水底の記憶

第1章 忘却の湖

世界の中心に、誰も近づこうとしない湖がある。名を「ルフ湖」といい、そこに足を踏み入れた者は、自分の名前さえ忘れてしまうという。湖は静かで美しく、空を映す鏡のようだが、その底には何かが眠っていると古文書は語る。
少年が目を覚ましたのは、そんな湖のほとりだった。名も知らず、記憶もなく、ただ胸に小さな水晶を握っていた。彼は自分が誰なのか、なぜここにいるのか、何も思い出せなかった。
「目が覚めたのね」
声をかけてきたのは、湖畔の村「ミレア」に住む薬師の娘・セラだった。彼女は湖の近くで倒れていた少年を見つけ、村へ連れて帰ったのだという。
「名前は……覚えてないの？」
少年は首を振った。セラは少し考えたあと、微笑んで言った。
「じゃあ、アレンって呼ぶわ。それでいい？」
アレン——それが、彼の新しい名前となった。
ミレアの村は、湖の霧に包まれた静かな場所だった。村人たちは湖を恐れ、近づこうとはしなかった。だがアレンは、夜ごと夢に見る水中の光景に導かれるように、湖の謎を探り始める。
夢の中で彼は、水の中に沈む都市を見た。崩れ落ちる塔、流れる涙、そして誰かの声——「記憶を返すには、水の門を越えよ」。
ある日、アレンが湖のほとりで水晶を手にしていたとき、それが淡く光り始めた。水面が揺れ、湖の底から声が響いた。
「選ばれし者よ。水の門を巡り、記憶の真実に至れ」
その瞬間、アレンは確信した。自分の記憶は、この湖と深く関係している。そして、水晶はその鍵なのだ。
セラはアレンの話を聞き、驚きながらも信じた。彼女自身も、幼い頃に湖の夢を見たことがあった。水の中で誰かを呼ぶ声、涙のように流れる光——それは、アレンの夢と酷似していた。
「私も行く。あなたが記憶を取り戻すなら、私も自分の夢の意味を知りたい」
こうして、ふたりは旅に出ることを決めた。目的は、世界に点在する「水の門」を巡ること。そして、アレンの記憶を取り戻すこと。
村の長老は、ふたりの決意を聞いて静かに頷いた。
「水はすべてを映す。だが、深く潜れば、真実もまた苦しみを伴う。覚悟はあるか？」
アレンは水晶を握りしめ、答えた。
「僕は、自分が誰なのか知りたい。どんな真実でも、受け止める」
セラもまた、静かに頷いた。
「私も、過去を知りたい。たとえそれが痛みでも」
こうして、ふたりは湖を後にし、最初の水の門があるとされる「沈黙の都・ネフィル」へと向かった。
霧の中、湖は静かに揺れていた。まるで、ふたりの旅を見送るように——