影の灯火

ユウ6109

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影の灯火 プロローグ

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薄い雨がまだ路面に光を描いている閉店後の街で、書店の窓あかりは外の湿度を内側に引き込みながら、紙の匂いを一層濃くしていた。九条慶はレジの椅子に深く腰掛け、電灯の白い円の下で帳簿と校正紙を前にしていた。彼の世界はいつも、線と余白と文字の揺らぎで整理されている。だがその夜、ページを繰るごとに澪の顔がふと浮かび、言葉にしてしまえば些細な光景が、胸の奥に新しい波紋を生んでいく。
澪は閉店間際、棚の奥で手に取った本を置き忘れたのだろう。濡れた襟元を気にして出てきた彼の髪は少し乱れており、笑いながらもまっすぐに慶を見る目には、いつもの柔らかさと確かな強さが混じっていた。慶は無意識にその輪郭を追い、修正するようにページの角を直す。目と目が合った瞬間は短く、しかしその短さが胸の中に鋭い余韻を残した。
「まだ残業?」澪の声は日常の一部のように穏やかだが、その響きが慶の耳の奥で揺れる。言葉には色がないはずなのに、なぜか今夜は澪の声に色がついて聞こえる。二人は何気ない会話を交わし、閉店のベルが静かに鳴る。外は冷えた空気が流れ、雨のあとに残る湿気が街灯を淡く溶かしている。
手が自然と伸び、澪が差し出した傘を一緒に畳む――その指先の触れ合いは、慎ましやかでありながらも確かな印象を慶に残した。触れることはいつだって瞬時に言葉を超える。相手の温度、掌のわずかな反応、指先の短い逡巡。そうした幾つもの小さな事柄が、二人の関係を静かに変えていく。
その夜、二人は無言で歩いた。交わされる言葉よりも、互いの歩幅や肩の緊張、呼吸のリズムが同調していくのを慶は感じていた。澪は時折、遠くの看板の色を指差しては何かを笑い、慶はそれにただ頷く。軽い会話の裏側に漂う別の密度が、慶の内面に灯を灯していく。彼は自分の中に芽生えた静かな期待に気づきながらも、慎重に息を整えた。
夜が濃くなるに連れて、道は人影を減らし、二人の足音だけが反響する。街の冷たさが二人を近づけ、澪の笑顔の端にある温度が慶の胸を満たしていく。触れ合いはまだ始まったばかりだが、確かに何かが動いている。慶はその変化を丁寧に観察し、そしていつか自分で選ぶための材料として胸にしまっていった。
雨が上がった夜の帰り道、窓の明かりがまだ残る小さなカフェの前で、澪はふと立ち止まり振り返る。慶と視線を交わした瞬間、時間が一拍遅れる。澪の瞳には穏やかな決意と柔らかな好奇心が宿っている。慶は息を呑み、そしてゆっくりと笑った。灯りは揺れ、夜は二人の秘密を静かに包むように濃くなっていった。
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