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第26話 囁かれる噂
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静かな廊下を歩くたびに、背中に視線を感じる。
振り返っても誰もいない。けれど、それが錯覚ではないことは、とうの昔に理解していた。
「最近、公爵令嬢はずいぶん王宮づとめが多いそうですよ」
「まあ、“あの方”のお気に入りですものね。便利なものを使わない手はないわ」
声は控えめだが、確実に届く距離で囁かれる。
まるで私が、この回廊の壁の一部になったかのように。
(……別に、構わない)
そう思っているはずだった。
けれど、それが胸に小さな棘を刺すように残る日がある。
扉を開けて部屋に入ると、また依頼書の山が机の上にあった。
魔力の検知で開かれるよう封印されたものもあれば、雑に放り投げられたメモ用紙もある。
「今日だけで、これだけ?」
呟きながら、私はそっと扇に触れた。
まだ何も開いていないのに、背筋がふっと冷える。
椅子に座り、数件の依頼に目を通す。
不正の兆しを視てほしいというものもあれば、明らかに個人的な利益のためだけのものもある。
(依頼ではない、“命令”ばかり)
このところ、王子――リオネルからの直接の言葉はなかった。
けれど、彼の名を冠さずに届く文書の中には、あの人の“匂い”が混じっている。
「占え」ではなく、「視ろ」。
あの短く強い言葉の命令形。
たとえそれが誰かを通したものであっても、私にはわかる。
私は扇を手に取り、目を閉じた。
視界に広がるのは、相変わらず歪んだ未来の断片。
視えた光景の意味は、すぐには理解できない。
一つの未来を視終えた後、私はそっと腕を見た。
《328》
さっきより減っている。けれど、それ以上に気になったのは、自分の手の震えだった。
「……ふらついた?」
立ち上がろうとした瞬間、視界が少し揺れた。
深呼吸をし、机に手をついて立ち上がる。まだ、倒れるほどではない。
その時――
「エリス」
扉もノックもなく、唐突に呼ばれた声に振り返ると、そこにはリオネルがいた。
「急ぎだ。今すぐ、俺の未来を視ろ」
当然のように、目も合わせずに命じる彼に、私は扇を握る手に少しだけ力を込めた。
(なぜ、今……?)
けれど、問いは呑み込む。
この力を求められる限り、私はここにいるしかない。
リオネルの声は続く。
「どうなるのか教えろ。俺は、何を失う?」
その言葉の裏に、少しだけ焦燥が滲んでいた。
だが、それに気づくことができたとしても、私はそれを指摘しない。
扇が、音もなく開かれる。
私の魔力が、扇を通して流れ出す。
王子の未来。
王宮という中心に立ち、誰よりも多くの血と決断を背負う存在。
けれどその先にあったのは――
(……暗い)
王位の戴冠。
兵たちの歓声。
それと引き換えに、遠ざかっていく誰かの背。
誰もが彼を称えながらも、誰も寄り添わない王の姿。
私は手を止めた。
視えた未来は、栄光と孤独に満ちていた。
「……終わりました」
扇を閉じる音が、ひどく響いたように思えた。
リオネルがわずかに眉をひそめる。
「で? どうなる」
「王として、多くを手にされるでしょう。けれど……」
「けれど?」
私は言葉を選ぶ。
“誰か”の存在が失われる。けれど、それが誰かまでは視えなかった。
いや、視たくなかったのかもしれない。
「……その代わりに、失うものも、あります」
彼は少しだけ目を細めた。
「そうか。まぁ、そんなことだろうと思ったよ」
それだけを言って、彼は踵を返す。
扉の向こうへと姿を消す直前、リオネルはわずかに振り返った。
「せいぜい、俺の役に立てるよう振る舞え」
吐き捨てるようにそう言い残し、部屋から出ていった。
静寂が戻る。
私はしばらく扇を見つめたまま、動けずにいた。
扇の金具がかすかに冷たく、重くなった気がした。
腕の数字を見る。
視えた分、また少し減っていた。
《326》
視えた未来は、彼のもの。
それでも、削られるのは私だった。
(……まだ、動ける)
呟いた声が、どこか他人のもののように感じた。
振り返っても誰もいない。けれど、それが錯覚ではないことは、とうの昔に理解していた。
「最近、公爵令嬢はずいぶん王宮づとめが多いそうですよ」
「まあ、“あの方”のお気に入りですものね。便利なものを使わない手はないわ」
声は控えめだが、確実に届く距離で囁かれる。
まるで私が、この回廊の壁の一部になったかのように。
(……別に、構わない)
そう思っているはずだった。
けれど、それが胸に小さな棘を刺すように残る日がある。
扉を開けて部屋に入ると、また依頼書の山が机の上にあった。
魔力の検知で開かれるよう封印されたものもあれば、雑に放り投げられたメモ用紙もある。
「今日だけで、これだけ?」
呟きながら、私はそっと扇に触れた。
まだ何も開いていないのに、背筋がふっと冷える。
椅子に座り、数件の依頼に目を通す。
不正の兆しを視てほしいというものもあれば、明らかに個人的な利益のためだけのものもある。
(依頼ではない、“命令”ばかり)
このところ、王子――リオネルからの直接の言葉はなかった。
けれど、彼の名を冠さずに届く文書の中には、あの人の“匂い”が混じっている。
「占え」ではなく、「視ろ」。
あの短く強い言葉の命令形。
たとえそれが誰かを通したものであっても、私にはわかる。
私は扇を手に取り、目を閉じた。
視界に広がるのは、相変わらず歪んだ未来の断片。
視えた光景の意味は、すぐには理解できない。
一つの未来を視終えた後、私はそっと腕を見た。
《328》
さっきより減っている。けれど、それ以上に気になったのは、自分の手の震えだった。
「……ふらついた?」
立ち上がろうとした瞬間、視界が少し揺れた。
深呼吸をし、机に手をついて立ち上がる。まだ、倒れるほどではない。
その時――
「エリス」
扉もノックもなく、唐突に呼ばれた声に振り返ると、そこにはリオネルがいた。
「急ぎだ。今すぐ、俺の未来を視ろ」
当然のように、目も合わせずに命じる彼に、私は扇を握る手に少しだけ力を込めた。
(なぜ、今……?)
けれど、問いは呑み込む。
この力を求められる限り、私はここにいるしかない。
リオネルの声は続く。
「どうなるのか教えろ。俺は、何を失う?」
その言葉の裏に、少しだけ焦燥が滲んでいた。
だが、それに気づくことができたとしても、私はそれを指摘しない。
扇が、音もなく開かれる。
私の魔力が、扇を通して流れ出す。
王子の未来。
王宮という中心に立ち、誰よりも多くの血と決断を背負う存在。
けれどその先にあったのは――
(……暗い)
王位の戴冠。
兵たちの歓声。
それと引き換えに、遠ざかっていく誰かの背。
誰もが彼を称えながらも、誰も寄り添わない王の姿。
私は手を止めた。
視えた未来は、栄光と孤独に満ちていた。
「……終わりました」
扇を閉じる音が、ひどく響いたように思えた。
リオネルがわずかに眉をひそめる。
「で? どうなる」
「王として、多くを手にされるでしょう。けれど……」
「けれど?」
私は言葉を選ぶ。
“誰か”の存在が失われる。けれど、それが誰かまでは視えなかった。
いや、視たくなかったのかもしれない。
「……その代わりに、失うものも、あります」
彼は少しだけ目を細めた。
「そうか。まぁ、そんなことだろうと思ったよ」
それだけを言って、彼は踵を返す。
扉の向こうへと姿を消す直前、リオネルはわずかに振り返った。
「せいぜい、俺の役に立てるよう振る舞え」
吐き捨てるようにそう言い残し、部屋から出ていった。
静寂が戻る。
私はしばらく扇を見つめたまま、動けずにいた。
扇の金具がかすかに冷たく、重くなった気がした。
腕の数字を見る。
視えた分、また少し減っていた。
《326》
視えた未来は、彼のもの。
それでも、削られるのは私だった。
(……まだ、動ける)
呟いた声が、どこか他人のもののように感じた。
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