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第1章 荒れた港町の朝
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第1章 荒れた港町の朝
潮の匂いが、今日も街を覆っていた。Harunは崖の縁に立ち、遥かな海面に散る朝霧を睨みつけるように見下ろしていた。港の屋根はまだ眠りの中で、風が港灯の細い影を揺らす。彼の手には、古びた羊皮紙の一片があった。地図と呼ぶにはあまりに欠けている断片――だが、彼の指先はそこに描かれた不思議な紋章だけを追っていた。
「出発だってば、Harun。いつまでも黄昏は見てられないよ」
背後から寄せられた声に、Harunはゆっくりと首を巡らせた。そこに立っていたのはTamsinだった。薄紫のケープが朝風にそよぎ、彼女の表情はいつものように落ち着いているが、目には僅かな不安が漂っていた。
「まだ決まってないんだ。これだけじゃ……行き先が分からない」
「目的なんて、まずは歩くことから見つかるのよ。あなたなら、きっと」
Tamsinの声には根拠のない確信が混じっていた。Harunはそれをありがたく思いながらも、唇を引き結んだ。幼い頃から共に過ごした町の表情は、彼女の微笑みと同じく彼の胸の奥を暖める。だが同時に、その温かさは過去の穴を照らすこともあった。
「村はまだ落ち着かない。俺が出て行けば、――誰にも迷惑かけたくないんだ」
「迷惑なんて言わせない。あなたは旅に出るべき人だもの」
彼女の目が細くなり、短い笑いが零れた。Tamsinは治癒の小さな印を指先に宿し、傍らの傷ついた野良猫の毛並みをさっと撫でる。町の人々は闘いや疫病や貧しさのさなかで過ごしてきたが、Tamsinはそうした時間に静かな種を蒔く者だった。
「それで、本当に一人で行くつもりなんだな?」
Harunは地図の断片をポケットに仕舞い、肩越しに港を見やった。朝焼けが波を朱に染めるその向こうに、見知らぬ大陸の影が滲んでいる。
「一人じゃない。誰もが最初は一人で扉を叩く。――でも、道を選ぶのは自分だ」
Tamsinの言葉には、彼女自身がまだ答えを求めているような響きがあった。Harunはそのまま黙って頷いた。彼の中で何かが決まった。小さな決意が、胸の中で確かな鼓動を始める。
出発の準備は簡素だった。古い革のバッグに、食糧と長刃、そして断片の羊皮紙を入れる。町の細い路地でHarunは最後の買い物を済ませ、宿屋の前で大きく息を吸った。Tamsinはここで一旦別れると言った。彼女には守るべき人々と、治すべき傷がある。だが、彼女は言葉少なにこう付け加えた。
「もしも、あなたが本当に必要になったら――追いつくかもしれない」
Harunの心臓が跳ねた。期待ではなく、約束の余韻だと分かっていた。だがそれで十分だった。
港を出るとき、Harunは初めて路上の軽口や行商人の音を遠くで聴く自分を感じた。世界は大きく、同時に思いのほか狭い。道を一歩進むごとに、見知らぬ物語が彼の足元に折り重なり始める。
最初の事件は、町を出て間もない丘の道端で起きた。細い林を抜け、古い石垣の脇を歩いていたHarunは、不意に鈴のような高い声に足を止めた。茂みの間から少年が転がり出る。衣服は汚れ、手には小さな盗品らしき袋が握られていた。目はきらきらとした悪戯っぽい輝きを帯びているが、足元は震えていた。
「おい、大丈夫か?」
Harunが手を差し伸べると、少年は一瞬身を引いたが、その後逃げるように走り去ろうとした。――だが、道の角で二人組の見張りが待ち受け、少年は慌てて捕まる。彼らは粗末な革鎧をまとい、冷笑を浮かべていた。
「おい、小遣い稼ぎの時間だ。旅人からも一銭かすめ取れ」
Harunの胸に瞬間的な怒りが燃え上がる。剣を抜くにはまだ躊躇がある年齢の彼だが、言葉だけで押し切られる気もしなかった。
「放せ。彼は何もしてない」
乱暴な男が一歩出る。だがその瞬間、茂みの背後から細い影が滑り出た。短躯の影は軽業を見せ、瞬く間に敵の後ろに回ると、手早く縄を解く術を使った。彼の動きは早く、口元には得意げな笑みが漏れている。
「やれやれ、仲間をいじめるってのは古くてつまらない趣味だ」
少年は逃げ去った、残された二人は何が起きたのか理解しきれずに立ち尽くす。新参者は胸を張ってこちらを見た。瞳がいたずらっぽく光り、名を名乗る間もなく笑い声を上げる。
「俺はMik。盗みもするけど、追われるのはもっと楽しいんだぜ」
Harunは短く息を吐いた。助けたも同然の状況に、変に礼を期待するつもりはない。ただ、彼の旅は思わぬ波紋を呼んだ。
「俺はHarun。旅をする。話があれば――ついて来い」
Mikは肩をすくめ、興味深げにHarunを見た。旅人の眼差しが彼を引きつけたのだろう。だがMikの表情には、本当のところ仲間になるかどうかを試す軽い挑発が混じっている。
「ふん、面白そうだ。――まあ、とりあえず、しばらく付き合ってやるよ。食い物がうまけりゃ長居するかもな」
その瞬間、朝の海の向こうから低く響く鐘の音が届いた。Harunはふと地図の断片を触り、知らぬ紋章が指先に冷たく触れるのを感じた。風がまた一つ、彼の旅路を押し出す。
彼は知らなかった。港町の朝に立てた小さな決意が、やがて大陸の深い闇と光を引き寄せることを。仲間はまだ二人――Tamsinは約束を胸に、Mikは盗賊の軽口を忘れない。だが道は始まっていた。海の向こうで、何かが動いた。
朝露が石に落ち、世界は静かに目を覚ます。Harunは肩にかけたバッグを確かめ、足を一歩進めた。旅の第一歩はいつも、誰かの小さな親切と、少しの冒険心から生まれる。
潮の匂いが、今日も街を覆っていた。Harunは崖の縁に立ち、遥かな海面に散る朝霧を睨みつけるように見下ろしていた。港の屋根はまだ眠りの中で、風が港灯の細い影を揺らす。彼の手には、古びた羊皮紙の一片があった。地図と呼ぶにはあまりに欠けている断片――だが、彼の指先はそこに描かれた不思議な紋章だけを追っていた。
「出発だってば、Harun。いつまでも黄昏は見てられないよ」
背後から寄せられた声に、Harunはゆっくりと首を巡らせた。そこに立っていたのはTamsinだった。薄紫のケープが朝風にそよぎ、彼女の表情はいつものように落ち着いているが、目には僅かな不安が漂っていた。
「まだ決まってないんだ。これだけじゃ……行き先が分からない」
「目的なんて、まずは歩くことから見つかるのよ。あなたなら、きっと」
Tamsinの声には根拠のない確信が混じっていた。Harunはそれをありがたく思いながらも、唇を引き結んだ。幼い頃から共に過ごした町の表情は、彼女の微笑みと同じく彼の胸の奥を暖める。だが同時に、その温かさは過去の穴を照らすこともあった。
「村はまだ落ち着かない。俺が出て行けば、――誰にも迷惑かけたくないんだ」
「迷惑なんて言わせない。あなたは旅に出るべき人だもの」
彼女の目が細くなり、短い笑いが零れた。Tamsinは治癒の小さな印を指先に宿し、傍らの傷ついた野良猫の毛並みをさっと撫でる。町の人々は闘いや疫病や貧しさのさなかで過ごしてきたが、Tamsinはそうした時間に静かな種を蒔く者だった。
「それで、本当に一人で行くつもりなんだな?」
Harunは地図の断片をポケットに仕舞い、肩越しに港を見やった。朝焼けが波を朱に染めるその向こうに、見知らぬ大陸の影が滲んでいる。
「一人じゃない。誰もが最初は一人で扉を叩く。――でも、道を選ぶのは自分だ」
Tamsinの言葉には、彼女自身がまだ答えを求めているような響きがあった。Harunはそのまま黙って頷いた。彼の中で何かが決まった。小さな決意が、胸の中で確かな鼓動を始める。
出発の準備は簡素だった。古い革のバッグに、食糧と長刃、そして断片の羊皮紙を入れる。町の細い路地でHarunは最後の買い物を済ませ、宿屋の前で大きく息を吸った。Tamsinはここで一旦別れると言った。彼女には守るべき人々と、治すべき傷がある。だが、彼女は言葉少なにこう付け加えた。
「もしも、あなたが本当に必要になったら――追いつくかもしれない」
Harunの心臓が跳ねた。期待ではなく、約束の余韻だと分かっていた。だがそれで十分だった。
港を出るとき、Harunは初めて路上の軽口や行商人の音を遠くで聴く自分を感じた。世界は大きく、同時に思いのほか狭い。道を一歩進むごとに、見知らぬ物語が彼の足元に折り重なり始める。
最初の事件は、町を出て間もない丘の道端で起きた。細い林を抜け、古い石垣の脇を歩いていたHarunは、不意に鈴のような高い声に足を止めた。茂みの間から少年が転がり出る。衣服は汚れ、手には小さな盗品らしき袋が握られていた。目はきらきらとした悪戯っぽい輝きを帯びているが、足元は震えていた。
「おい、大丈夫か?」
Harunが手を差し伸べると、少年は一瞬身を引いたが、その後逃げるように走り去ろうとした。――だが、道の角で二人組の見張りが待ち受け、少年は慌てて捕まる。彼らは粗末な革鎧をまとい、冷笑を浮かべていた。
「おい、小遣い稼ぎの時間だ。旅人からも一銭かすめ取れ」
Harunの胸に瞬間的な怒りが燃え上がる。剣を抜くにはまだ躊躇がある年齢の彼だが、言葉だけで押し切られる気もしなかった。
「放せ。彼は何もしてない」
乱暴な男が一歩出る。だがその瞬間、茂みの背後から細い影が滑り出た。短躯の影は軽業を見せ、瞬く間に敵の後ろに回ると、手早く縄を解く術を使った。彼の動きは早く、口元には得意げな笑みが漏れている。
「やれやれ、仲間をいじめるってのは古くてつまらない趣味だ」
少年は逃げ去った、残された二人は何が起きたのか理解しきれずに立ち尽くす。新参者は胸を張ってこちらを見た。瞳がいたずらっぽく光り、名を名乗る間もなく笑い声を上げる。
「俺はMik。盗みもするけど、追われるのはもっと楽しいんだぜ」
Harunは短く息を吐いた。助けたも同然の状況に、変に礼を期待するつもりはない。ただ、彼の旅は思わぬ波紋を呼んだ。
「俺はHarun。旅をする。話があれば――ついて来い」
Mikは肩をすくめ、興味深げにHarunを見た。旅人の眼差しが彼を引きつけたのだろう。だがMikの表情には、本当のところ仲間になるかどうかを試す軽い挑発が混じっている。
「ふん、面白そうだ。――まあ、とりあえず、しばらく付き合ってやるよ。食い物がうまけりゃ長居するかもな」
その瞬間、朝の海の向こうから低く響く鐘の音が届いた。Harunはふと地図の断片を触り、知らぬ紋章が指先に冷たく触れるのを感じた。風がまた一つ、彼の旅路を押し出す。
彼は知らなかった。港町の朝に立てた小さな決意が、やがて大陸の深い闇と光を引き寄せることを。仲間はまだ二人――Tamsinは約束を胸に、Mikは盗賊の軽口を忘れない。だが道は始まっていた。海の向こうで、何かが動いた。
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