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#06

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 彼に出会っていなければ、何にも絶望することなく今の人生を選んでいない、なんて言わせない。
 小谷野浩介が、写真雑誌が主催するコンテストの学生部門で大賞を獲ったのは、高校三年生の時だった。誌面の中央に大きく自分の写真と名前が印刷されていたのを覚えている。雨粒に濡れた通学バスの窓から撮った、色とりどりの傘の行列。重たい画面の中に配置された鮮やかなコントラストが評価された。通学バスからの風景をそれまで何枚も撮っていたが、あの写真が撮れた時は他とは違う確信があった。
 その後も雑誌やコンテストへ作品を送り続けたが、載ってもせいぜい佳作や下位止まり。一次二次審査の通過者として名前だけしか載らない事も珍しくない。大学で入った写真サークルの同期たちとグループ展を開くなど、熱心に活動してはいたが、ただ焦りと苛立ちが募るばかりだった。もう二度と高校生の頃のような勢いと瑞々しさのある写真は撮れないのではないか。そんなの認めたくない、撮り続けていれば変われるはずだ。そう信じていた。
 写真を始めたばかりの初期衝動を呼び起こすために、何度も開いた写真集があった。葦原哲朗という写真家の作品集「光について」。広告写真などで旬のモデルや女優を撮ることに長けていた写真家が出した、全く無名の一人の少女「光」だけを追った写真集。褪せたような淡い色調の中で、憂いと色気を帯びた視線を送る少女。挑発的なポーズをとりながらも、おそらく本当に触れようとすれば拒否されてしまうような。危うげな雰囲気をベールのように美しく纏った正体不明の少女に、一瞬で引き込まれてしまう。写真家とモデルの蜜月と呼ぶにふさわしい写真の数々だった。
 中学生の浩介は、地元の書店の棚に佇む「光」の姿を見て、一瞬で恋に落ちた。買って家に帰るまでの間、ずっとその写真集を胸に抱えていた。まるで悪いことをしているような、でも胸がはやる。彼女のことを誰にも知られずに自分だけのものにしたい。
 こんな写真を自分も撮りたい。そう願ったが、撮りたいものと撮れるものは違う。行き詰まる度に写真集を開いたが、「光」は手の届かない少女。理想と現実の剥離も小谷野の心を乱す要因の一つだった。
 そして「光について」は葦原自身の最高傑作だったのであろう。その後多くの女性をモデルにした写真集を出版し、有名女優やアイドルたちも「光」のように撮られることを望んだが。どれもこれも上辺のそれっぽさだけをトレースしただけのように見え、あの熱量は感じられなかった。自己模倣を繰り返した後、葦原哲朗はそれまでの華やかな世界から遠ざかってしまった。「光」は良くも悪くも彼の人生を変えてしまった、運命の女だったのだろう。
 まさかその運命の女に、自分の人生を狂わせられることになるとは。
 大学三年の夏、就職先について真剣に考えなければならない時期だった。働きながら写真を撮り続けるであろう。浩介はそう漠然と考えており、なんとか在学中に写真家になるためのとっかかりが欲しかった。
「浩介くんって人は撮らないの?」
 ある日、大学で同じゼミの女子生徒、河野サヤカにそう尋ねられた。
「前に写真見せてくれたけどさ、風景とか静物とかばっかだったよね。ポートレイトは撮らないの」
「人物写真はあんまり……自分が撮りたいと思ってるものじゃないかな、今は」
「こないださ、バイト先の友達の紹介でモデルやったんだ。大学で写真やってる子らしいんだけど、今度個展をやるんだって。一緒に観に行こうよ」
 浩介自身は、学生の写真展というものに正直そんなに気乗りしなかったのだが。サヤカの手前断るわけにはいかなかった。モデルを口実に色々な女の子に声をかけて回る男は珍しくない。浩介はそういう輩を軽蔑していた。大抵下心をすぐに見透かされて忌み嫌われるのだが、調子良くやっている奴も中にはいる。そういった女の子専門のカメラマン志望男子、とは自分は違うというプライドがあった。
 写真展は、繁華街の奥にある取り壊される予定の古いビルを丸ごと使ったイベントの一部だという。各階の部屋でライブペインティングやDJ、自主製作の映画上映などが行なわれている。会場のビルに着くと金曜日の夜のせいか、既にアルコールが入ったゾンビのような人たちが踊って騒いでいる。低音が激しい音楽と、不規則に上がる笑っているのか叫んでいるのかわからない、けたたましい声が混ざる。非日常を楽しむ人々を横目に、エレベーターのないビルを四階まで上った。
 息を整えながら会場になっている一室へ入ると、床や天井までも真っ白なペンキで塗られて目が眩みそうな部屋に、大きく引き伸ばされたモノクロームの写真が所狭しと飾られている。学生の作品展なんて、もっと凡庸なものだと思っていた。浩介が在籍するサークルで隔月行っている展示とは段違いだ。複数人の女性をモデルに撮っているが、彼女の写真は浩介の知っている彼女ではなかった。雨の日にビニール傘をさしてイヤホンをした女の子が交差点で信号待ちをしている。そんな何気ない風景が、美しい映画のシーンを切り取ったかのように見えた。どの写真の女性もささやかな魔法をかけられたかの如く、生まれ持った容姿以上に魅力的に見える。なるほど彼の写真なら、多くの女の子がモデルになりたがるだろう。
 個展の開催者、鴫沢耀という名前には覚えがあった。たしかモノクロのポートレイトで、写真雑誌の月例賞の常連だった。しばらく投稿をしていないと思ったら、もう別の段階へ進んでいたのか。会場でもらったチラシを見ると、同い年だという。……悔しい。悔しいけれど。こいつを越えてやるという気力は湧かず、浩介はただただ打ちのめされた。頑張れば勝てるとか、そういう話じゃない。自分には持ち得ない圧倒的なセンス。そういうものの存在を思い知らされた。
 サヤカに彼女が写った作品の感想を求められたが、当たり障りのない褒め言葉しか返せなかった。浩介にとってはもうそんなことはどうでもよかった。床や天井を隔てた向こうから聞こえて来る騒ぎの音を全て吸い込んでしまうような、この白黒の世界からもう目が離せなかった。

 呑みに行かない? とサヤカから誘いがあったのは、例のイベントの翌週のことだった。彼女のバイトが終わる時間を見計らって、バイト先のカフェを訪ねると。サヤカとその友達はカウンター席の客と談笑している。目深に被ったキャップ、流行りのストリートブランドの服とスニーカー。今風の身綺麗なその青年が鴫沢耀であることは、彼の傍に置かれたカメラバッグですぐに気付いた。
「こないだの個展に来てくれたんだって? ありがとう。君も写真やってるんだよね」
 余計なこと喋りやがって。そんな思いは愛想笑いで隠しつつ、「ちょっと今これしか持ってないんだ」と言い訳しながら、浩介は彼に自身の作品ファイルを渡した。高校生の頃にコンテストで大賞を獲った写真を筆頭に、雑誌に載った作品だけを集めてある。人に見せるにはこれが一番安全だ。色が綺麗だね、と写真を見た誰もが言うのと同じ褒め方をされた。もっと他に何か言って欲しい気もあったが、言われたらそれはそれで白々しいお世辞だと思ってしまいそうだった。
 四人で軽く食事をした後、近所の鴫沢のアパートで呑もうということになった。車のライトに時折照らされながら夜道を歩く姿や、酒を買いに入ったディスカウントショップの陳列棚を、彼は楽しそうに撮影する。浩介はカメラをバッグの中から出すことが出来ず、ただポケットに手を突っ込んで三人の後ろをついていくばかりだった。
 鴫沢の作品を見せてもらったり、深夜のバラエティ番組を見て笑いあっている内に夜も更けて、女の子たちは疲れたのか折り重なるようにクッションを抱いて眠ってしまっていた。彼女たちにタオルケットをかけ、隣の部屋で寝ようと鴫沢に促された。古い1DKのアパートの寝室には、撮影機材や小道具が入ったケースや写真集が床を埋めるように積まれている。その中には、一般の学生の身分ではなかなか手が出せないような専門書や洋書なども。サークルの友人たちの部屋を訪れた時との温度差を、浩介は感じた。新しいレンズを買ったことを自慢しあったり、撮影旅行と称して出かけても、旅先では遊んでいる時間が長かったり。男女関係や批評という名目の罵り合いで揉めて退部し、そのままカメラを辞める者も。生温いとわかっていても、一度浸かったら抜け出せなかった。いつでも本気になれると思っていたし、自分だけは他の奴らと違うという変なプライドも浩介にはあった。
「現像は自宅でしてる?」
「学校のラボの方が設備がいいから、そっちでやっちゃうな。浩介君は?」
「俺も学校のサークル室で……。見せてもらった作品、モノクロが多いね。個展もそうだったけど、こだわりがあるの?」
「こだわりってほどじゃないけど。色がない写真の方が見せたいものをはっきり見せられる気がする。写真ってやっぱり光と影だけで出来てるんだって感じるから。これはカラーの方が映えると思えばそうするよ。浩介君の写真は色遣いが綺麗で印象的だね」
「……ありがとう」
 自分だって真剣にやっていなかったわけではないのに。口を開けば開くほど自分が惨めになりそうで、浩介は目を閉じた。
 しばらくして浩介が目を覚ますと、小窓のカーテンの隙間から朝焼けが見えた。バッグから自分のカメラを出し、数枚撮ってみる。その音のせいか、鴫沢も目を覚ました。
「外に出て撮ろうよ。ついでにコンビニで朝食も買おう」
 女の子たちを起こさないようにこっそりと、二人でカメラを持って外へ出た。夜中に少し雨が降ったのか、街路樹や道路が濡れている。自分たち以外はみんな滅亡してしまったかのように静かな住宅街を、言葉を交わさず写真を撮りながら歩いた。こういうものが好きだよ、と指差す代わりにカメラを構える。ただそれだけのことが、よそよそしい会話を重ねるよりもずっと居心地が良かった。浩介が昨日感じた劣等感は、ゆっくりと砂時計のように胸から落ちていった。ちょっと見せて、と鴫沢に言われて浩介がカメラを渡すと、顔を接写された。浩介が鴫沢からカメラを奪うと、今度は鴫沢は自分のカメラで浩介を撮る。浩介も仕返しのつもりで鴫沢を撮ると、一瞬立ち止まり、またすぐに笑いながら歩き始めた。
「現像したら見せろよ」
 あどけない顔で笑う鴫沢を見ていると、電波の悪いラジオのようなノイズが、浩介の頭の中にざわざわと鳴った。こういう気持ちは知っている、前にも感じたことがある。だけど正体不明のそれは、その内にすぐ忘れてしまった。
 鴫沢から呼び出されたのは、それから半月後のことだった。
「この間会った時、趣味の良い時計してたからさ。洋服嫌いじゃないでしょ」
 出版社でアルバイトをしているという鴫沢に頼まれ、浩介はストリートスナップのモデルをすることになった。あまり気負わずに自然体で、とスタッフに声をかけられたが、どうにも落ち着かない。専ら撮るばかりで、他人の写真のモデルになるなんて初めてだった。レンズを向けられると嫌が応にも緊張感が走る。撮られるのって気力と体力がいる。ほんの数枚の撮影だったのに、異様に長い時間に感じられた。
「またなんかあったら呼んでいい?」
「ああ、勿論」
 笑顔で別れたが、浩介は地下鉄の駅のベンチに座り込んだ途端、立ち上がれなくなってしまった。薄れたはずの劣等感が再び澱んで、自分を取り込んでいく。向こうはプロになるための足掛かりを着々と得ている。自分はほぼ内輪の人間ばかりのグループ展で満足して、何もしていないのと同じだ。最近は投稿するための写真を選ぶのもどれを選んだらいいのかわからない。そろそろ就職に向けて真面目に考えなければいけない。もうどこへも行きたくなくなってしまって、そのままホームで何本も電車を見送った。
 雑誌に掲載されたストリートスナップは、個展で観た彼の作品とはまた違っていた。「ダークトーンでまとめたコーディネートにスニーカーで赤を差した印象的なスタイル/大学生・二十一歳」というキャプションが付いたその写真は、雰囲気があるものの誌面に上手く溶け込んでいて、自分の個性や技術を目立たせようというわがままさを感じさせない。こういう写真も撮れるんだよ、と見せつけられた気がした。
 正体不明のノイズが、彼に会えと命令しているのかもしれない。浩介はそんな風に感じていた。「時間空いてたら飯食わない?」「サヤカちゃんたちと呑むからおいでよ」などと、鴫沢から時々呼ばれるようになった。友達の一人としてカウントされているのだろうけれど、彼が浩介を見るのと同じ重さでは、浩介は彼のことを見れない。それでもメールや呼び出しを無視出来ないのだ。
 鴫沢の自宅で二人で呑みながら、最近撮った写真を見せてもらうと、どれもこれも違う女の子の写真ばかりだった。
「これだけたくさん女の子撮ってたら、奪い合いになってるんじゃない? モテるだろ」
 そんなことないよ、と鴫沢に受け流された。
「たしかにカメラマンとモデルは密な関係になりやすいし、互いの感情に迫らないと良い写真は撮れないと思うけど……被写体との距離が近づきすぎるのも問題だと思うよ。俺はモデルとは一定の距離を置きたい」
 はっきりとした口調に何の反論も出来ない。浩介にも写真を撮る上での主義主張は少なからずある。けれども人物写真は苦手だった。正面から友達を撮るのは気恥ずかしく、かといってあまり知らない人もどう接したらいいのか戸惑ってしまうのだ。ファインダーを覗き込んだ瞬間に、シャッターを押すたびに、自覚させられる。被写体と自分との関係を問い詰められる。それに上手く答えることが出来ない。
「浩介ってサヤカちゃんと付き合ってんの?」
 その言葉が社交辞令なのか牽制なのかを浩介は上手く察せず、
「……いやー、どうかなあ」
 などと言葉を濁した。確かにサヤカとは親密な仲なのだが、彼女が他に彼氏がいると言い出しても、すんなり引き下がれるような気がしていた。モデルとの適切な距離を測りかねるように、他人に対して上手く踏み込めないのは自覚があった。
 そして鴫沢は浩介が最近撮った写真をまとめたアルバムを見て、考え込むような顔をしていた。
「浩介君の撮る写真はやっぱり、カラーの方がずっと綺麗だと思うよ。前に見せてもらったような、粒子が粗い感じの……。あの個性を殺すのはもったいないよ」
 わかってる、それは痛いほどわかってるけれど。その言葉を喉の奥で押さえつけた。浩介は最近作風を大きく変え、ハイコントラストのモノクロ写真に挑戦していた。街の気配をリアルに撮るという意気込みで挑んだ作品たちは、サークルの仲間たちの反応も芳しくなかった。プロの作風をなぞっているだけだと自分でも感じていた。今までと同じではダメだと思って必死であがいたつもりだったのに。結局は自分の表現から逃げたのだ。力量の無さが恥ずかしくて耐え難く、だからと言ってなんの評価も欲しくないわけではない。時々自分には何も成し遂げられないんじゃないかという不安に襲われる。それでもカメラを捨てた人生なんて受け入れられなかった。ファインダーを覗いて、撮るべきものを探す。それが既に義務となり自分の首を絞めていることはわかっていた。だけど写真以外のものを見つけることなんて出来ないのだ。
 すっかり温くなって気が抜けた缶チューハイは何の味もしない。でも何か呑まないとこの場にいられないような気がして、缶の残りを一気に飲み干し、もう一本缶を開けた。
 そんな折、鴫沢が企業が主催するコンテストの優秀賞に選出されたというニュースが飛び込んできた。しかし鴫沢本人からではなく、カフェに遊びに行った時にサヤカからそれを聞かされた。プロの登竜門として名高いそのコンテストで入賞するというのは、高校時代からの浩介の目標でもあった。だが今年は、それに見合う作品が撮れなかった、と自分自身に言い訳をして応募を見送っていた。鴫沢は応募したなんて一言も言ってなかったのに……いや、プロを目指すなら応募していても何ら不自然ではない。目の前に置かれたアイスカフェラテの入ったグラスからは、結露が流れ出してテーブルに小さな水溜りを作っていく。
「叔父さんがなんとかっていう写真家らしいよ」
 という話をサヤカから教えられたおかげで、なんとかその場では焦燥感が暴れださずに済んだ。なんだ、最初から自分とは違うじゃないか。出版社のバイトもどうせコネなんだろ。彼に勝てない理由として十分な情報だ。浩介はそうやって自分を納得させようとした。
 それから鴫沢が優秀賞受賞者の中から選ばれるグランプリを獲得した頃には、もう秋も終わろうとしていた。美術館で行われた受賞者の作品展で彼の受賞作を観て、浩介の中にあった重たい石のようなものが、ゆっくり崖を転がり落ちて粉々になっていくような気がした。彼がいつも見せていたモノクロのポートレイトとは全く違う世界。目が眩みそうなほどの光に溢れたニュータウンの風景は、フレームから幸福や憧憬がこぼれ落ちてきそうで一歩後退りした。その中に潜むひっそりとした寂しさの淡い影。こんな写真が撮りたいと泣きたくなるほど焦がれていたものが、現実のものとなって今ここにある。足元が泥濘になってしまったかのように重く、浩介は写真の前から動く事が出来なくなってしまった。
 塾講師のアルバイトをしている理由も、時給がいいからと答えていた。教職課程を履修しているのもとりあえず保険のつもりで、と周囲には本気でない姿勢を見せていたけれど。浩介は真面目に就職活動をし教員資格を取ることを、すんなりと受け入れられそうだった。
 帰りにミュージアムショップで写真集を物色していると、隣で商品を見ていたグループの会話から信じがたい言葉が飛び出した。
「グランプリの鴫沢耀って、葦原哲朗の甥なんだってー」
 ゼミの先生から聞いたんだけど、と言うので彼の同級生たちなのだろうか。恵まれてる奴はこういうとこへ出てこないで欲しいよな、という嫉妬にまみれた会話のそばで、浩介の足は震えていた。全身の血が循環を止めてしまったように、身体が冷えていくのを感じた。浩介は急いで自宅へ戻り、本棚から写真集を取り出す。どんな写真がどの順番で並べられているかを完全に暗記してしまうほど、何度となく眺めた写真集。頭の中で鳴っていたラジオが電波を正しくキャッチして、ノイズがさっと消え去っていくのを感じた。

「浩介君の家で呑もうなんて珍しいね」
 何日かして、鴫沢は浩介の誘いに乗ってアパートへ来てくれた。写真展の感想や何気ない会話に笑いながら宅配ピザとビールを楽しみ、いつも通りの時間が流れる。狭い部屋でベッドを背もたれ代わりに二人で並んで座っていると、互いの腕や足が触れる。浩介が鴫沢の肩にもたれると、酔ってるの? と言いながら鴫沢は浩介の髪を撫でた。その手に深く甘えるように身を委ねると、鴫沢は浩介を抱き寄せ頬を撫でた。いつも通りの時間が止まった。
「やめないで」
 浩介のささやきに応じて、鴫沢は耳たぶとまぶたに軽くキスをした。浩介も鴫沢の唇に自身の唇を軽く重ねた。何度も繰り返す内に触れている時間が長くなり、互いの粘膜を舌を絡めあった。酒のせいだけじゃない、上がっていく体温に任せて身体も心も距離を失くしていった。
 翌朝、浩介が目覚ましのアラームで目を覚ますと、隣で寝ていた鴫沢は少し先に起きていたようだった。
「昨日のは、嘘じゃない?」
「うん、本気」
「浩介君のこと好きだよ。前から良いなって思ってた」
 俺もだよ、と少し掠れた声で浩介は言った。
「……君とずっとこうしたかった。君が俺を知るよりずっと前から、夢見てた」
 鴫沢は浩介の言葉に微笑んで、じゃあ運命だねと言った。そうだ、運命だったのかもしれない。
 帰っていく鴫沢に浩介はアパートの窓から手を振って、その姿を写真に撮ると。鴫沢も浩介の写真を撮った。
 それからの二人は、波が寄せては返すように互いの写真を撮りあった。学業以外の事柄で忙しくなっていく合間を縫っては、海へ植物園へ夜の街へ行き撮影をし、ベッドの上でも写真を撮りあった。焼きたてのトーストにバターを塗るようななめらかさで、鴫沢は浩介の姿を次々とフレームに収めた。言葉にできない感情は、シャッターボタンを押すことで伝え合った。彼の作品はどれも、浩介がこうしたいと願いながら創り上げられなかった写真だった。今はその作品の中に自分が生きている。じゃれあって眠って、レンズの向こうの彼を眺めている。写真を撮る度に、互いの魂の一部を分け与えているような気持ちになった。
 鴫沢には日常の様々なやりとりを数え切れないほど撮られた。ファインダーを覗かずに近づいて、何の予告もなくシャッターを押す。そうして気の緩んだ表情を撮られることに、最初の内は軽く反応していたが。いつの間にか慣れ切ってしまい、彼にならどんな瞬間を撮られてもいいと信頼していた。
 長い春休みが明ける直前の、ある日の午後。その日はアルバイトも休みで、浩介は鴫沢の部屋で一日を過ごし、ベッドの上でうたたねをしていた。すると、ゆっくり鴫沢が近づいてきて、浩介の上に跨る。その重みは程よく心地よく、写真を撮っていることにも気付いていたが、それも当然のように春の陽にまどろんでいた。
 鴫沢が浩介の服の中に手を滑り込ませてきた。するのかな。浩介は目を覚まして、鴫沢の腰に手をかける。
「ヌード、撮らせて」
 迷いのない声。突然のことながら、浩介に戸惑いはなかった。いつかこうなると初めからわかっていたのではないか。そう思えるほど、鴫沢の申し出を自然に受け入れられた。
 浩介はためらうことなく彼の前で服を脱ぐ。いつも二人でいる時にしているのと同じように。食事中やデート中にふいに撮られるのと変わりなく、日常の一部として瞬間が切り取られる。文字通り一糸纏わぬ姿を晒す。あたたかい水の底に沈んでいくような心地になっていく。彼が望むのなら、いくらでも。鴫沢が押すシャッターの魔法を信じて、その身を委ねた。
 その後も、彼の求めに応じて度々肌を晒した。同じように浩介も彼を撮った。鴫沢は相変わらず多数の女の子や、その他ポートレイトばかりを撮っていたが。彼のモデルの中でも、自分だけは特別だと浩介は感じていた。
 恋人同士になってからは、コンテストで賞を獲るためだとか人に認められるためだとか、そういった重い念のようなものからはすっかり解放された。浩介はカメラを始めた頃のような純粋な気持ちで撮影を楽しんでいた。
 写真というものは光と影で出来ているのに、まぶしさの中では闇のことなど忘れていたのだ。
 他の学生たちより出遅れたが、浩介は四年生の冬になんとか私大の付属高校の非常勤講師として採用が決まった。鴫沢は誰より喜んでくれたが、学生ながらプロのカメラマンとして活動している彼との差を感じていないと言えば嘘だった。若手バンドのCDジャケットや広告、サブカルチャー誌のグラビア……鴫沢本人が期待の新人アーティストとしてインタビューを受けた記事もあった。
 それでも満たされていたのは、鴫沢に対しての愛情と、それとはまた別の憧れや崇拝をないまぜにした、浩介にも何と呼ぶべきかわからない、抱えきれないほどの感情に支えられていたからだ。服を脱がし、その肌を味わい混ざり合う。何も携えていない裸の彼の肉体を、事後の表情を撮ることが自分だけに許されている。幻だと思っていたものが今この手の中にある。

 葦原哲朗の訃報を知ったのは、雪の日の朝だった。
 遅れて届いた朝刊の訃報記事を見て、浩介は心臓が止まりそうになった。まだ温かいベッドの中にいる鴫沢を慌てて起こすと、鴫沢は俯いて黙ったままだった。
「叔父さんなんだろ、すぐ実家帰ったほうがいいんじゃないのか。葬式とか色々あるだろ」
 鴫沢は深くため息をついて、また布団にもぐった。おい、と揺さぶると、小さな声で構わないでくれと返された。
「昨日、親から連絡があったから知ってるよ。自殺だって……」
 行かない、と意思表示するように鴫沢は首を振る。
 自殺。あの葦原哲朗が。自分にとって写真を撮ることの理由や目標であった写真家が。動揺のあまり自分の耳に聞こえるくらい、浩介の鼓動は大きくなっていく。
「大事な人なんじゃないのか」
 浩介は震えながらもベッドの下に手を伸ばし、一冊の写真集を取り出した。鴫沢が来る日はいつも彼に見つからないように隠していた写真集、「光について」。それを目の前に突きつけられ、鴫沢の表情は一気に凍りついた。今まで築き上げてきたものが目の前で崩落していくのを見たかのように。
「これは、『光』は、君だよね」
「……そうだよ。俺が叔父さんに頼んで撮ってもらったんだ」
 鴫沢はゆっくりと写真集をめくる。過去を懐かしんでいるようにも見えるが、地獄の扉を開けているようでもあった。 
「俺がまだ子供で……叔父さんが人気カメラマンだった頃、毎年夏休みになると叔父さんの家によく遊びに行っていた。少し山の方にある、小さくて古いけどモダンな造りの家で、すごく気に入ってた。叔父さんがモデルの女の子を連れてきては、部屋や裏庭や山の中で撮影をしていて、それを見るのがいつも楽しかったよ。被写体とカメラマンの関係を越えて密な関係になることもあって……俺はそれが羨ましかった。可愛がられてたけど、あの女の子たちと同じようにもっと愛されたかった」
 鴫沢から、「光」自身の口から、写真には写っていない事実が訥々と語られていく。
「女の子しか撮りたくないなら女の子になればいいと思った。カツラを被ってワンピースを着て……叔父さんが求める理想の女の子になった。今まで撮ってきた中で一番の、最高の被写体だって喜んでたよ。ファインダー越しに叔父さんに視線を送られるのは本当に心地良かった。もっと見て撮って愛してと望んでいたし、叔父さんもそれを叶えてくれた。確かに愛し合っていた。……あんなセックスみたいな撮影は、俺には二度と出来ないよ。カメラマンとしても被写体としても」
 彼の手の中にある「光」は、幼さの残る顔立ちに似合わずいつも熱っぽい視線を投げかけている。ページの向こうにいる誰かではなく、レンズを通して自分を狙うたった一人の人間に。ただの作品集ではない、二人の愛の記録なのだ。だからこそこんなにも心を揺さぶる。
「結局叔父さんは『光について』を越えるものを創り出せなかった。『光』に囚われて逃げられなかった。あの夏の数日間にしか存在しない少女だったのに。また撮りたいと願っても撮れるわけがない。子供の俺の欲望が叔父さんの首を絞めて苦しめて、写真家としての人生を奪った。俺が殺したんだ」
「それは違うよ」
 否定する言葉はもはや何の意味も為さない。
「俺が殺したんだよ」
 鴫沢はゆっくりと立ち上がって、荷物をまとめ始める。
「俺が甥だってこと、誰かから聞いて知ってたんだね。浩介には一度も話した覚えはないよ。周りの奴らみたいに偏見持たれたくなかったから」
 ごめん、という言葉を吐くのはこんなにも苦しいものだっただろうか。
「俺に近づけば、俺を撮れば、自分も葦原哲朗になれると思った? 『光』を撮れると思った?」
 浩介が用意した朝食に手をつけずに出て行く鴫沢を、浩介は冷たい部屋の真ん中にじっと立ったまま見送るしかなかった。
 あの少女に、「光」という毒に侵食されているのは、浩介も同じだった。幻の少女を追い求め続けて、ようやく手に入れた。この才能を喉から手が出るほど欲しいと、何度も何度も食い入るように眺めた写真集だった。浩介は鴫沢の言葉を否定できない。でもそれだけじゃない愛情が、鴫沢に対して確かに芽生えているのだ。「光」ではない、鴫沢耀という青年に。

 数日後、鴫沢が突然連絡もなく浩介のアパートを訪ねてきた。その顔を見て浩介は、もう元には戻れないことを悟った。テーブルを挟んで向かい合ったまま、何を話すべきか迷い続けた。その沈黙を先に破ったのは鴫沢だった。
「いつから気付いてた? 俺が『光』だって」
「……初めてキスした日の、少し前くらい。でもその前からなんとなく誰かの面影を感じてた」
「そっか……。まさか男だとは思わないだろうしね」
 目の前に置かれたふたつのマグカップはどちらも口をつけられることなく、永い間の中へコーヒーの湯気が消えていく。
「浩介が好きなのは、過去の『光』? それとも今の俺?」
「……どちらも愛してるんだ。でも耀のことは本当に好きなんだ、それだけはわかって欲しい」
「俺が『光』だって気付いてなくても、俺を誘った?」
 浩介はぐっと喉を詰まらせて、決まってるだろ、とすがりつくような弱々しい声を出す。鴫沢の言葉の一つ一つが冷たく胸に刺さる。
「叔父さんと同じだな。俺は浩介だけを見てるのに、浩介が見てるのは俺じゃなくて『光』だろ。あの子はもうどこにもいないよ。みんなおまえらの心の中で勝手に創った幻で、それを俺に投影してるだけ」
「俺には、耀が必要なんだよ……」
 頭を抱え涙を浮かべて懺悔し、苦悶する。その心の動きを表情の全てを、鴫沢は写真に撮った。浩介が手を伸ばせばカメラを払い落とせる、だけどしなかった。これが撮らずにいられない瞬間なことは、浩介にもわかっていた。二人はそうやって繋がってきたのだから。恋人同士として、カメラマンと被写体として過ごす最後の瞬間を、鴫沢に撮ってもらいたかった。惨めさも醜い欲望も全て、どんな一瞬も逃さずに。静かな部屋でただシャッター音だけが響いていた。
 それから浩介と鴫沢は、一度も会うことはなかった。
 浩介は写真を辞めた。
 もう撮るべきものがどこにも無くなってしまった世界で、カメラを構える意味などない。二人で撮り合った写真も一眼レフカメラも、視界に入らないようにベッドの下に押し込んだ。ファインダーを覗けばいつでも色が溢れる世界が見えていたはずなのに。カメラを通さない世界はこんなにも褪せて見えるものだろうか。
 空虚さを埋めるように仕事に専念し、一年後には正式に専任教員として採用された。カメラなんかなくっても自分は充分に生きていける。社会人として果たすべき責務を果たしている。浩介は、新たな人生を順調に歩んでいるつもりだった。
「小谷野先生はカメラがお好きなんですってね」
 高齢の教師に言われるまで、履歴書の趣味の欄に「カメラ・写真撮影」と書いたことをすっかり忘れていた。
「私ももう定年間近で、写真部の新しい顧問になってくれる人が欲しかったんですよ。ちょうど良かった。若い先生なら体力がおありでしょうから撮影旅行の引率も任せられますし」
 突然降って湧いた話に、断る言葉も了承する返事も口から出てこない。当然引き受けてくれるだろうという圧を滲ませながら、にこにこと話す相手を目の前にして。浩介は馬鹿みたいに口を半分開け、ただただ頷くしかなかった。
 またこの世界に足を踏み入れることになろうとは。再び手にしたカメラは重たかったが、不思議と違和感はなかった。構図の取り方やライティングなどを生徒に指導している内に、自身の勘も取り戻せた。やはり写真家ではなく教師が自分に似合う職業なのであろう。離れていたおかげだろうか。写真と自分との間に、適切な距離を取れるようになっていた。
 ただ、必死で喰らいつくようにシャッターチャンスを求めていた感覚は、二度と取り戻せないのだと感じていた。より美しい世界を捕らえたくて足掻いていた、あの頃の方がずっと良いものを撮っていたのではないか。時折そんな考えがよぎる。それ故に苦しんだはずなのに。
 鴫沢からは、会わなくなってからも時折個展の招待状などが送られてきていた。リストから名前を消すのを忘れているのか、大人としての社交辞令か。長いこと放置していたそれに、浩介は写真で返事をした。旅先で撮られた写真に、校舎の裏庭で撮った写真で返した。何の言葉も添えなくても、今はこんな気持ちで過ごしていると一番わかりやすく伝えられる。だって彼と自分はそうやって愛し合っていた。鴫沢とはきっともう会うことはないだろう。しかし写真を撮り続ける限り、彼との繋がりを失わないで済む。これからは趣味として純粋に自分の好きなものを美しいと思うものを撮っていこう。そんな穏やかな願いは、自身の抱える業によって覆されるとは知らずにいた。
 螺旋階段で光村崇史と目が合いシャッターを押した瞬間、不思議な手応えがあった。入賞した時の写真を撮った日に感じた確信に似た、だけどもっと力強いもの。まるで「光」に出会った日のような。
 教師いう鎧で身を守っていれば安全だと思っていた。それ以上踏み込ませなければ、理性を保っていられる。なのに暴力に近い無垢さで光村はその鎧を脱がそうとする。教師であるとか大人であるとか、そんな建前は彼には関係ないのだ。彼が欲しいのはその下の、何も身に付けていない小谷野浩介だけ。そこに触れられることを恐ろしく感じながらも、見せてしまえればきっと楽になれるような気もしている。だけどそれは許されない。被写体を被写体以上の存在にしてしまってはならないと、適切な距離を保つべきだとわかっているのに。
 そして今、もう何年も開いていなかった写真集を眺めている。「光」が再び浩介に写真を撮れと命令している。葦原哲朗のようにはなれないって、とっくの昔に悟ったはずだろう。それでも湧き上がってくる衝動から目を逸らし続けるのは苦しい。
 撮るべきものがいる世界に戻って来れたことは、果たして幸福なのだろうか?
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