風味の記憶

第6話 煮物の記憶

🫕 第6話「煮物の記憶」
「先生、煮物って…記憶を呼び戻せると思いますか？」
料理教室「風味の記憶」に現れたのは、30代半ばの女性・中原沙織（なかはら さおり）だった。落ち着いた雰囲気に、少し疲れた目元。彼女は介護士として働きながら、認知症の母・澄子を自宅で介護していた。
佐伯遥は、彼女の問いに少し考えてから答えた。
「料理は、記憶の鍵になることがあります。特に煮物は、家庭の味ですから」
沙織は小さくうなずいた。
「母がよく作っていた煮物があるんです。里芋、人参、ごぼう、鶏肉。甘辛くて、出汁がしみてて…でも、もう母は作れない。味も、思い出せなくて」
彼女は、母の記憶を取り戻すために、あの煮物を再現したいと言った。
「母が食べたら、何か思い出してくれるかもしれない。ほんの少しでも」
遥は、彼女の気持ちを受け止め、材料を並べ始めた。
「じゃあ、今日は一緒に作りましょう。味は、記憶に寄り添うように」
まずは下ごしらえ。里芋は皮をむいて塩で揉み、ぬめりを取る。人参は乱切り、ごぼうはささがきにして水にさらす。鶏もも肉は一口大に。
「母は、包丁の音が好きだったんです。トントンって、台所から聞こえてくると、安心してた」
「その音も、記憶の一部ですね」
鍋にごま油を熱し、鶏肉を炒める。香ばしい匂いが立ち上ると、沙織は目を細めた。
「この匂い、懐かしい…かも」
野菜を加え、だし汁を注ぐ。醤油、みりん、砂糖で味を整え、弱火でじっくり煮込む。
「母は、煮物を作るとき、いつも『焦らないこと』って言ってました。急ぐと、味が入らないって」
「その通りです。煮物は、時間が味を作る料理ですから」
30分ほど煮込むと、具材に味がしみて、色も艶やかになった。沙織はひと口味見をして、静かに涙をこぼした。
「…近い。すごく近いです。母の味に」
遥はそっと言った。
「それなら、きっと届きますよ。お母様の記憶に」
その日、沙織は煮物を容器に詰めて持ち帰った。
数日後、彼女は再び教室を訪れた。
「先生、母が…煮物を食べて、『懐かしいね』って言ったんです。ほんの一言だけ。でも、それだけで…」
沙織の目には涙が浮かんでいた。
「料理って、すごいですね。言葉よりも、深く届くんですね」
遥は微笑んだ。
「記憶は、味と一緒に残るものです。だから、料理は記憶の再生装置なんです」
沙織は深くうなずいた。
「次は、母が好きだった茶碗蒸しを作りたいです。もっと、思い出してもらえるように」
遥は笑った。
「もちろん。一緒に、記憶を紡ぎましょう」

📝 レシピ：根菜と鶏肉の煮物（里芋・人参・ごぼう）
材料（4人分）
•  鶏もも肉：300g（一口大）
•  里芋：6個（皮をむいて塩もみ）
•  人参：1本（乱切り）
•  ごぼう：1本（ささがき、水にさらす）
•  こんにゃく：1/2枚（ちぎって下茹で）
•  だし汁：400ml（昆布と鰹節）
•  醤油：大さじ3
•  みりん：大さじ2
•  砂糖：大さじ1
•  ごま油：小さじ2
作り方
1.  鍋にごま油を熱し、鶏肉を炒める。
2.  表面が白くなったら、里芋・人参・ごぼう・こんにゃくを加えて軽く炒める。
3.  だし汁を注ぎ、煮立ったらアクを取り、調味料を加える。
4.  落とし蓋をして、弱火で30分ほど煮込む。
5.  具材に味がしみたら火を止め、器に盛る。
ポイント
•  里芋は塩もみでぬめりを取ると煮崩れしにくい。
•  ごぼうは水にさらしてアク抜き。
•  煮物は一度冷ますと、さらに味がしみる。