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季節外れの花火
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夏の終わり、台風一過の澄んだ夕暮れ。海沿いの町を見下ろす小さな高台に、真琴は一人で立っていた。大学を卒業して地元の美術館で働き始めてから三年、毎日が淡々と過ぎていった。今日も仕事帰りに立ち寄ったのは、ここから見える海のきらめきと、幼い頃の風景に溶け込みたかったからだ。
背後で足音が近づいた。振り向くと、瑛斗が立っている。高校時代、真琴と隣同士で美術部の制作をよく一緒にした相手だ。卒業後、進路は別々になり、連絡は途絶えていた。瑛斗の顔は昔より落ち着いて見えたが、笑うと昔の無邪気さが顔を横切る。
「久しぶりだね、真琴。」
声は変わらず柔らかく、少しだけ照れくさそうだった。真琴の胸の奥に、忘れていた熱が湧き上がる。彼と過ごした日々は、無邪気な競作と互いの絵に対する照れ隠しの言葉で満ちていた。いくつもの夏を一緒に描き、けれど互いの気持ちを言葉にしないまま別れた記憶がふと痛む。
「ええ、久しぶり。広島にいるとは聞いてたけど、まさかここで会うなんて」
瑛斗は肩越しに町の方を見やり、小さく笑った。「地元で小さなギャラリーを始めたんだ。今日は片付けの途中で、海を見に来たところ。」
真琴はその言葉をかみしめる。知らせを聞いてから、彼のことを思い出すことが増えていた。作品に込められた線や色が、瑛斗らしい、と感じる瞬間がよくあった。彼の絵には、いつも風景が息づいている。言葉にならない親しみが、二人の間に静かに戻ってくる。
高台の風は、台風で洗われた空気を運んでくる。波の音が遠くで反響し、夕日は海に赤い筋を描いた。真琴はふと、バッグから小さなスケッチブックを取り出す。習慣で描き残したい衝動に駆られたのだ。
「今でも描いてるの?」
瑛斗の視線がスケッチブックに落ちる。真琴は頷き、描きかけの線を指でなぞった。そこには、海辺の崖に咲く名前の知らない小さな花が慎ましく描かれていた。彼女は高校時代に覚えた観察眼で、季節外れの花を見つけては絵にしていた。
「描き続けているって聞いて嬉しいよ」と瑛斗が言った。「ギャラリーは、地元の作家を集めて小さな展覧会を開いてる。真琴の絵を見てみたいと思って。」
真琴の心は跳ねた。見られることへの恥じらいと期待が混ざり合う。高校を出てから、人に見せるために描くことを遠ざけてしまった自分がいる。展示の申し出は、知らないうちに閉じていた扉の鍵をそっと押すようなものだった。
「でも、私のは……まだ自信がなくて」
瑛斗は軽く首を振った。「自信なんて、いつだって後からついてくる。最初は好きだから始める。それだけで十分だよ。」
その言葉は、真琴の胸に静かに落ちた。彼の目は真剣で、嘘が混じっていない。真琴は昔から、瑛斗の言葉に励まされることが多かった。照れ隠しに笑いながら、彼女は提案を受け入れることにした。
二週間後、真琴の小さな個展が開かれた。瑛斗のギャラリーは木の香りが温かく、窓から差し込む光が絵を優しく包んでいた。訪れた人の数は多くはないが、一枚一枚をじっと見つめる視線があった。真琴は緊張で手が震えそうになったが、瑛斗の存在がいつも支えてくれた。
展示の最終日、片付けの前に二人は海へ向かった。会場から少し歩くと、夕暮れが再び広がる。瑛斗は何か考え込むように波を見つめ、真琴は穏やかな気持ちで隣に立っていた。
「真琴、聞きたいことがあるんだ」と瑛斗が言った。「高校のとき、僕らはいつも一緒にいた。あの頃、君に言えなかったことがある。」
真琴の心はざわついた。予測は出来ていたが、言葉にされると現実の重みが増す。彼女は呼吸を整え、相手の顔を見た。
「僕はね、ずっと真琴のことを特別に思ってた。絵を見てると、そこに君がいる気がした。離れてからも、描くとき君のことを思い出すことが多かったんだ。」
真琴は一瞬、自分の胸の中にある長い沈黙を思い返した。言葉にならないまま流れた時間が、互いの距離を作ったのだと痛感する。瑛斗の言葉は、ゆっくりと温かい光となって彼女を満たした。
「私も、ずっと瑛斗のことを考えてた」と真琴は答えた。「あなたの絵や、言葉、ふとした瞬間の笑い方。言葉にできなかったけれど、特別だと感じてた。」
夕陽が二人の顔を橙色に染める。海風が二人の間の緊張を洗い流すように、そっと吹きつけた。瑛斗はぎこちなく笑いながら、ポケットから小さな紙を取り出した。それは、高校の美術室で二人が交換した落書き帳の切れ端だった。角は黄色くなり、線はかすれているが、その中の一言にはっきりと「一緒に描こう」と書かれていた。
「これ、ずっと持ってたんだ」と瑛斗が言った。「あの頃、言えなかったけど、今なら言える。真琴、一緒に絵を描き続けてくれないか。」
真琴の目に熱いものがこみ上げる。言葉にしなかった時間の重みが、一瞬で溶けるようだった。彼女はスケッチブックを胸に抱きしめ、頷いた。
「うん。一緒に描こう。」
その約束は、未来の約束でもあった。二人は海を見つめながら、これから共有する日々の小さな光景を思い描いた。展示の片付け、共同制作、時には口論もあるだろう。けれど互いが作品に向かい合うたびに、また一枚ずつ景色が増えていくと信じていた。
夏の終わり、季節外れの花火のように、彼らの関係は静かにだが確かに光を放った。海辺の風景はやがて秋の色を帯び、真琴と瑛斗の絵の中には、新しい線と色が混ざり合っていった。描き続けること、見つめ続けることが、二人にとっての恋の形になった。
窓辺に差し込む朝の光のように、日常の中にある小さな瞬間が二人を結びつける。言葉にできなかった時間はもはや過去となり、これからは互いの手元で生まれる線と色が、何より雄弁に彼らの心を語るのだった。
背後で足音が近づいた。振り向くと、瑛斗が立っている。高校時代、真琴と隣同士で美術部の制作をよく一緒にした相手だ。卒業後、進路は別々になり、連絡は途絶えていた。瑛斗の顔は昔より落ち着いて見えたが、笑うと昔の無邪気さが顔を横切る。
「久しぶりだね、真琴。」
声は変わらず柔らかく、少しだけ照れくさそうだった。真琴の胸の奥に、忘れていた熱が湧き上がる。彼と過ごした日々は、無邪気な競作と互いの絵に対する照れ隠しの言葉で満ちていた。いくつもの夏を一緒に描き、けれど互いの気持ちを言葉にしないまま別れた記憶がふと痛む。
「ええ、久しぶり。広島にいるとは聞いてたけど、まさかここで会うなんて」
瑛斗は肩越しに町の方を見やり、小さく笑った。「地元で小さなギャラリーを始めたんだ。今日は片付けの途中で、海を見に来たところ。」
真琴はその言葉をかみしめる。知らせを聞いてから、彼のことを思い出すことが増えていた。作品に込められた線や色が、瑛斗らしい、と感じる瞬間がよくあった。彼の絵には、いつも風景が息づいている。言葉にならない親しみが、二人の間に静かに戻ってくる。
高台の風は、台風で洗われた空気を運んでくる。波の音が遠くで反響し、夕日は海に赤い筋を描いた。真琴はふと、バッグから小さなスケッチブックを取り出す。習慣で描き残したい衝動に駆られたのだ。
「今でも描いてるの?」
瑛斗の視線がスケッチブックに落ちる。真琴は頷き、描きかけの線を指でなぞった。そこには、海辺の崖に咲く名前の知らない小さな花が慎ましく描かれていた。彼女は高校時代に覚えた観察眼で、季節外れの花を見つけては絵にしていた。
「描き続けているって聞いて嬉しいよ」と瑛斗が言った。「ギャラリーは、地元の作家を集めて小さな展覧会を開いてる。真琴の絵を見てみたいと思って。」
真琴の心は跳ねた。見られることへの恥じらいと期待が混ざり合う。高校を出てから、人に見せるために描くことを遠ざけてしまった自分がいる。展示の申し出は、知らないうちに閉じていた扉の鍵をそっと押すようなものだった。
「でも、私のは……まだ自信がなくて」
瑛斗は軽く首を振った。「自信なんて、いつだって後からついてくる。最初は好きだから始める。それだけで十分だよ。」
その言葉は、真琴の胸に静かに落ちた。彼の目は真剣で、嘘が混じっていない。真琴は昔から、瑛斗の言葉に励まされることが多かった。照れ隠しに笑いながら、彼女は提案を受け入れることにした。
二週間後、真琴の小さな個展が開かれた。瑛斗のギャラリーは木の香りが温かく、窓から差し込む光が絵を優しく包んでいた。訪れた人の数は多くはないが、一枚一枚をじっと見つめる視線があった。真琴は緊張で手が震えそうになったが、瑛斗の存在がいつも支えてくれた。
展示の最終日、片付けの前に二人は海へ向かった。会場から少し歩くと、夕暮れが再び広がる。瑛斗は何か考え込むように波を見つめ、真琴は穏やかな気持ちで隣に立っていた。
「真琴、聞きたいことがあるんだ」と瑛斗が言った。「高校のとき、僕らはいつも一緒にいた。あの頃、君に言えなかったことがある。」
真琴の心はざわついた。予測は出来ていたが、言葉にされると現実の重みが増す。彼女は呼吸を整え、相手の顔を見た。
「僕はね、ずっと真琴のことを特別に思ってた。絵を見てると、そこに君がいる気がした。離れてからも、描くとき君のことを思い出すことが多かったんだ。」
真琴は一瞬、自分の胸の中にある長い沈黙を思い返した。言葉にならないまま流れた時間が、互いの距離を作ったのだと痛感する。瑛斗の言葉は、ゆっくりと温かい光となって彼女を満たした。
「私も、ずっと瑛斗のことを考えてた」と真琴は答えた。「あなたの絵や、言葉、ふとした瞬間の笑い方。言葉にできなかったけれど、特別だと感じてた。」
夕陽が二人の顔を橙色に染める。海風が二人の間の緊張を洗い流すように、そっと吹きつけた。瑛斗はぎこちなく笑いながら、ポケットから小さな紙を取り出した。それは、高校の美術室で二人が交換した落書き帳の切れ端だった。角は黄色くなり、線はかすれているが、その中の一言にはっきりと「一緒に描こう」と書かれていた。
「これ、ずっと持ってたんだ」と瑛斗が言った。「あの頃、言えなかったけど、今なら言える。真琴、一緒に絵を描き続けてくれないか。」
真琴の目に熱いものがこみ上げる。言葉にしなかった時間の重みが、一瞬で溶けるようだった。彼女はスケッチブックを胸に抱きしめ、頷いた。
「うん。一緒に描こう。」
その約束は、未来の約束でもあった。二人は海を見つめながら、これから共有する日々の小さな光景を思い描いた。展示の片付け、共同制作、時には口論もあるだろう。けれど互いが作品に向かい合うたびに、また一枚ずつ景色が増えていくと信じていた。
夏の終わり、季節外れの花火のように、彼らの関係は静かにだが確かに光を放った。海辺の風景はやがて秋の色を帯び、真琴と瑛斗の絵の中には、新しい線と色が混ざり合っていった。描き続けること、見つめ続けることが、二人にとっての恋の形になった。
窓辺に差し込む朝の光のように、日常の中にある小さな瞬間が二人を結びつける。言葉にできなかった時間はもはや過去となり、これからは互いの手元で生まれる線と色が、何より雄弁に彼らの心を語るのだった。
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