影の灯火

ユウ6109

文字の大きさ
3 / 11

第2章 触れない約束

しおりを挟む
雨粒の記憶が路面に残る午後、澪は慶のアパートメントのドアを静かに叩いた。簡素で整った室内は紙とインクの匂い、そして時間に磨かれた家具の木の匂いが入り混じっている。澪は重たい荷物を置きながら、その空間に溶け込むようにゆっくりと動いた。棚の背表紙を指でなぞる仕草に、彼特有の落ち着きが映る。慶は机の明かりを落とし、コーヒーの湯気がふわりと立つソファに二人分の余白を作った。
澪は些細な質問をすることで、慶の輪郭を確かめた。眠り、食事、仕事の疲れ。問いかけは乾いた確認ではなく、寄り添いのための機微に満ちている。慶は一語一語を慎重に選び、過去を切り出すときの鋭利さと穏やかさの間を行き来した。言葉を経由して触れることは危うさも伴うが、同時に最も安全な方法でもあった。
静かに並んだソファの端で、澪は自分の指先を慶の膝にそっと置く。接触は極めて短く、しかしその瞬間に流れる温度と鼓動の速さは、二人の間に新しい地図を描いた。慶は目を閉じてその感覚を噛みしめる。触れることの重みは、相手を試すための道具ではなく、丁寧な確認の儀式なのだと彼は再認識した。
「触れない約束」という言葉は、不思議と安心を生む。二人は互いに守るべき境界を確認し合いながら、その境界の内側でできることを探していた。澪はしばしばその境界の端に立ち、柔らかな指先で境界線を辿る。慶は危うさを感じた時に一歩引くが、完全に離れることはしない。距離の取り方と距離の詰め方が、二人にとっての協働作業になっていた。
夜更けに澪が帰るとき、玄関で二人は短く立ち止まる。外の空気は夜の硬さをはらみ、澪の吐く息が白く見える。彼らは互いの目を覗き込み、言葉を交わさずに合図をする。澪の手がわずかに伸び、慶はそれを受け取ってからすぐに離す。離す行為にすら意味がある。離すことで約束は守られ、しかし同時に再び戻るという暗黙の許しも生まれる。
翌朝、慶は窓辺で湯気上がるコーヒーを手に取りながら、自分の手のひらを見つめる。昨夜の短い接触の記憶は、身体ではなく心の裏側に刻まれている。触れない約束は彼にとっての試金石だ。相手を尊重し、その尊重が返ってくるとき、初めて自分は誰かと本当に近づけると感じる。
日々はまた続く。仕事の合間に交わされる短いメモ、図書の受け渡し、棚番のための共同作業。触れない約束はそれらの間に微かな糸を張り、その糸が二人を結び付ける。約束は時に重く、時に軽く、しかし常に二人を守るために存在した。澪はその糸を引く術を知っており、慶はその強度を測る術を心得ていた。二人は互いの返答の速さや言葉の温度で、どれだけ先に進めるのかを読み取っていく。
やがて、慶は自分の内側に向き合う時間を増やし始める。過去の傷に触れる瞬間があっても、それを澪に見せることが恐ろしくなくなってきた。触れない約束は、かえって触れるための準備期間となっていた。澪はその変化をただ見守り、必要なときだけ手を差し伸べた。二人のあいだにある微かな律動は、日常という名の大きな楽曲へと溶け込んでいった。
最後に澪がドアを閉める直前、彼は軽く振り返り小さく言う。「また明日ね」。言葉は短いが、深い意味を孕んでいた。慶は軽く頷き、胸の中でそれを繰り返す。触れない約束は守られている。だがその約束の内側で、確かな変化が静かに進行していることを二人は互いに感じていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

彼は当て馬だから

藤木みを
BL
BLです。現代設定です。 主人公(受け):ユキ 攻め:ハルト

ジャスミン茶は、君のかおり

霧瀬 渓
BL
アルファとオメガにランクのあるオメガバース世界。 大学2年の高位アルファ高遠裕二は、新入生の三ツ橋鷹也を助けた。 裕二の部活後輩となった鷹也は、新歓の数日後、放火でアパートを焼け出されてしまう。 困った鷹也に、裕二が条件付きで同居を申し出てくれた。 その条件は、恋人のフリをして虫除けになることだった。

【bl】砕かれた誇り

perari
BL
アルファの幼馴染と淫らに絡んだあと、彼は医者を呼んで、私の印を消させた。 「来月結婚するんだ。君に誤解はさせたくない。」 「あいつは嫉妬深い。泣かせるわけにはいかない。」 「君ももう年頃の残り物のオメガだろ? 俺の印をつけたまま、他のアルファとお見合いするなんてありえない。」 彼は冷たく、けれどどこか薄情な笑みを浮かべながら、一枚の小切手を私に投げ渡す。 「長い間、俺に従ってきたんだから、君を傷つけたりはしない。」 「結婚の日には招待状を送る。必ず来て、席につけよ。」 --- いくつかのコメントを拝見し、大変申し訳なく思っております。 私は現在日本語を勉強しており、この文章はAI作品ではありませんが、 一部に翻訳ソフトを使用しています。 もし読んでくださる中で日本語のおかしな点をご指摘いただけましたら、 本当にありがたく思います。

【完結】毎日きみに恋してる

藤吉めぐみ
BL
青春BLカップ1次選考通過しておりました! 応援ありがとうございました! ******************* その日、澤下壱月は王子様に恋をした―― 高校の頃、王子と異名をとっていた楽(がく)に恋した壱月(いづき)。 見ているだけでいいと思っていたのに、ちょっとしたきっかけから友人になり、大学進学と同時にルームメイトになる。 けれど、恋愛模様が派手な楽の傍で暮らすのは、あまりにも辛い。 けれど離れられない。傍にいたい。特別でありたい。たくさんの行きずりの一人にはなりたくない。けれど―― このまま親友でいるか、勇気を持つかで揺れる壱月の切ない同居ライフ。

何故よりにもよって恋愛ゲームの親友ルートに突入するのか

BL
平凡な学生だったはずの俺が転生したのは、恋愛ゲーム世界の“王子”という役割。 ……けれど、攻略対象の女の子たちは次々に幸せを見つけて旅立ち、 気づけば残されたのは――幼馴染みであり、忠誠を誓った騎士アレスだけだった。 「僕は、あなたを守ると決めたのです」 いつも優しく、忠実で、完璧すぎるその親友。 けれど次第に、その視線が“友人”のそれではないことに気づき始め――? 身分差? 常識? そんなものは、もうどうでもいい。 “王子”である俺は、彼に恋をした。 だからこそ、全部受け止める。たとえ、世界がどう言おうとも。 これは転生者としての使命を終え、“ただの一人の少年”として生きると決めた王子と、 彼だけを見つめ続けた騎士の、 世界でいちばん優しくて、少しだけ不器用な、じれじれ純愛ファンタジー。

ラベンダーに想いを乗せて

光海 流星
BL
付き合っていた彼氏から突然の別れを告げられ ショックなうえにいじめられて精神的に追い詰められる 数年後まさかの再会をし、そしていじめられた真相を知った時

人生はままならない

野埜乃のの
BL
「おまえとは番にならない」 結婚して迎えた初夜。彼はそう僕にそう告げた。 異世界オメガバース ツイノベです

君に望むは僕の弔辞

爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。 全9話 匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意 表紙はあいえだ様!! 小説家になろうにも投稿

処理中です...