、セオ」
シエンの優しい声にうながされ、セオリスは眠りに落ちた。
第二章 ぎすぎすした日々
主人の命令を無視した件により、セオリスの部屋付きの使用人がそっくり入れ替わった。
西館の執事はギリアードのままだが、さすがに部屋付きをそのまま使うわけにはいかないと、総入れ替えをディルモアが命じたらしい。
新たにやって来たのは、下女のレダ、下男のマイルズとバルトだ。三人とも二十代前半から半ばくらいで、色の濃淡の差はあるものの、全員黒髪と灰色の目をしている。
セオリスはほっとした。罰を受けさせられた使用人達と同じ部屋で過ごすなんて、想像するだけで胃が痛くなる。そうなったら、医師に言われたように安静にすることなんて不可能だ。
「皆、セオリス様にごあいさつを」
ギリアードに促され、彼らはお辞儀をして声をそろえた。
「私どもは誠心誠意、お世話することを誓います」
「セオリス・ラーベルです。よろしくお願いします」
ベッドのヘッドボードにクッションを置いてもたれた格好のまま、彼らにあいさつすると、セオリスはベッド脇に立つシエンをちらりと見た。シエンはにこりと微笑む。
「セオ、使用人にそのような丁寧な口調を使わなくていいんだよ。甘く見られては困る」
「はい、気をつけます」
シエンは明らかにピリピリとしている。セオリスは苦笑する。
「お兄様、僕のことは構わず、ゆっくりお過ごしくださいと申し上げましたのに」
「あんなことがあったのだから、念を入れるに決まっているだろう? 君は庇護されるべき年齢だ」
有無を言わさぬ様には、男爵家の当主らしい威厳がある。年が若くても、シエンは家長なのだと、セオリスは実感した。
「叔父一家に屋敷を乗っ取られたことで、私も考えを改めたんだよ。少しくらい、対応が厳しくなるものだと思わない?」
「お兄様……」
シエンだって、叔父一家の裏切りには傷ついていたのだ。父の死が、シエンをたおやかで優しい少年から大人に変えたのだろう。セオリスは悲しくなった。
「お気持ちは嬉しいです、ありがとうございます。でも、あまり僕のことばかり気にかけないでください。お兄様には幸せになってほしいですし……」
「どうしたの?」
「このままではますます、僕は『新婚生活を邪魔する野暮な弟』になるじゃないですか」
「十歳なのに、どこでそんな言葉を覚えてきたの?」
シエンは目を丸くし、新婚という言葉に照れて頬を赤らめる。
「セオは病気がちなせいか、どうも大人びているね。甘えていいんだからね」
「甘えていますよ。これまでも、お兄様には勉強をたくさん教えてもらったので、嬉しかったです」
「ふふ。では、今度また、勉強を見てあげよう」
「よろしくお願いします」
セオリスはシエンと和やかに笑いあう。ようやくシエンの肩から力が抜けたのが見てとれた。
「うん。大丈夫そうだね。何かあれば、すぐに呼びなさい」
「分かりました」
セオリスは従順に頷いた。
(まあ、呼ぶつもりはないんだけどね……)
これ以上、侯爵夫人である兄と使用人の間に溝を作らせるつもりはない。シエンがセオリスを守ろうとするのと同じように、セオリスもシエンを応援したいのだ。
「君達、くれぐれも弟のことを頼んだよ。――はあ、でも、やっぱり心配だな。セオの居室を北館に移したほうが……」
「お兄様、家族っていうのは、ちょっと距離があったほうが上手くいくものなんですよ。ね!」
「まったく、どこでそんなことを聞きかじってきたんだ? そこまで言うなら、分かったよ。では、またね」
シエンは呆れた様子で首を横に振った後、セオリスに笑いかけてから部屋を出て行った。ギリアードを含め、使用人達はシエンに頭を下げる。
シエンが去ると、ギリアードはセオリスに丁寧な口調で話しかけた。
「セオリス様、身の回りの品を補充しますので、少し騒がしくなるかもしれませんが、ゆっくりお休みください。寝台の天蓋のカーテンを下ろしておきます」
「分かった。僕は休んでいるよ」
「それから、こちらは閣下より届けられた図書室の鍵です」
「ありがとう」
青いビロード張りの小箱を受け取ると、中に金と銀の鍵が入っていた。
「金が北館の図書室、銀が西館の書斎の鍵です。追跡魔法がかけられていますので、もし紛失された場合は教えてください。魔法で捜します」
「へえ、便利だね。分かった」
ベッドサイドのテーブルには、鍵付きの引き出しがある。セオリスはそこに小箱を仕舞った。魔法がかけられているなら、引き出しに鍵をかけなくても盗まれる心配はないだろう。
(それに、あんなことがあってすぐ、この人達が悪事を働くとも思えないし)
もしそんな真似をするとしたら、よほどの愚か者だけだろうと、幼いセオリスでも分かる。
グラスの水を一口飲むと、セオリスはベッドに横たわる。すぐにギリアードが天蓋のカーテンを閉じ、薄闇に包まれた。疲労から、セオリスはそのまま眠りに落ちた。
少し不安ではあったものの、これからの生活に支障はないだろうと、その時のセオリスは甘く考えていた。
部屋を移動した日以来、ギリアードは姿を見せない。
それは別に構わない。だが、新しい使用人達の態度はセオリスを気まずくさせた。
(仕事はするんだけど、愛想はないんだよな……)
ラーベル家の使用人とは、雑談をするくらいの仲だった。彼らはセオリスを主家の人間と敬いながらも、親しみを抱いてくれていたのだ。ほとんどが子持ちの年配者だったから、幼いセオリスを放っておけず、世話を焼いてくれていたのかもしれない。
(あいさつはしてくれるし、声をかければ無視はしない。でも、どことなくぎすぎすしてる……)
故郷の使用人と、グレン家の使用人を比較して、セオリスは郷愁にかられた。
初日に寝こんでしまったが、一週間安静にしたおかげで体調が元に戻ったので、セオリスはラーベル家でもそうしていたように、室内でのんびりと暮らしている。キラキラとした豪華な内装にも慣れた。最初のうちは、家具に傷でもつけたら修繕費が高そうだと恐る恐る生活していたのに、今では雑なものだ。
ディルモアが北館にある衣装室から運ばせた身の回りの品で、セオリスの部屋のクローゼットはぱんぱんになっている。どうせ出歩けないから衣服はそれほどいらないのに、なぜか外出着や夜会服まで増えていた。装飾品まで見せられた時は、どうしようかと悩んだ。十歳の子どもに、宝石や貴金属を与えるなんて贅沢すぎる。
(間違いなく富豪だよな。価値観が違う……)
セオリスは男爵家の次男だが、病弱なため、長男のスペアにもなりえないとみなされていた。そんなセオリスに、実父が装飾品などを買い与えるわけがない。人生で初めてこんなに贈り物をもらって、目が回りそうだった。
それでも、ディルモアにとっては倉庫で余っていた品という扱いなのだから、セオリスは面食らうばかりだ。
セオリスはその中から肌触りが気に入ったものを選び、好んで身に着けている。高級品だけあって質が良い。体調を崩している時は肌が荒れやすいセオリスにとって、ありがたいことだ。
(この人達、たまに僕を見る目に険があるんだよね)
原因はどう考えても、居候二日目で起きた事件だ。主人の嫁が連れてきた人族の弟と、同じ屋敷で働いてきた仲間。彼らにとって大切な存在は、当然、後者だ。仲間がひどい目にあったのだから、セオリスに良い感情を抱かないのは自然に思えた。
(まあ、時間が解決するだろう。一緒に過ごしているうちに、仲良くなれると信じておこう)
だが、そんなセオリスの展望は、一ヶ月もすると打ち砕かれた。
(まったく距離が縮まる様子がない!)
それだけでも頭が痛いのに、最近になってさらに違和感が増え始めた。
(はあ。スープに虫が入っていたのを注意せず、外によけて、黙って食べたのがいけなかったのかな……)
生活していれば、料理に虫が飛びこむくらいのことはある。田舎にあるラーベル家でもたまにあったことだったから、セオリスは気にしなかった。だが、昼食に出されたスープは、今度は香辛料がききすぎていた。
「ごほっ。何、これ」
「この地方特有のスープです。お体が温まりますよ」
むせてしまい、さすがにセオリスでも黙っていられずに問うと、下女のレダは平然とした態度で言った。
「ご主人様はお体が弱いのですから、お薬だと思って、我慢して食べてください」
「薬? そう……」
レダが薬だとはっきり告げるのだから、このスープは薬膳料理みたいなものなのだろう。他国にはそういう料理があると、前に本で読んだことがある。セオリスはこれまで、ラーベル家の屋敷という小さな世界しか知らなかったので、ジェット侯爵領には独特な料理があるのだなと思うだけだった。
それに、地方特有のものと言われると、この土地についてよく知らないセオリスが食べたくないと断るのは難しく思えた。
郷土料理が口に合わないというのは、彼らには失礼な話だろう。余計に関係性に溝ができるのではないかと心配し、セオリスはレダに言われるまま、我慢して食べた。正直、独特な匂いがする調味料は苦手なので、食後は胃がむかむかして気分が悪くなった。
違和感は食事以外にもあった。入浴をすすめられたセオリスが風呂に入ろうとしたら、浴槽に水が入っていたのだ。
セオリスが問うと、レダは間違えて水の栓を開けていたようだと謝った。
この世界には魔法が普及しているので、魔石を使った水道や湯沸かし器も広く使われている。物によっては、冷水と湯の栓の区別が分かりにくいのも事実だ。
(でも、客室メイドが間違えるだろうか? わざとなのか、間抜けなだけなのか、判別がつかないな)
セオリスはいったん様子見をすることにした。
レダの失態は、週に二回家庭教師が訪問する日や、シエンが顔を出す日には起きない。
これは嫌がらせだと確信した時には、だいぶ後手に回ってしまっていた。
(まずい。軌道修正するタイミングを逃した)
こういうことは、最初の段階で止めなければいけない。
(最初にレダが失敗した時点で、軽い処罰を与えるべきだったんだ)
使用人になめられないように、主人として冷酷な顔を見せるべきだ。セオリスは頭では分かっていたが、行動に移すのをためらってしまった。
最初、ディルモアが使用人達に与えた罰が厳しかったことを思い出した。その際に見た、恨みがましい目も怖かった。
使用人の問題は、セオリスがシエンやディルモアに告げ口をすれば、簡単に解決する話なのに。
(でも、そんなことを繰り返していたら、お兄様の周りが敵ばかりになってしまうんじゃないかな)
シエンとグレン家の使用人の間にさらなる軋轢ができるのも、セオリスが行動に移したことで、誰かの人生が落ちていく様を見るのも嫌だった。
それに、三人全員が悪いわけではない。
下男のバルトは、下女のレダに追随してセオリスに嫌がらせをしていたが、もう一人の下男であるマイルズは普通に接してくれていた。それどころか、セオリスの苦手な食事が出ていたり、浴槽の中身が冷水になっていたりすると眉をひそめ、すぐに謝罪してくれたのだ。
「申し訳ございません、セオリス様。先輩方が幼稚な真似を……。新しい食事にお取替えしたいのですが、レダさんにばれると厄介なので、私の分の食事を代わりにお持ちしますね」
「もしかして、マイルズもいじめられているの?」
「いいえ、そうではなく。魔竜族は縦社会で、上の言うことは絶対なのです。先輩方は、私のあることないことでっちあげて、部屋付きから外させようとするでしょう。そうなったら、あなたをかばえなくなります」
セオリスはマイルズの優しさに、胸が痛んだ。
自分の食事をセオリスにゆずるということは、マイルズはこの香辛料だらけのひどい食事をとるか、空腹のまま過ごすと言っているようなものだ。
もし兄達にセオリスが窮状を訴えたら、連帯責任でマイルズも処分されてしまうと予想がついたため、余計にどうしていいか分からなくなった。
「魔竜族は大変なんだね」
「身分社会というのは、そういうものですよ」
マイルズは困った顔をして、そう言った。
セオリスの要望を聞いたディルモアは、意外そうに片眉を跳ね上げた。
「そんなことで構わないのか? 装飾品や衣類を買ってもいいのだぞ」
「この通り、病弱の身には不要な物ですから……。部屋から出られないことも多いので、退屈しのぎが欲しいのです」
「君はそこまでか弱いのか……。なるほど、シエンが弟の保護を結婚の条件にあげるわけだな」
大きな問題を前にした時のように、ディルモアは顔をしかめる。少し考えた後、頷いた。
「では、教師の手配をしておく。毎日ではなく週に二度、二時間程度にしておこう。無理をさせては良くないからな。合間に休憩をとるように言っておく」
ディルモアがちらと背後にいる側近の男を見ると、彼は頷いた。手配するのは彼らしい。
「それから、本だな。北館の図書室を使ってもいいが、西館にも客用の書斎がある。どちらも利用を許可しよう。後で鍵を持ってこさせるから、好きな時に出入りしなさい。ただし、貸出は司書が許可するものだけだ。貴重な本もあるのでな」
「はい」
「そもそもの話、君の分の予算も用意しているから、それで好きな本を買っても構わない。本の購入が必要なら、西館の司書に伝えれば手配してくれるだろう」
セオリスは首を傾げる。
「僕の分の予算ですか?」
「侯爵家が世話をしている親戚だ。当然、生活費くらい用意している。君はまだ子どもだから、百万ゴールドくらいあればいいな?」
「ひゃ、百万ゴールドも!?」
セオリスが驚いたのは、ラーベル家の一月分の領地収入と同じくらいだったからだ。世情に疎いセオリスでも、算術の勉強をした時におおよその年収くらいは教わっている。庶民ならば、無駄遣いしなければ、五人家族が一年暮らせる金額だ。
ディルモアはけげんそうに問う。
「何を驚く?」
「いえ、最初に通された客室がラーベル家にある僕の部屋よりひどかったので、もしかしてこの家は貧しいのではないかと思い……」
うっかり本音をこぼしてしまい、セオリスは両手で口をふさいだが、時すでに遅し。ディルモアはありえないという顔をして固まり、シエンは噴き出した。
「あはっ、あははは。セオってば、そんなことを思っていたの? だから遠慮して、私を呼ばなかったのだね。ようやく納得したよ」
シエンは口端を緩め、セオリスに説明する。
「グレン家は、小国と変わらない規模を誇る富豪だよ。セオは世間知らずだし素直な子だから、この家の財務を心配したんだね。あーあ、ディルモアってば、客人に財布の中身を気遣わせるなんて、面目丸つぶれじゃないか」
シエンはからかっている口調で、遠慮なく言葉の矢を放った。笑っているが、この件で怒っているのは間違いない。
ディルモアの顔に朱が差す。恥なのか怒りなのか分からないが、それが良くない感情なのは分かる。セオリスは急いで謝った。
「申し訳ありません!」
「いや、構わぬ。あの連中の失態だ」
ディルモアは強面だが、子どもを責める真似はしないようだ。分かりにくいだけで、優しさを感じられた。
(はあ、さすが、あの小説のヒーローだよ。人格者なんだろうな)
これが実父や叔父ならば、すでに怒鳴り散らしているような失言をしただろうという確信がある。ディルモアの寛大な面を見て、セオリスはファン心もあって感動した。
二人の仲を取り持とうと決意を新たにして、セオリスはさっそく行動に移す。
「お兄様、閣下はこんなに優しくてご立派な方なのですから、あまり怒らないであげてください。それから、僕のことを心配してくれてありがとうございました」
「セオ、なんて良い子なんだろう。分かった、君がそう言うなら許すよ」
シエンがそう宣言したことで、ようやくディルモアの眉間のしわが消えた。表情が穏やかなものになる。
「シエン、すまなかったな。今後は気をつける」
「ええ、期待しています」
ディルモアに、シエンは微笑を向けた。
このまま二人の世界に入る前にと、セオリスはディルモアに質問する。
「あの、ところで、先ほどの予算というのは、本以外を買ってもいいのですか?」
「ああ、好きに使うといい。欲しい物があるなら、出入りの商人を呼んで構わん」
ディルモアはそう答え、セオリスを見た。
「必要な物があるのか?」
「この地が思ったよりも寒いので、羽織物を買い足そうかと……」
「それくらいなら、衣装部屋にいくらでも余りがあるから、あとで届けさせよう」
ディルモアはクローゼットに目をとめて、側近に手振りで開かせた。セオリスの持ち物が少ないことに驚きを見せる。
「引っ越しの時も、荷物が少ない気はしていたが……。いいだろう。身の回りの品も、クローゼットいっぱいに補充させておく。それから」
次にディルモアは暖炉を示す。
「必要なら、暖炉の火を入れてもいい」
余り物なら受け取ってもいいかと思ったが、暖炉を使っていいと言われたことには、セオリスも驚いた。
「そんな! 夏に暖炉を使うだなんて贅沢はできません」
「我が家は富豪だからな。それくらいで破産したりはしないのだ」
ディルモアは軽口を叩いた。先ほどのセオリスの言葉を揶揄したようだ。セオリスは顔を赤らめて首をすくめる。
「もう言いませんので、どうか忘れてください」
「ははは。では、あとは医者に任せて、私は先に失礼する。まだ公務があるのでな」
どうやらディルモアは公務の合間に、セオリスとシエンの様子を見に来たらしい。ディルモアは去り際にシエンの左頬にキスをしてから、部屋を出て行った。
「お兄様もどうぞお休みください。ずっと傍にいてくださったのでしょう? お疲れのようです」
シエンは昔からセオリスが寝こむと、忙しい合間を縫って自ら看病をしてくれた。
「医者の診察を見届けてから戻るよ。少し待っていなさい。消化に優しいスープを用意させるから」
「魔力漏出病ですか」
シエンが食事を終えた頃、魔竜族の医師エドアが診察に来た。病名を聞いたエドアは首を傾げた。初老に見えるが、魔竜族なので実年齢は見た目より上だろう。白髪交じりの黒い髪と灰色の目をしている。
「人間でも発症者が少ない病でしょう? 魔力が漏れるのを防ぐ手立てはありませんし……できるだけ魔法を使わないようにして、安静にして過ごすしかありません。魔力補給薬の連用はおすすめできませんし……」
エドアは困り顔をした。シエンが残念そうな表情を浮かべる。
「人族の医師にも、同じことを言われました」
「魔力補給薬は緊急用のもので、未発達の魔力器官には負荷がかかりすぎますから。しかし、このようにしょっちゅうゲートが閉じるのは、あまり良いことではありませんね。ゲート不全病になる確率が上がります」
エドアは有能な医師なようで、魔竜族に存在しない病でも把握しているようだ。
「ゲート不全病ってなんですか?」
セオリスが質問すると、エドアは眉間にしわを寄せる。痛ましげな様子だ。
「あまり患者を驚かせたくはないのですが……当事者なので知っているべきでしょうね。あなたの今後に関わることです」
セオリスは嫌な予感がした。まるで不治の病を通告されるような前置きではないか。
「魔力が足りなくなると、生命力を使わないように、魔力器官と生命力のラインの間にあるゲートが閉じ、気絶することはご存知ですね? それにより、体は魔力回復期に入ります。この仕組みは、人族も魔竜族も変わりません」
「はい。それでたまに倒れて、寝こんでいます」
分かりきったことを説明され、セオリスはもどかしい気持ちになった。不安が胸に押し寄せる。
(ゲート不全病なんて、あの小説にあったかな?)
悪役セオリスが病弱で、使用人からいじめられたせいで性格がゆがんだとは知っているが。
「実は、健常な者の場合、ゲートは滅多なことでは閉じません。ゲートが閉じるほどの無茶をする状況なんて限られています」
「え? 戦闘を行う魔法使いでもですか?」
「戦いを本業にしている者でも、一度、ゲートが閉じるほど使って限界量を把握したら、それ以降は気をつけるようになります。戦場で気絶なんてしてごらんなさい、待っているのは死だけでしょう?」
「ああ、そうですね」
敵の前で倒れるなんて、殺してくれと言っているようなものだ。
「便宜的にゲートと呼んでいるだけで、ゲートはそう開閉するものではないんですよ。一生のうち、開閉できる回数は決まっているというのが通説です」
「つまり、どういうことですか?」
シエンのほうがしびれを切らして、エドアに結論を迫る。
「扉だって、何回も開閉していたら蝶番にガタがくるでしょう? それと同じことです。ゲートも、何回も開閉していると、やがて機能しなくなります。そうすると、魔力が底をついた時、体が生命力を消費し始めるんですよ」
「生命力を……?」
シエンが口を覆い、青ざめた。
「運が悪ければ、そのまま生命力が尽きてお亡くなりになります」
「では、セオは……?」
「だいたいどれくらいの頻度で倒れるのですか?」
「二~三ヶ月に一度くらいでしょうか。ひどい時は一月に二回ほど」
「ううむ。そうなると、二十歳までもつかどうか……。ゲート不全病になったらおしまいです。肝に銘じておいてください。安静にするのですよ」
今のところ、これといった治療法はないらしい。エドアは、魔力を補給しやすい食事を積極的にとること、どんな時に倒れるのか記録しておくこと、この二つを告げた。
「先生、夫にはしばらく黙っていていただけませんか。私達はまだ侯爵家になじめていないので……」
「そうですね。繊細な問題ですし、ご家族がそうおっしゃるなら私からは何も申し上げませんよ。では、薬を出しておきます」
エドアは解熱剤と咳止めを処方すると、退室した。
「セオ……」
シエンが目に涙を浮かべ、悲壮な顔でセオリスを見つめる。
二十歳まで生きられたらいいほうだと言われたセオリスは、当然、ショックを受けていたが、今はシエンを慰めることにした。
「お兄様、良いこともあります。少なくとも、あと十年近くは生きられることが分かったのですから」
「優しい子だね。私を気遣わなくていいんだよ。君のほうがつらいだろうに……」
シエンはセオリスを優しく包みこむようなハグをしてから、寝るように促す。診察のために起き上がっていたセオリスは、ベッドに横たわった。やわらかいベッドは寝心地が良い。
「先生にも言った通り、このことは、ディルモアにはしばらく内緒にしておこう。君も気を遣うだろうし……。私は時間がある時はできるだけ顔を見せるからね」
「あまり心配しないでください。お兄様まで病気になってはいけませんから。眠くなってきたので、休んでも構いませんか」
「そうしなさい。ゆっくりお休み、セオ」
シエンの優しい声にうながされ、セオリスは眠りに落ちた。
第二章 ぎすぎすした日々
主人の命令を無視した件により、セオリスの部屋付きの使用人がそっくり入れ替わった。
西館の執事はギリアードのままだが、さすがに部屋付きをそのまま使うわけにはいかないと、総入れ替えをディルモアが命じたらしい。
新たにやって来たのは、下女のレダ、下男のマイルズとバルトだ。三人とも二十代前半から半ばくらいで、色の濃淡の差はあるものの、全員黒髪と灰色の目をしている。
セオリスはほっとした。罰を受けさせられた使用人達と同じ部屋で過ごすなんて、想像するだけで胃が痛くなる。そうなったら、医師に言われたように安静にすることなんて不可能だ。
「皆、セオリス様にごあいさつを」
ギリアードに促され、彼らはお辞儀をして声をそろえた。
「私どもは誠心誠意、お世話することを誓います」
「セオリス・ラーベルです。よろしくお願いします」
ベッドのヘッドボードにクッションを置いてもたれた格好のまま、彼らにあいさつすると、セオリスはベッド脇に立つシエンをちらりと見た。シエンはにこりと微笑む。
「セオ、使用人にそのような丁寧な口調を使わなくていいんだよ。甘く見られては困る」
「はい、気をつけます」
シエンは明らかにピリピリとしている。セオリスは苦笑する。
「お兄様、僕のことは構わず、ゆっくりお過ごしくださいと申し上げましたのに」
「あんなことがあったのだから、念を入れるに決まっているだろう? 君は庇護されるべき年齢だ」
有無を言わさぬ様には、男爵家の当主らしい威厳がある。年が若くても、シエンは家長なのだと、セオリスは実感した。
「叔父一家に屋敷を乗っ取られたことで、私も考えを改めたんだよ。少しくらい、対応が厳しくなるものだと思わない?」
「お兄様……」
シエンだって、叔父一家の裏切りには傷ついていたのだ。父の死が、シエンをたおやかで優しい少年から大人に変えたのだろう。セオリスは悲しくなった。
「お気持ちは嬉しいです、ありがとうございます。でも、あまり僕のことばかり気にかけないでください。お兄様には幸せになってほしいですし……」
「どうしたの?」
「このままではますます、僕は『新婚生活を邪魔する野暮な弟』になるじゃないですか」
「十歳なのに、どこでそんな言葉を覚えてきたの?」
シエンは目を丸くし、新婚という言葉に照れて頬を赤らめる。
「セオは病気がちなせいか、どうも大人びているね。甘えていいんだからね」
「甘えていますよ。これまでも、お兄様には勉強をたくさん教えてもらったので、嬉しかったです」
「ふふ。では、今度また、勉強を見てあげよう」
「よろしくお願いします」
セオリスはシエンと和やかに笑いあう。ようやくシエンの肩から力が抜けたのが見てとれた。
「うん。大丈夫そうだね。何かあれば、すぐに呼びなさい」
「分かりました」
セオリスは従順に頷いた。
(まあ、呼ぶつもりはないんだけどね……)
これ以上、侯爵夫人である兄と使用人の間に溝を作らせるつもりはない。シエンがセオリスを守ろうとするのと同じように、セオリスもシエンを応援したいのだ。
「君達、くれぐれも弟のことを頼んだよ。――はあ、でも、やっぱり心配だな。セオの居室を北館に移したほうが……」
「お兄様、家族っていうのは、ちょっと距離があったほうが上手くいくものなんですよ。ね!」
「まったく、どこでそんなことを聞きかじってきたんだ? そこまで言うなら、分かったよ。では、またね」
シエンは呆れた様子で首を横に振った後、セオリスに笑いかけてから部屋を出て行った。ギリアードを含め、使用人達はシエンに頭を下げる。
シエンが去ると、ギリアードはセオリスに丁寧な口調で話しかけた。
「セオリス様、身の回りの品を補充しますので、少し騒がしくなるかもしれませんが、ゆっくりお休みください。寝台の天蓋のカーテンを下ろしておきます」
「分かった。僕は休んでいるよ」
「それから、こちらは閣下より届けられた図書室の鍵です」
「ありがとう」
青いビロード張りの小箱を受け取ると、中に金と銀の鍵が入っていた。
「金が北館の図書室、銀が西館の書斎の鍵です。追跡魔法がかけられていますので、もし紛失された場合は教えてください。魔法で捜します」
「へえ、便利だね。分かった」
ベッドサイドのテーブルには、鍵付きの引き出しがある。セオリスはそこに小箱を仕舞った。魔法がかけられているなら、引き出しに鍵をかけなくても盗まれる心配はないだろう。
(それに、あんなことがあってすぐ、この人達が悪事を働くとも思えないし)
もしそんな真似をするとしたら、よほどの愚か者だけだろうと、幼いセオリスでも分かる。
グラスの水を一口飲むと、セオリスはベッドに横たわる。すぐにギリアードが天蓋のカーテンを閉じ、薄闇に包まれた。疲労から、セオリスはそのまま眠りに落ちた。
少し不安ではあったものの、これからの生活に支障はないだろうと、その時のセオリスは甘く考えていた。
部屋を移動した日以来、ギリアードは姿を見せない。
それは別に構わない。だが、新しい使用人達の態度はセオリスを気まずくさせた。
(仕事はするんだけど、愛想はないんだよな……)
ラーベル家の使用人とは、雑談をするくらいの仲だった。彼らはセオリスを主家の人間と敬いながらも、親しみを抱いてくれていたのだ。ほとんどが子持ちの年配者だったから、幼いセオリスを放っておけず、世話を焼いてくれていたのかもしれない。
(あいさつはしてくれるし、声をかければ無視はしない。でも、どことなくぎすぎすしてる……)
故郷の使用人と、グレン家の使用人を比較して、セオリスは郷愁にかられた。
初日に寝こんでしまったが、一週間安静にしたおかげで体調が元に戻ったので、セオリスはラーベル家でもそうしていたように、室内でのんびりと暮らしている。キラキラとした豪華な内装にも慣れた。最初のうちは、家具に傷でもつけたら修繕費が高そうだと恐る恐る生活していたのに、今では雑なものだ。
ディルモアが北館にある衣装室から運ばせた身の回りの品で、セオリスの部屋のクローゼットはぱんぱんになっている。どうせ出歩けないから衣服はそれほどいらないのに、なぜか外出着や夜会服まで増えていた。装飾品まで見せられた時は、どうしようかと悩んだ。十歳の子どもに、宝石や貴金属を与えるなんて贅沢すぎる。
(間違いなく富豪だよな。価値観が違う……)
セオリスは男爵家の次男だが、病弱なため、長男のスペアにもなりえないとみなされていた。そんなセオリスに、実父が装飾品などを買い与えるわけがない。人生で初めてこんなに贈り物をもらって、目が回りそうだった。
それでも、ディルモアにとっては倉庫で余っていた品という扱いなのだから、セオリスは面食らうばかりだ。
セオリスはその中から肌触りが気に入ったものを選び、好んで身に着けている。高級品だけあって質が良い。体調を崩している時は肌が荒れやすいセオリスにとって、ありがたいことだ。
(この人達、たまに僕を見る目に険があるんだよね)
原因はどう考えても、居候二日目で起きた事件だ。主人の嫁が連れてきた人族の弟と、同じ屋敷で働いてきた仲間。彼らにとって大切な存在は、当然、後者だ。仲間がひどい目にあったのだから、セオリスに良い感情を抱かないのは自然に思えた。
(まあ、時間が解決するだろう。一緒に過ごしているうちに、仲良くなれると信じておこう)
だが、そんなセオリスの展望は、一ヶ月もすると打ち砕かれた。
(まったく距離が縮まる様子がない!)
それだけでも頭が痛いのに、最近になってさらに違和感が増え始めた。
(はあ。スープに虫が入っていたのを注意せず、外によけて、黙って食べたのがいけなかったのかな……)
生活していれば、料理に虫が飛びこむくらいのことはある。田舎にあるラーベル家でもたまにあったことだったから、セオリスは気にしなかった。だが、昼食に出されたスープは、今度は香辛料がききすぎていた。
「ごほっ。何、これ」
「この地方特有のスープです。お体が温まりますよ」
むせてしまい、さすがにセオリスでも黙っていられずに問うと、下女のレダは平然とした態度で言った。
「ご主人様はお体が弱いのですから、お薬だと思って、我慢して食べてください」
「薬? そう……」
レダが薬だとはっきり告げるのだから、このスープは薬膳料理みたいなものなのだろう。他国にはそういう料理があると、前に本で読んだことがある。セオリスはこれまで、ラーベル家の屋敷という小さな世界しか知らなかったので、ジェット侯爵領には独特な料理があるのだなと思うだけだった。
それに、地方特有のものと言われると、この土地についてよく知らないセオリスが食べたくないと断るのは難しく思えた。
郷土料理が口に合わないというのは、彼らには失礼な話だろう。余計に関係性に溝ができるのではないかと心配し、セオリスはレダに言われるまま、我慢して食べた。正直、独特な匂いがする調味料は苦手なので、食後は胃がむかむかして気分が悪くなった。
違和感は食事以外にもあった。入浴をすすめられたセオリスが風呂に入ろうとしたら、浴槽に水が入っていたのだ。
セオリスが問うと、レダは間違えて水の栓を開けていたようだと謝った。
この世界には魔法が普及しているので、魔石を使った水道や湯沸かし器も広く使われている。物によっては、冷水と湯の栓の区別が分かりにくいのも事実だ。
(でも、客室メイドが間違えるだろうか? わざとなのか、間抜けなだけなのか、判別がつかないな)
セオリスはいったん様子見をすることにした。
レダの失態は、週に二回家庭教師が訪問する日や、シエンが顔を出す日には起きない。
これは嫌がらせだと確信した時には、だいぶ後手に回ってしまっていた。
(まずい。軌道修正するタイミングを逃した)
こういうことは、最初の段階で止めなければいけない。
(最初にレダが失敗した時点で、軽い処罰を与えるべきだったんだ)
使用人になめられないように、主人として冷酷な顔を見せるべきだ。セオリスは頭では分かっていたが、行動に移すのをためらってしまった。
最初、ディルモアが使用人達に与えた罰が厳しかったことを思い出した。その際に見た、恨みがましい目も怖かった。
使用人の問題は、セオリスがシエンやディルモアに告げ口をすれば、簡単に解決する話なのに。
(でも、そんなことを繰り返していたら、お兄様の周りが敵ばかりになってしまうんじゃないかな)
シエンとグレン家の使用人の間にさらなる軋轢ができるのも、セオリスが行動に移したことで、誰かの人生が落ちていく様を見るのも嫌だった。
それに、三人全員が悪いわけではない。
下男のバルトは、下女のレダに追随してセオリスに嫌がらせをしていたが、もう一人の下男であるマイルズは普通に接してくれていた。それどころか、セオリスの苦手な食事が出ていたり、浴槽の中身が冷水になっていたりすると眉をひそめ、すぐに謝罪してくれたのだ。
「申し訳ございません、セオリス様。先輩方が幼稚な真似を……。新しい食事にお取替えしたいのですが、レダさんにばれると厄介なので、私の分の食事を代わりにお持ちしますね」
「もしかして、マイルズもいじめられているの?」
「いいえ、そうではなく。魔竜族は縦社会で、上の言うことは絶対なのです。先輩方は、私のあることないことでっちあげて、部屋付きから外させようとするでしょう。そうなったら、あなたをかばえなくなります」
セオリスはマイルズの優しさに、胸が痛んだ。
自分の食事をセオリスにゆずるということは、マイルズはこの香辛料だらけのひどい食事をとるか、空腹のまま過ごすと言っているようなものだ。
もし兄達にセオリスが窮状を訴えたら、連帯責任でマイルズも処分されてしまうと予想がついたため、余計にどうしていいか分からなくなった。
「魔竜族は大変なんだね」
「身分社会というのは、そういうものですよ」
マイルズは困った顔をして、そう言った。
あなたにおすすめの小説
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
義兄の愛が重すぎて、悪役令息できないのですが…!
ずー子
BL
戦争に負けた貴族の子息であるレイナードは、人質として異国のアドラー家に送り込まれる。彼の使命は内情を探り、敗戦国として奪われたものを取り返すこと。アドラー家が更なる力を付けないように監視を託されたレイナード。まずは好かれようと努力した結果は実を結び、新しい家族から絶大な信頼を得て、特に気難しいと言われている長男ヴィルヘルムからは「右腕」と言われるように。だけど、内心罪悪感が募る日々。正直「もう楽になりたい」と思っているのに。
「安心しろ。結婚なんかしない。僕が一番大切なのはお前だよ」
なんだか義兄の様子がおかしいのですが…?
このままじゃ、スパイも悪役令息も出来そうにないよ!
ファンタジーラブコメBLです。
平日毎日更新を目標に頑張ってます。応援や感想頂けると励みになります。
※(2025/4/20)第一章終わりました。少しお休みして、プロットが出来上がりましたらまた再開しますね。お付き合い頂き、本当にありがとうございました!
えちち話(セルフ二次創作)も反応ありがとうございます。少しお休みするのもあるので、このまま読めるようにしておきますね。
※♡、ブクマ、エールありがとうございます!すごく嬉しいです!
※表紙作りました!絵は描いた。ロゴをスコシプラス様に作って頂きました。可愛すぎてにこにこです♡
【登場人物】
攻→ヴィルヘルム
完璧超人。真面目で自信家。良き跡継ぎ、良き兄、良き息子であろうとし続ける、実直な男だが、興味関心がない相手にはどこまでも無関心で辛辣。当初は異国の使者だと思っていたレイナードを警戒していたが…
受→レイナード
和平交渉の一環で異国のアドラー家に人質として出された。主人公。立ち位置をよく理解しており、計算せずとも人から好かれる。常に兄を立てて陰で支える立場にいる。課せられた使命と現状に悩みつつある上に、義兄の様子もおかしくて、いろんな意味で気苦労の絶えない。
【完結。一気読みできます♪】ただのハイスペックなモブだと思ってた
はぴねこ@5月中旬書籍発売
BL
神乃遥翔(じんの はると)は自分のことをモブだと思っていた。
少年漫画ではいつだって、平凡に見えて何か一つに秀でている人物が主人公だったから。
その点、遥翔は眉目秀麗文武両道、家も財閥の超お金持ち。
一通りのことがなんでも簡単にできる自分は夢中になれるものもなくて、きっと漫画のモブみたいに輝く主人公を引き立てるモブのように生きるのだと、そう遥翔は思っていた。
けれど、そんな遥翔に勉強を教わりに来ている葛城星 (かつらぎ ほし)は言った。
「BL漫画の中では、神乃くんみたいな人がいつだって主人公なんだよ?」
そう言って、星が貸してくれた一冊のBL漫画が遥翔の人生を一変させた。
自分にも輝ける人生を歩むことができるのかもしれないと希望を持った遥翔は、そのことを教えてくれた星に恋をする。
だけど、恋をした途端、星には思い人がいることに気づいてしまって……
眉目秀麗文武両道で完璧だけど漫画脳な遥翔が、お人好しで気弱な星の心に少しずつ少しずつ近づこうと頑張るお話です。
塩対応の同室αが実は俺の番を狙っていた
雪兎
BL
あらすじ
全寮制の名門学園に入学したΩの俺は、入寮初日から最悪の同室相手に当たった。
相手は学年でも有名な優等生α。
成績優秀、運動もできる、顔もいい。なのに——
めちゃくちゃ塩対応。
挨拶しても「……ああ」。
話しかけても「別に」。
距離も近づけないし、なぜか妙に警戒されている気がする。
(俺、そんなに嫌われてる……?)
同室なのに会話は最低限。
むしろ避けられている気さえある。
けれどある日、発情期トラブルで倒れた俺を助けてくれたのは、
その塩対応αだった。
しかも普段とは違い、必死な顔で言われる。
「……他のαに近づくな」
「お前は俺の……」
そこで言葉を飲み込む彼。
それ以来、少しずつ態度が変わり始める。
距離は相変わらず近くない。
口数も少ない。
だけど――
他のαが近づくと、さりげなく間に入る。
発情期が近いと察すると、さりげなく世話を焼く。
そして時々、独占欲を隠しきれない視線。
実は彼はずっと前から知っていた。
俺が、
自分の運命の番かもしれないΩだということを。
だからこそ距離を取っていた。
触れたら、もう止まれなくなるから。
だけど同室生活の中で、
少しずつ、確実に距離は変わっていく。
塩対応の裏に隠されていたのは――
重すぎるほどの独占欲だった。
愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない
了承
BL
卒業パーティー。
皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。
青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。
皇子が目を向けた、その瞬間——。
「この瞬間だと思った。」
すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。
IFストーリーあり
誤字あれば報告お願いします!
悪役令息(Ω)に転生した俺、破滅回避のためΩ隠してαを装ってたら、冷徹α第一王子に婚約者にされて溺愛されてます!?
水凪しおん
BL
前世の記憶を持つ俺、リオネルは、BL小説の悪役令息に転生していた。
断罪される運命を回避するため、本来希少なΩである性を隠し、出来損ないのαとして目立たず生きてきた。
しかし、突然、原作のヒーローである冷徹な第一王子アシュレイの婚約者にされてしまう。
これは破滅フラグに違いないと絶望する俺だが、アシュレイの態度は原作とどこか違っていて……?
【完結】王宮勤めの騎士でしたが、オメガになったので退職させていただきます
大河
BL
第三王子直属の近衛騎士団に所属していたセリル・グランツは、とある戦いで毒を受け、その影響で第二性がベータからオメガに変質してしまった。
オメガは騎士団に所属してはならないという法に基づき、騎士団を辞めることを決意するセリル。上司である第三王子・レオンハルトにそのことを告げて騎士団を去るが、特に引き留められるようなことはなかった。
地方貴族である実家に戻ったセリルは、オメガになったことで見合い話を受けざるを得ない立場に。見合いに全く乗り気でないセリルの元に、意外な人物から婚約の申し入れが届く。それはかつての上司、レオンハルトからの婚約の申し入れだった──
友人(勇者)に恋人も幼馴染も取られたけど悔しくない。 だって俺は転生者だから。
石のやっさん
ファンタジー
パーティでお荷物扱いされていた魔法戦士のセレスは、とうとう勇者でありパーティーリーダーのリヒトにクビを宣告されてしまう。幼馴染も恋人も全部リヒトの物で、居場所がどこにもない状態だった。
だが、此の状態は彼にとっては『本当の幸せ』を掴む事に必要だった
何故なら、彼は『転生者』だから…
今度は違う切り口からのアプローチ。
追放の話しの一話は、前作とかなり似ていますが2話からは、かなり変わります。
こうご期待。