Dawn of the Lost Sea

ユウ6109

文字の大きさ
2 / 41

第1章 荒れた港町の朝

しおりを挟む
第1章 荒れた港町の朝
潮の匂いが、今日も街を覆っていた。Harunは崖の縁に立ち、遥かな海面に散る朝霧を睨みつけるように見下ろしていた。港の屋根はまだ眠りの中で、風が港灯の細い影を揺らす。彼の手には、古びた羊皮紙の一片があった。地図と呼ぶにはあまりに欠けている断片――だが、彼の指先はそこに描かれた不思議な紋章だけを追っていた。
「出発だってば、Harun。いつまでも黄昏は見てられないよ」
背後から寄せられた声に、Harunはゆっくりと首を巡らせた。そこに立っていたのはTamsinだった。薄紫のケープが朝風にそよぎ、彼女の表情はいつものように落ち着いているが、目には僅かな不安が漂っていた。
「まだ決まってないんだ。これだけじゃ……行き先が分からない」
「目的なんて、まずは歩くことから見つかるのよ。あなたなら、きっと」
Tamsinの声には根拠のない確信が混じっていた。Harunはそれをありがたく思いながらも、唇を引き結んだ。幼い頃から共に過ごした町の表情は、彼女の微笑みと同じく彼の胸の奥を暖める。だが同時に、その温かさは過去の穴を照らすこともあった。
「村はまだ落ち着かない。俺が出て行けば、――誰にも迷惑かけたくないんだ」
「迷惑なんて言わせない。あなたは旅に出るべき人だもの」
彼女の目が細くなり、短い笑いが零れた。Tamsinは治癒の小さな印を指先に宿し、傍らの傷ついた野良猫の毛並みをさっと撫でる。町の人々は闘いや疫病や貧しさのさなかで過ごしてきたが、Tamsinはそうした時間に静かな種を蒔く者だった。
「それで、本当に一人で行くつもりなんだな?」
Harunは地図の断片をポケットに仕舞い、肩越しに港を見やった。朝焼けが波を朱に染めるその向こうに、見知らぬ大陸の影が滲んでいる。
「一人じゃない。誰もが最初は一人で扉を叩く。――でも、道を選ぶのは自分だ」
Tamsinの言葉には、彼女自身がまだ答えを求めているような響きがあった。Harunはそのまま黙って頷いた。彼の中で何かが決まった。小さな決意が、胸の中で確かな鼓動を始める。
出発の準備は簡素だった。古い革のバッグに、食糧と長刃、そして断片の羊皮紙を入れる。町の細い路地でHarunは最後の買い物を済ませ、宿屋の前で大きく息を吸った。Tamsinはここで一旦別れると言った。彼女には守るべき人々と、治すべき傷がある。だが、彼女は言葉少なにこう付け加えた。
「もしも、あなたが本当に必要になったら――追いつくかもしれない」
Harunの心臓が跳ねた。期待ではなく、約束の余韻だと分かっていた。だがそれで十分だった。
港を出るとき、Harunは初めて路上の軽口や行商人の音を遠くで聴く自分を感じた。世界は大きく、同時に思いのほか狭い。道を一歩進むごとに、見知らぬ物語が彼の足元に折り重なり始める。
最初の事件は、町を出て間もない丘の道端で起きた。細い林を抜け、古い石垣の脇を歩いていたHarunは、不意に鈴のような高い声に足を止めた。茂みの間から少年が転がり出る。衣服は汚れ、手には小さな盗品らしき袋が握られていた。目はきらきらとした悪戯っぽい輝きを帯びているが、足元は震えていた。
「おい、大丈夫か?」
Harunが手を差し伸べると、少年は一瞬身を引いたが、その後逃げるように走り去ろうとした。――だが、道の角で二人組の見張りが待ち受け、少年は慌てて捕まる。彼らは粗末な革鎧をまとい、冷笑を浮かべていた。
「おい、小遣い稼ぎの時間だ。旅人からも一銭かすめ取れ」
Harunの胸に瞬間的な怒りが燃え上がる。剣を抜くにはまだ躊躇がある年齢の彼だが、言葉だけで押し切られる気もしなかった。
「放せ。彼は何もしてない」
乱暴な男が一歩出る。だがその瞬間、茂みの背後から細い影が滑り出た。短躯の影は軽業を見せ、瞬く間に敵の後ろに回ると、手早く縄を解く術を使った。彼の動きは早く、口元には得意げな笑みが漏れている。
「やれやれ、仲間をいじめるってのは古くてつまらない趣味だ」
少年は逃げ去った、残された二人は何が起きたのか理解しきれずに立ち尽くす。新参者は胸を張ってこちらを見た。瞳がいたずらっぽく光り、名を名乗る間もなく笑い声を上げる。
「俺はMik。盗みもするけど、追われるのはもっと楽しいんだぜ」
Harunは短く息を吐いた。助けたも同然の状況に、変に礼を期待するつもりはない。ただ、彼の旅は思わぬ波紋を呼んだ。
「俺はHarun。旅をする。話があれば――ついて来い」
Mikは肩をすくめ、興味深げにHarunを見た。旅人の眼差しが彼を引きつけたのだろう。だがMikの表情には、本当のところ仲間になるかどうかを試す軽い挑発が混じっている。
「ふん、面白そうだ。――まあ、とりあえず、しばらく付き合ってやるよ。食い物がうまけりゃ長居するかもな」
その瞬間、朝の海の向こうから低く響く鐘の音が届いた。Harunはふと地図の断片を触り、知らぬ紋章が指先に冷たく触れるのを感じた。風がまた一つ、彼の旅路を押し出す。
彼は知らなかった。港町の朝に立てた小さな決意が、やがて大陸の深い闇と光を引き寄せることを。仲間はまだ二人――Tamsinは約束を胸に、Mikは盗賊の軽口を忘れない。だが道は始まっていた。海の向こうで、何かが動いた。
朝露が石に落ち、世界は静かに目を覚ます。Harunは肩にかけたバッグを確かめ、足を一歩進めた。旅の第一歩はいつも、誰かの小さな親切と、少しの冒険心から生まれる。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

女王ララの再建録 〜前世は主婦、今は王国の希望〜

香樹 詩
ファンタジー
13歳で“前世の記憶”を思い出したララ。 ――前世の彼女は、家庭を守る“お母さん”だった。 そして今、王女として目の前にあるのは、 火の車の国家予算、癖者ぞろいの王宮、そして資源不足の魔鉱石《ビス》。 「これ……完全に、家計の立て直し案件よね」 頼れない兄王太子に代わって、 家計感覚と前世の知恵を武器に、ララは“王国の再建”に乗り出す! まだ魔法が当たり前ではないこの国で、 新たな時代を切り拓く、小さな勇気と現実的な戦略の物語。 怒れば母、語れば姉、決断すれば君主。 異色の“王女ララの再建録”、いま幕を開けます! *カクヨムにも投稿しています。

さようなら婚約者

あんど もあ
ファンタジー
アンジュは、五年間虐げられた婚約者から婚約破棄を告げられる。翌日、カバン一つを持って五年住んだ婚約者の家を去るアンジュ。一方、婚約者は…。

愛人を選んだ夫を捨てたら、元婚約者の公爵に捕まりました

由香
恋愛
伯爵夫人リュシエンヌは、夫が公然と愛人を囲う結婚生活を送っていた。 尽くしても感謝されず、妻としての役割だけを求められる日々。 けれど彼女は、泣きわめくことも縋ることもなく、静かに離婚を選ぶ。 そうして“捨てられた妻”になったはずの彼女の前に現れたのは、かつて婚約していた元婚約者――冷静沈着で有能な公爵セドリックだった。 再会とともに始まるのは、彼女の価値を正しく理解し、決して手放さない男による溺愛の日々。 一方、彼女を失った元夫は、妻が担っていたすべてを失い、社会的にも転落していく。 “尽くすだけの妻”から、“選ばれ、守られる女性”へ。 静かに離婚しただけなのに、 なぜか元婚約者の公爵に捕まりました。

サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします

二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位! ※この物語はフィクションです 流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。 当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。

欠席魔の公爵令嬢、冤罪断罪も欠席す 〜メイリーン戦記〜

水戸直樹
ファンタジー
王太子との婚約――それは、彼に恋したからでも、権力のためでもなかった。 魔王乱立の時代。 王も公爵も外征に出ている王都で、公爵令嬢メイリーンは“地味な婚約者”として王城に現れる。 だが、王太子は初顔合わせに現れなかった。 にもかかわらず、記録に残ったのは「公爵令嬢の欠席」。 抗議はしない。 訂正もしない。 ただ一つ、欠席という事実だけを積み上げていく。 ――それが、誰にとっての不合格なのか。 まだ、誰も気づいていない。 欠席から始まる、静かなるファンタジー戦記。

転生『悪役』公爵令嬢はやり直し人生で楽隠居を目指す

RINFAM
ファンタジー
 なんの罰ゲームだ、これ!!!!  あああああ!!! 本当ならあと数年で年金ライフが送れたはずなのに!!  そのために国民年金の他に利率のいい個人年金も掛け、さらに少ない給料の中からちまちまと老後の生活費を貯めてきたと言うのに!!!!  一銭も貰えないまま人生終わるだなんて、あんまりです神様仏様あああ!!  かくなる上はこのやり直し転生人生で、前世以上に楽して暮らせる隠居生活を手に入れなければ。 年金受給前に死んでしまった『心は常に18歳』な享年62歳の初老女『成瀬裕子』はある日突然死しファンタジー世界で公爵令嬢に転生!!しかし、数年後に待っていた年金生活を夢見ていた彼女は、やり直し人生で再び若いままでの楽隠居生活を目指すことに。 4コマ漫画版もあります。

まず、後宮に入れませんっ! ~悪役令嬢として他の国に嫁がされましたが、何故か荷物から勇者の剣が出てきたので、魔王を倒しに行くことになりました

菱沼あゆ
ファンタジー
 妹の婚約者を狙う悪女だと罵られ、国を追い出された王女フェリシア。  残忍で好色だと評判のトレラント王のもとに嫁ぐことになるが。  何故か、輿入れの荷物の中には、勇者の剣が入っていた。  後宮にも入れず、魔王を倒しに行くことになったフェリシアは――。 (小説家になろうでも掲載しています)

マチ恋 ―君に捧げるLove song― 一夜の相手はスーパースター。誰にも言えない秘密の恋。【完結】

remo
恋愛
あなたにとっては遊びでも、私にとっては、…奇跡の夜だった。 地味で平凡で取り柄のない私に起きた一夜のキセキ。 水村ゆい、23歳、シングルマザー。 誰にも言えないけど、愛息子の父親は、 今人気絶頂バンドのボーカルなんです。 初めての恋。奇跡の恋。離れ離れの恋。不倫の恋。一途な恋。最後の恋。 待っている… 人生で、一度だけの恋。 【完結】ありがとうございました‼︎

処理中です...