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浮舟の章
浮舟の章⑳
しおりを挟むアズィーザはうつ病を患っていた。
辛い現実から目を逸らすために、アズィーザは夫がまだ生きていると強く信じ込んでいた。
『お母さん、何かあったらすぐ連絡して。何処にいてもすぐに駆け付けるから』
『大丈夫よイフラース。だってお母さんにはお父さんがいるもの』
『お母さん・・・お父さんは・・・』
『何?』
『何でもない』
医師から余り母を刺激するなと言われていた。
真実が刺激になるなら隠すしかない。
だが、優しい嘘は悪意によって暴かれた。
その日、イフラースは母が心配で早めに帰宅した。
中に入ると祖父母の怒鳴り声が響いていた。
イフラースが急いで父の書斎に向かうと、母と祖父母が揉めていた。
『何をするの!?返して!それはミドハトの腕時計よ!!』
『息子の形見分けだ!親が持っていって何が悪い!この強欲女が!』
『そうよ!ミドハトの遺品は私達に権利があるの!誰がお前なんかに渡すものか!!』
父が大切にしていた腕時計数点が収められた箱。それを祖父母が無断で持ち去ろうとしていた。
母はそれを取り返そうと、必死で腕を伸ばしていた。
『嘘よ!ミドハトは死んでいない!!』
『ははっ!何だ、遂に頭までおかしくなったか?』
祖父は母を馬鹿にして笑った。
『ミドハトは死んだ。お前のせいでな!!』
『違う!!!』
悲鳴のような母の叫びを聞いた瞬間、イフラースの堪忍袋の緒が切れた。
『・・・何しているんですか?』
イフラースの声は冷たかった。
孫が帰宅しているとは思わなかったのだろう。祖父母は気まずそうに黙り込んだ。
父が一から立ち上げた会社が大きくなると、祖父母は自分達を役員にしろと息子に迫った。
ミドハトは警戒していた。
自分に何かあれば、この冷たい両親は身一つで妻と息子を外に放り出すだろうと。
ミドハトが作り上げた全ては一人息子、イフラースだけが引き継ぐ資格と権利がある。
息子の為に心配事は出来るだけ排除したかった。
ミドハトは役員を諦めさせる代わりに、毎月彼らに多額の援助をして両親を納得させた。
イフラースも同じ額を振り込んでいた。
祖父母はその金を惜しみなく使い、それはそれは裕福な暮らしを送っていた。
・・・それでも足りないのか。
父の遺品は高級品揃いで売れば高値が付く。
一体どちらが強欲なのか。イフラースの大きな目は怒りで充血していた。
『・・・誰の許可を得て家に入ったんですか?』
『息子の家に許可なんて必要ないだろう』
『違いますよ。今は母と私の家です』
イフラースの目はスッと細くなった。
『・・・あと、法律上父の遺品は母と私に権利があります。貴方方の行為はただの窃盗です』
『なっ!!』
『すぐに出て行って下さい。ごねるようでしたら警察を呼びます』
警察。
世間体を気にする祖父母はイフラースを罵りながら出て行った。
『お母さんごめん。明日から警備を付けるよ』
『イフラース・・・違うわよね!?』
アズィーザはイフラースの腕を掴んだ。表情も必死だった。
『ミドハトは生きているわよね!そうよね!?』
『・・・・・』
イフラースは何も言えず俯いた。
『生きてる・・・生きてる!ミドハトは生きている!!』
『うん』
泣きわめく母にそれしか言えなかった。
母を寝かしつけたイフラースは睡魔に抗えず、ソファーに横になってそのまま寝入ってしまった。
目が覚めると朝だった。
『お母さん・・・?』
母はおかしくなってからも早起きし、家族三人分の朝食を作っていた。
なのに今日はそれがない。
・・・嫌な予感がした。
イフラースは屋敷の中を探し回ったが、母の姿は何処にもなかった。
急いで警察に電話をし、母の捜索が始まった。
母は足が不自由だ。
そう遠くへは移動出来ないだろうと捜索隊は山付近を探し回った。
『お母さん・・・お母さん!』
イフラースは泣きながら母を探した。
嫌な予感は増すばかりだ。
その時、何故かフマヤドの花が思い浮かんだ。
・・・無理だ。そんな訳ない。
母の足であの急な階段は登れない。イフラースは不安を打ち消すように全速力で階段を上った。
天空の庭に赤い花は咲いていなかった。
ただ一面に綺麗な緑が広がるだけだった。
・・・だが、不自然に草が薙ぎ倒されている箇所があった。
まるで這ったように作られた道の先は、崖だ。
イフラースは震えながら先へ進む。
崖の下を見下ろすと、そこに大きな赤い花が咲いていた。
『・・・お母さん・・・』
イフラースは膝から崩れ落ちた。
涙が溢れて止まらなかった。
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