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第1章
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駅のロータリーに吹く春の風は、まだ少し肌寒い。早朝の空気は冷たいけど、どこか底の方にふっと柔らかい熱が宿っている気がした。私はスーツケースを引いた右手に息を吹きかけながら、広島駅のロータリー入口に立ち尽くしている。重い荷物と慣れないスマートフォンが、今の私の全部みたいだった。
朝五時台の各駅停車、窓の外に見えるぼやけた町並みと淡い光。引っ越し直後の眠れない夜がようやく明けて、私は広島市郊外の大学の新入生だった。もう昨日までの制服は封印している。今は得体の知れない期待と不安で、制服の中に隠していたものが体の外側に出てしまいそうで、手が震えていた。
改札を抜けて新幹線口を出れば、ロータリーの向こうに大きな大学名の看板。私は「JR広島駅から徒歩十分」という不動産アプリの説明を何度も読み返しながら、地図アプリの白地図をさまよう。けれど知らない町はやっぱり知らないままで、歩道橋から見下ろすと、ビルの屋上にまだ霜が残っている。春なのに、やっぱり「よそ者」なんだと実感する。
誰にも見送られず、家族LINEには「ついた」「がんばれ」「飯ちゃんと食え」のスタンプが並ぶ。母はやたらとキラキラしたスタンプを選ぶ癖がある。父と弟はそれぞれ、短いだけの返事。でも、前夜の夕飯のぎこちない会話や、駅までの遠回りが凝縮された「がんばれ」の三文字には、言葉以上のものが詰まっている――そう感じる振りをしていた。
入学式の前日。新生活の部屋へと向かう道。どこもかしこも、まだ知らない名前と顔。アパートの鍵を受け取り、管理人のおばあさんに「春からここに住むのね」と笑顔で声を掛けられる。方言が混じるイントネーションで、どことなく懐かしいようで、遠くに感じる。「はい」とだけ返すと、「お母さんは来とらんの?」と尋ねるおばあさん。
「一人です」と言うと、「強かねえ」と笑われた。標準語で過ごしてきた関東育ちの自分には、まだ「広島弁」の響きにどぎまぎする。それでも、鍵の重さや初めての郵便受けの開け閉め一つに、大人になった実感は少しずつ湧いてくる気がする。
でも、「本当に独り立ちしたかった?」と、一歩踏み出すとき心の奥の小さい自分が角を出す。
部屋は六畳一間のワンルーム。「大学生 一人暮らし 必要なもの」と何度も検索し、揃えた家電や食器を並べ、最後にカーテンをかけた。「バイトもまだ決まっていない」「サークルも何もわからない」。全部が「はじめて」で、「不安」と「変われるかも」の両方に引っ張られる。
ベッドに寝転んでInstagramを開くと、「#春から大学生」「#新生活」そんなハッシュタグが溢れている。知らない間に、同じ大学に進学した子たちのアカウントに「フォローされました」の通知。自己紹介用のストーリーでは、「春から〇〇大学」とポップなデコ文字が躍る。私も何となく、プロフィール欄に「春から広大」とだけ書き足して、ストーリーに桜の写真を載せてみた。どこで使っていいかわからなかった「#春から大学生」を、初めて貼る。
でも、「いいね」や「DM」が返ってきてもSNS越しの距離感は測りにくい。画面の向こうの「明るそう」な人たちに混じっていける気がしない。
それでも、その夜、小さく鳴った通知。「同じ学部だね!よろしく」「新歓、一緒にいかない?」。
スマホ越しに繋がる「友達」は、どこか遠い。写真が綺麗で、キラキラした春の始まりに見えた。
次の日、開けたばかりのカーテンの向こうに、ぎらぎらするほど明るい春の光。通学路は舗装された坂道で、新築のマンションや、昔からありそうな古い家々が並ぶ。大学のキャンパスまで歩けば、足元のタンポポや、道の端の桜並木が、春を五感で主張する。
広島の春は、聞いていたよりも優しい。空気が澄んで、匂いもどこか甘い。普段は意識しない「うららか」という言葉がぴったりくる。
すこし早めに着いた私は、校門の前で立ち止まる。並ぶ新入生の列、知らない顔――いや、自分もその一人だった。同じスーツ、同じパンプス。知らない誰かと、同じ時間を待つ。この中の「私」はどんなふうに交わるのだろう、そんなことをぼんやり考える。
「春が、また始まる」。
どことなく気恥ずかしいほどのポジティブな予感。それでも、行き場のない不安で、心臓がトクン、と跳ねる。「一歩踏み出せば何か始まる」そんなことを、SNSの先にいる「魔法を信じる」誰かの言葉のように思い出す。
受付を済ませて、配られたパンフレットを握ると、隣に座った女の子と目が合った。「おはよう」と、ぎこちない笑顔。たったそれだけで、少し気持ちが楽になる。周囲はそれぞれのスマホを忙しそうにいじり、「#入学式」「#大学生」そんなタグが横行している。
入学式が始まると、学長の挨拶も、歓迎の言葉も遠い。「期待を胸に」だとか「夢の実現を」だとか、何もかも「正解」の言葉に感じた。
でも、私は今、自分の正解がどこなのかわからない。ここにいていいのか、そもそも「音羽」として何ができるのか。その全部が、ふわふわとした春の風にのせられて舞い上がりそうだった。
式が終わると周囲の人たちは、「写真撮ろう!」と騒ぎ始める。スマホを構える手、カラフルなスーツ、はしゃぐ声。私は誘われたわけでもなく、誘う勇気もなく、ただ人の輪の外で春の陽射しを眺めていた。
「一緒に撮ろうよ」。隣の女の子が声をかけてくれる。「音羽ちゃんも、おいでよ」。
「うん、ありがとう」。本当にそれだけで、救われる。たった一緒に写ったインカメの中、自分の表情はきっとぎこちない笑顔だけど、それでも「今日」は永遠に残る新生活の1枚だった。
「お花見、行かない?」
lineグループができて、話題は新歓サークルの「花見イベント」へと流れる。「新入生限定」「ピザもあるよ」「先輩たちが案内してくれるらしい」。みんなすぐに「わたし行く!」「俺も!」とスタンプを押し、流れに乗るのが上手だった。私は少し迷いながらも「行ってみたい」とひとこと返信した。SNSのグループ通知音に背中を押された。
その日、比治山公園の、まだ満開一歩手前の桜の下。新歓サークルの敷いた青いシートの上に新入生の輪ができる。花を背景に大学生顔の先輩たちが「広島はね、桜の名所が多いんだ」と語ってくれる。
「比治山は、小高い丘で、春には一三〇〇本も桜が咲くんよ。名物やで」。広島弁にはどこか懐の深さがある。笑い声、ピンクの花、まだ涼しい風が交じる春の午後――。
「お前も一年生?名前、なんて言うん?」
「ひなた、おとは……です。音、羽です」
「うち、田中志穂。よろしゅう」。先輩は気さくで、ガサツなほど飾らない。「実家、関東なんや?まあ、いろいろ慣れるまで大変やね」
「そうなんです」。うんうんと笑ってくれるその存在感に、小さく安心した。
春の日差しの下、花びらが風に舞ってシートの上に積もる。シートの端でひとりSNSを眺めた。一枚の写真、みんなと並んで写った自分がいる。「#春に溶ける」「#桜の季節」。
「溶ける」って、何が?自分の輪郭。それとも心の膜?
私にはまだ答えは出ない。でも、眩しい桜の花と、新しい人たち、それだけで「今日」は特別な景色だった。
「音羽ちゃん、このあとのカフェどうする?」
「先輩が連れてってくれるみたい」
「えっ、いいな!」
「行こうよ、みんなで」
「あ、うん」
無理やりはしゃぐわけでもなく、置いていかれるわけでもなく、「どこまで踏み込むか」探り合う会話。それでも、「関われた」一日が嬉しい。
カフェの入り口で、にぎやかな一団がSNS用の写真を撮っている。私は、たぶん一人では絶対に立ち寄らなかっただろうカフェで、不器用に「おすすめなんですか?」なんて尋ねてみる。「キャラメルラテ、めっちゃ美味しいよ」と笑う先輩。その「めっちゃ」のイントネーションが、なんだか耳に残った。
「音羽、今日の写真、送っとくね」
そう言って、志穂先輩がInstagramのDMで数枚の写真をシェアしてくれる。
「みんなで撮ったやつ、いいね」
「うん、ありがとう」
「#新歓」「#春に溶ける」そんなハッシュタグに自分が並ぶことが、すこし「自分の一部」がこの町に染み込む感覚をくれた。
夜、部屋で一人になると、母からのLINE。「夕飯、何食べた?」「自炊できてる?」「困ったことあったら何でも言ってね」。
私は「大丈夫」と心にもないスタンプを返す。実家の夕餉、テレビの音、母と弟のいつものやり取り――全部スマートフォンの向こうだ。「さびしい」なんて、素直に認めたくない。「ひとりでやるって決めたのは自分だから」と小さくつぶやく。
でも、帰ってこない「おかえり」の声が胸に刺さる。
「春」は、やっぱり得体の知れない温度で、夜の部屋を染めていく。
時々、涙が出そうになる。だけど、それをSNSには書かない。朝になればまた、強がる自分を貼り付けて外に出る。
アルバイトを探さなきゃ――。
大学の学食の掲示板や、スマートフォンの求人アプリを眺めていると、「飲食・フード(接客)」「パン屋」「カフェ」「塾講師」など、ずらりと並ぶ。「時給高め」「シフト融通」「交通費支給」「友達同士応募OK」の文句が踊る。
バイト経験もない自分にできそうなことを探す。
「近い」「人と喋りすぎずに済む」「まかないあり」。それだけを基準にバイト応募アプリで「カフェ」「ベーカリー」「コンビニ」にしぼってスワイプする。
「友達と一緒に応募すると安心だよ」と先輩は言った。でも、まだ友達と呼べるほど深いところまでいけていない。「じゃあ一度説明会行ってみようかな」と、小さく画面の「応募」ボタンを押すだけで、指が汗ばむ。
数日後、地元チェーンのベーカリーカフェで面接に臨む。
制服を身につけ、初めて接客のマニュアルを教わる。「いらっしゃいませ」「お決まりでしたらレジへどうぞ」「ありがとうございました」。フロアマネージャーの女性は、明るくきびきびとした人だった。「初バイトで不安だと思うけど、困ったらいつでも聞いてね」と言われて、少し胸が軽くなる。
「飲食バイトはきつい」と覚悟していたけど、スタッフ同士は年齢が近く、和やかな空気もある。「大学の学部、うちと一緒やん」と言われ、偶然のつながりに少し安心する。「今日、お客さん多いからレジ立ってくれる?」「はい」。必死でスマイルを作る自分がいる。
ひと仕事終えて、休憩室で「まかないパン」をかじる。小さな達成感。
「来週からも入れる?」
「はい。頑張ります」
そんなやり取りのすぐ横で、同じ年頃の男子大学生が店長とテレビのサッカーの話で盛り上がっている。私はうまく間に入れず、でも、こういう関係がゆっくり築かれていくならいいと思えた。
休憩中にSNSを開くと、「今日のバイトきつかった」「変な客来た」なんて投稿が並ぶ。バイトに悩む同級生も、頑張る先輩も、スクリーンの向こうで繋がっている。でも、それぞれの「疲れ」や「喜び」や「孤独」は、画面越しには匂わない。
自分だけじゃない、みんな一人で戦っている――そう思えると、少しだけ気が楽になった。
夕方、大学のキャンパスへ戻ると、桜の花びらが舞っている。陽だまりのベンチで、本を開く先輩たち。歩く学生の群れ、笑い声。たまに「今日のバイト、どうだった?」なんて声がけをもらう。「なんとかやってます」としか答えられない。それでも、「がんばれ」と背中を押されるのは、ただの挨拶以上の力に感じた。
家へ帰る道、コンビニの店先に偶然出くわしたのが――
「……あれ?」
少し遠くの歩道、同じくパン屋の袋を持った男子が四角い顔を上げて私を見た。
「えっと」
声をかけられて、心臓が跳ねる。「どこかで見たことがある気がする」――でも思い出せない。向こうもそんな表情をしていた。
「……あ、入学式で後ろの席だった人?」
「たぶん……。あのときパンフ落として拾った?」
「うん、たしかに」
「やっぱり。名前、何ていうの?」
「……ひなた、おとは。音羽です」
「日向、陽向……ひゅうが、しゅうま、です」
「へえ、同じ『ひなた』なんだ」
「よく言われる」
「知らなかった」
少し笑った彼の笑顔が、空気をやわらかくした。こんな偶然あるんだろうか、と思いながら、会話はどこか進まない。それでも、
「同じ学部?」「うん、文学部。語学コース」
「そっか、僕は教育。キャンパス近いね」
「うん……」
「……じゃ、また」
「うん、また」
短い会話、名残惜しいような、ぎこちない沈黙。「#偶然」「#出会い」――SNSに載せたらどんな反応があるだろう。そんなことをふっと考えた。
エレベーターで部屋に戻る途中、SNSのDMに「さっきの人、もしかして新歓で会った陽向くん?」と志穂先輩からメッセージが届く。「え、会ったの?」「偶然コンビニで」「普通にイケメンやん?」
思わず「そんなことないけど」と返しつつも、知らないうちに頬が緩んだ。
春は「始まり」の色で、「偶然」はいつだって不確かだ。でも、その不確かさが今、怖くもあり、ワクワクするものでもあった。
心の中の波紋は、どこかに静かな温度を落としていく。
夜、グループLINEに「お花見楽しかったね!」と写真がシェアされている。「今日の空、最高だった!」というコメントに、「ほんと、ビジュいいじゃん」「メロい~」「春にしぬ」「#ちゅき」と2025年らしい若者言葉が並ぶ。
「きまず~」などの語尾伸ばしや、「ほんmoney」なんて、SNS・TikTok発の新語にも、はじまりの春の空気感が漂う。
「これが大学生っぽいのかな」と、流行語の波に乗る自分をどこか俯瞰して見ている。
ふと、父からLINE。「あんま一人で夜出歩くなよ」「わかった」。
母からも、「自炊サボってない?」スタンプ。
「大丈夫」と返しながらも、心の奥でふっと温かさを感じた。
「親」との物理的な距離が広がった今、「家族」と「自分」の重さと、ありがたさに気付く。
高校までの「当たり前」は、もう目の前の景色にはいない。【離れること=自由】じゃない。
でもその「不自由さ」もふくめて「春」は、不器用でも前に進むやり方を、私に教えようとしている気がした。
その晩、初めて自分で炊いた白ご飯と、レトルトのお味噌汁を持って、アパートの窓際に座った。外にはまだ、街灯に照らされて花びらが舞っている。アルバイト先でもらったパンの端をちぎりながら、「今日一日」を心のなかでリプレイする。
キャンパスの桜並木、友だち未満の名前たち、新歓のかすかな酔い、初めてのアルバイト、「偶然」の彼――
全部を言葉にしなくても、心はどこか熱くなっている。
「音羽ちゃん、明日お昼学食いかない?」
志穂先輩からの通知。「いいですよ」とLINEを返し、ベッドの上でスマホを両手で握りしめる。SNSには、「#新生活」「#慣れないけど楽しい」「#春に溶ける」という匿名の言葉たちが、夜空に咲いている。
春は私のなかに滲みてきて、不安も期待も全部を、溶かしていく。「春に溶ける、君の声」。
このタイトルに込めた比喩のように、「心の氷」が少しずつ融けてゆくのを、私はきっと忘れられない。
明日へ。
また新しい一歩を踏み出せる、その予感だけが、今は一番美しい、春の光だった。
朝五時台の各駅停車、窓の外に見えるぼやけた町並みと淡い光。引っ越し直後の眠れない夜がようやく明けて、私は広島市郊外の大学の新入生だった。もう昨日までの制服は封印している。今は得体の知れない期待と不安で、制服の中に隠していたものが体の外側に出てしまいそうで、手が震えていた。
改札を抜けて新幹線口を出れば、ロータリーの向こうに大きな大学名の看板。私は「JR広島駅から徒歩十分」という不動産アプリの説明を何度も読み返しながら、地図アプリの白地図をさまよう。けれど知らない町はやっぱり知らないままで、歩道橋から見下ろすと、ビルの屋上にまだ霜が残っている。春なのに、やっぱり「よそ者」なんだと実感する。
誰にも見送られず、家族LINEには「ついた」「がんばれ」「飯ちゃんと食え」のスタンプが並ぶ。母はやたらとキラキラしたスタンプを選ぶ癖がある。父と弟はそれぞれ、短いだけの返事。でも、前夜の夕飯のぎこちない会話や、駅までの遠回りが凝縮された「がんばれ」の三文字には、言葉以上のものが詰まっている――そう感じる振りをしていた。
入学式の前日。新生活の部屋へと向かう道。どこもかしこも、まだ知らない名前と顔。アパートの鍵を受け取り、管理人のおばあさんに「春からここに住むのね」と笑顔で声を掛けられる。方言が混じるイントネーションで、どことなく懐かしいようで、遠くに感じる。「はい」とだけ返すと、「お母さんは来とらんの?」と尋ねるおばあさん。
「一人です」と言うと、「強かねえ」と笑われた。標準語で過ごしてきた関東育ちの自分には、まだ「広島弁」の響きにどぎまぎする。それでも、鍵の重さや初めての郵便受けの開け閉め一つに、大人になった実感は少しずつ湧いてくる気がする。
でも、「本当に独り立ちしたかった?」と、一歩踏み出すとき心の奥の小さい自分が角を出す。
部屋は六畳一間のワンルーム。「大学生 一人暮らし 必要なもの」と何度も検索し、揃えた家電や食器を並べ、最後にカーテンをかけた。「バイトもまだ決まっていない」「サークルも何もわからない」。全部が「はじめて」で、「不安」と「変われるかも」の両方に引っ張られる。
ベッドに寝転んでInstagramを開くと、「#春から大学生」「#新生活」そんなハッシュタグが溢れている。知らない間に、同じ大学に進学した子たちのアカウントに「フォローされました」の通知。自己紹介用のストーリーでは、「春から〇〇大学」とポップなデコ文字が躍る。私も何となく、プロフィール欄に「春から広大」とだけ書き足して、ストーリーに桜の写真を載せてみた。どこで使っていいかわからなかった「#春から大学生」を、初めて貼る。
でも、「いいね」や「DM」が返ってきてもSNS越しの距離感は測りにくい。画面の向こうの「明るそう」な人たちに混じっていける気がしない。
それでも、その夜、小さく鳴った通知。「同じ学部だね!よろしく」「新歓、一緒にいかない?」。
スマホ越しに繋がる「友達」は、どこか遠い。写真が綺麗で、キラキラした春の始まりに見えた。
次の日、開けたばかりのカーテンの向こうに、ぎらぎらするほど明るい春の光。通学路は舗装された坂道で、新築のマンションや、昔からありそうな古い家々が並ぶ。大学のキャンパスまで歩けば、足元のタンポポや、道の端の桜並木が、春を五感で主張する。
広島の春は、聞いていたよりも優しい。空気が澄んで、匂いもどこか甘い。普段は意識しない「うららか」という言葉がぴったりくる。
すこし早めに着いた私は、校門の前で立ち止まる。並ぶ新入生の列、知らない顔――いや、自分もその一人だった。同じスーツ、同じパンプス。知らない誰かと、同じ時間を待つ。この中の「私」はどんなふうに交わるのだろう、そんなことをぼんやり考える。
「春が、また始まる」。
どことなく気恥ずかしいほどのポジティブな予感。それでも、行き場のない不安で、心臓がトクン、と跳ねる。「一歩踏み出せば何か始まる」そんなことを、SNSの先にいる「魔法を信じる」誰かの言葉のように思い出す。
受付を済ませて、配られたパンフレットを握ると、隣に座った女の子と目が合った。「おはよう」と、ぎこちない笑顔。たったそれだけで、少し気持ちが楽になる。周囲はそれぞれのスマホを忙しそうにいじり、「#入学式」「#大学生」そんなタグが横行している。
入学式が始まると、学長の挨拶も、歓迎の言葉も遠い。「期待を胸に」だとか「夢の実現を」だとか、何もかも「正解」の言葉に感じた。
でも、私は今、自分の正解がどこなのかわからない。ここにいていいのか、そもそも「音羽」として何ができるのか。その全部が、ふわふわとした春の風にのせられて舞い上がりそうだった。
式が終わると周囲の人たちは、「写真撮ろう!」と騒ぎ始める。スマホを構える手、カラフルなスーツ、はしゃぐ声。私は誘われたわけでもなく、誘う勇気もなく、ただ人の輪の外で春の陽射しを眺めていた。
「一緒に撮ろうよ」。隣の女の子が声をかけてくれる。「音羽ちゃんも、おいでよ」。
「うん、ありがとう」。本当にそれだけで、救われる。たった一緒に写ったインカメの中、自分の表情はきっとぎこちない笑顔だけど、それでも「今日」は永遠に残る新生活の1枚だった。
「お花見、行かない?」
lineグループができて、話題は新歓サークルの「花見イベント」へと流れる。「新入生限定」「ピザもあるよ」「先輩たちが案内してくれるらしい」。みんなすぐに「わたし行く!」「俺も!」とスタンプを押し、流れに乗るのが上手だった。私は少し迷いながらも「行ってみたい」とひとこと返信した。SNSのグループ通知音に背中を押された。
その日、比治山公園の、まだ満開一歩手前の桜の下。新歓サークルの敷いた青いシートの上に新入生の輪ができる。花を背景に大学生顔の先輩たちが「広島はね、桜の名所が多いんだ」と語ってくれる。
「比治山は、小高い丘で、春には一三〇〇本も桜が咲くんよ。名物やで」。広島弁にはどこか懐の深さがある。笑い声、ピンクの花、まだ涼しい風が交じる春の午後――。
「お前も一年生?名前、なんて言うん?」
「ひなた、おとは……です。音、羽です」
「うち、田中志穂。よろしゅう」。先輩は気さくで、ガサツなほど飾らない。「実家、関東なんや?まあ、いろいろ慣れるまで大変やね」
「そうなんです」。うんうんと笑ってくれるその存在感に、小さく安心した。
春の日差しの下、花びらが風に舞ってシートの上に積もる。シートの端でひとりSNSを眺めた。一枚の写真、みんなと並んで写った自分がいる。「#春に溶ける」「#桜の季節」。
「溶ける」って、何が?自分の輪郭。それとも心の膜?
私にはまだ答えは出ない。でも、眩しい桜の花と、新しい人たち、それだけで「今日」は特別な景色だった。
「音羽ちゃん、このあとのカフェどうする?」
「先輩が連れてってくれるみたい」
「えっ、いいな!」
「行こうよ、みんなで」
「あ、うん」
無理やりはしゃぐわけでもなく、置いていかれるわけでもなく、「どこまで踏み込むか」探り合う会話。それでも、「関われた」一日が嬉しい。
カフェの入り口で、にぎやかな一団がSNS用の写真を撮っている。私は、たぶん一人では絶対に立ち寄らなかっただろうカフェで、不器用に「おすすめなんですか?」なんて尋ねてみる。「キャラメルラテ、めっちゃ美味しいよ」と笑う先輩。その「めっちゃ」のイントネーションが、なんだか耳に残った。
「音羽、今日の写真、送っとくね」
そう言って、志穂先輩がInstagramのDMで数枚の写真をシェアしてくれる。
「みんなで撮ったやつ、いいね」
「うん、ありがとう」
「#新歓」「#春に溶ける」そんなハッシュタグに自分が並ぶことが、すこし「自分の一部」がこの町に染み込む感覚をくれた。
夜、部屋で一人になると、母からのLINE。「夕飯、何食べた?」「自炊できてる?」「困ったことあったら何でも言ってね」。
私は「大丈夫」と心にもないスタンプを返す。実家の夕餉、テレビの音、母と弟のいつものやり取り――全部スマートフォンの向こうだ。「さびしい」なんて、素直に認めたくない。「ひとりでやるって決めたのは自分だから」と小さくつぶやく。
でも、帰ってこない「おかえり」の声が胸に刺さる。
「春」は、やっぱり得体の知れない温度で、夜の部屋を染めていく。
時々、涙が出そうになる。だけど、それをSNSには書かない。朝になればまた、強がる自分を貼り付けて外に出る。
アルバイトを探さなきゃ――。
大学の学食の掲示板や、スマートフォンの求人アプリを眺めていると、「飲食・フード(接客)」「パン屋」「カフェ」「塾講師」など、ずらりと並ぶ。「時給高め」「シフト融通」「交通費支給」「友達同士応募OK」の文句が踊る。
バイト経験もない自分にできそうなことを探す。
「近い」「人と喋りすぎずに済む」「まかないあり」。それだけを基準にバイト応募アプリで「カフェ」「ベーカリー」「コンビニ」にしぼってスワイプする。
「友達と一緒に応募すると安心だよ」と先輩は言った。でも、まだ友達と呼べるほど深いところまでいけていない。「じゃあ一度説明会行ってみようかな」と、小さく画面の「応募」ボタンを押すだけで、指が汗ばむ。
数日後、地元チェーンのベーカリーカフェで面接に臨む。
制服を身につけ、初めて接客のマニュアルを教わる。「いらっしゃいませ」「お決まりでしたらレジへどうぞ」「ありがとうございました」。フロアマネージャーの女性は、明るくきびきびとした人だった。「初バイトで不安だと思うけど、困ったらいつでも聞いてね」と言われて、少し胸が軽くなる。
「飲食バイトはきつい」と覚悟していたけど、スタッフ同士は年齢が近く、和やかな空気もある。「大学の学部、うちと一緒やん」と言われ、偶然のつながりに少し安心する。「今日、お客さん多いからレジ立ってくれる?」「はい」。必死でスマイルを作る自分がいる。
ひと仕事終えて、休憩室で「まかないパン」をかじる。小さな達成感。
「来週からも入れる?」
「はい。頑張ります」
そんなやり取りのすぐ横で、同じ年頃の男子大学生が店長とテレビのサッカーの話で盛り上がっている。私はうまく間に入れず、でも、こういう関係がゆっくり築かれていくならいいと思えた。
休憩中にSNSを開くと、「今日のバイトきつかった」「変な客来た」なんて投稿が並ぶ。バイトに悩む同級生も、頑張る先輩も、スクリーンの向こうで繋がっている。でも、それぞれの「疲れ」や「喜び」や「孤独」は、画面越しには匂わない。
自分だけじゃない、みんな一人で戦っている――そう思えると、少しだけ気が楽になった。
夕方、大学のキャンパスへ戻ると、桜の花びらが舞っている。陽だまりのベンチで、本を開く先輩たち。歩く学生の群れ、笑い声。たまに「今日のバイト、どうだった?」なんて声がけをもらう。「なんとかやってます」としか答えられない。それでも、「がんばれ」と背中を押されるのは、ただの挨拶以上の力に感じた。
家へ帰る道、コンビニの店先に偶然出くわしたのが――
「……あれ?」
少し遠くの歩道、同じくパン屋の袋を持った男子が四角い顔を上げて私を見た。
「えっと」
声をかけられて、心臓が跳ねる。「どこかで見たことがある気がする」――でも思い出せない。向こうもそんな表情をしていた。
「……あ、入学式で後ろの席だった人?」
「たぶん……。あのときパンフ落として拾った?」
「うん、たしかに」
「やっぱり。名前、何ていうの?」
「……ひなた、おとは。音羽です」
「日向、陽向……ひゅうが、しゅうま、です」
「へえ、同じ『ひなた』なんだ」
「よく言われる」
「知らなかった」
少し笑った彼の笑顔が、空気をやわらかくした。こんな偶然あるんだろうか、と思いながら、会話はどこか進まない。それでも、
「同じ学部?」「うん、文学部。語学コース」
「そっか、僕は教育。キャンパス近いね」
「うん……」
「……じゃ、また」
「うん、また」
短い会話、名残惜しいような、ぎこちない沈黙。「#偶然」「#出会い」――SNSに載せたらどんな反応があるだろう。そんなことをふっと考えた。
エレベーターで部屋に戻る途中、SNSのDMに「さっきの人、もしかして新歓で会った陽向くん?」と志穂先輩からメッセージが届く。「え、会ったの?」「偶然コンビニで」「普通にイケメンやん?」
思わず「そんなことないけど」と返しつつも、知らないうちに頬が緩んだ。
春は「始まり」の色で、「偶然」はいつだって不確かだ。でも、その不確かさが今、怖くもあり、ワクワクするものでもあった。
心の中の波紋は、どこかに静かな温度を落としていく。
夜、グループLINEに「お花見楽しかったね!」と写真がシェアされている。「今日の空、最高だった!」というコメントに、「ほんと、ビジュいいじゃん」「メロい~」「春にしぬ」「#ちゅき」と2025年らしい若者言葉が並ぶ。
「きまず~」などの語尾伸ばしや、「ほんmoney」なんて、SNS・TikTok発の新語にも、はじまりの春の空気感が漂う。
「これが大学生っぽいのかな」と、流行語の波に乗る自分をどこか俯瞰して見ている。
ふと、父からLINE。「あんま一人で夜出歩くなよ」「わかった」。
母からも、「自炊サボってない?」スタンプ。
「大丈夫」と返しながらも、心の奥でふっと温かさを感じた。
「親」との物理的な距離が広がった今、「家族」と「自分」の重さと、ありがたさに気付く。
高校までの「当たり前」は、もう目の前の景色にはいない。【離れること=自由】じゃない。
でもその「不自由さ」もふくめて「春」は、不器用でも前に進むやり方を、私に教えようとしている気がした。
その晩、初めて自分で炊いた白ご飯と、レトルトのお味噌汁を持って、アパートの窓際に座った。外にはまだ、街灯に照らされて花びらが舞っている。アルバイト先でもらったパンの端をちぎりながら、「今日一日」を心のなかでリプレイする。
キャンパスの桜並木、友だち未満の名前たち、新歓のかすかな酔い、初めてのアルバイト、「偶然」の彼――
全部を言葉にしなくても、心はどこか熱くなっている。
「音羽ちゃん、明日お昼学食いかない?」
志穂先輩からの通知。「いいですよ」とLINEを返し、ベッドの上でスマホを両手で握りしめる。SNSには、「#新生活」「#慣れないけど楽しい」「#春に溶ける」という匿名の言葉たちが、夜空に咲いている。
春は私のなかに滲みてきて、不安も期待も全部を、溶かしていく。「春に溶ける、君の声」。
このタイトルに込めた比喩のように、「心の氷」が少しずつ融けてゆくのを、私はきっと忘れられない。
明日へ。
また新しい一歩を踏み出せる、その予感だけが、今は一番美しい、春の光だった。
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飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
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