八重

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真鶴

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真鶴に着いた時には、精も根も尽き果てていた。

身体は軋み、腹の虫は唸り、二人には・・ついさっきまでの不安と緊張の跡がくっきりと残っていた。

だが、そこには東京の喧騒も、組の影も届かなかった。

潮の匂いと、遠くに広がる低い山の稜線が、俺たちをゆっくりと落ち着かせた。

小さな宿屋で、俺は見張りの目を気にしながら最後の金で泊まりをした。

煎餅布団でもやっと落ち着いて寝れる安心と一汁一菜の飯。

八重は黙って食べ、時折こちらをちらりと見ては、ほっとしたように笑った。

その笑顔を見るだけで、俺の胸の中の固まりが少しずつ溶けていく気がした。

宿屋の婆さんは、流れ者ふたりを追い出そうともせずに、やたらと湯を沸かし、古い着物を引っ張り出して差し出してくれた。

夕方、外に出ると海は低く、橙に染まっていた。俺たちは手をつなぎ、ただ波音を聴きながら歩いた・・言葉は少なかった。

言葉にすると壊れてしまいそうなものを、お互い黙って抱きしめていたのだ。

それから俺たちは、深刻な逃避行の停泊地としてではなく、新しい暮らしを探すために少しずつ動き出した。

俺は手に職をつけるために職人仕事の見習いをし、昼は汗をかき、夜は字を読むようになった。

大学に戻ることは無かったが本を読む時間は心を落ち着かせてくれた。

八重は、昼は畑仕事や小さな商いの手伝いをして、夜は宿屋の手伝いをした。

入れ墨は消えるものではなかったけれど、町の人々は東京のそれよりもずっと寛容だった。

見下す視線も、聞き流してくれる人もいた。

月日はゆっくりと流れ、俺たち・・私達の暮らしは少しずつ形を取り始めた。

粗末だけれど屋根のある小さな家に・・二つの枕。 

冬には二人で一緒に炬燵の縁に座り、安物の茶碗に熱い茶を注ぎ合った。

ある日、八重がふと昔の約束のことを言った。

「お兄ちゃん、覚えてる?・・小指の約束」

俺は黙って八重の手を取った・・指先は昔よりも荒れているが、握る力は変わらなかった。

『忘れてないよ・・あの時の約束・・まだ有効だよ・・いや・・約束・・強い約束だよ」』

そう言うと八重は少し照れて、しかし目に涙を溜めて笑った。

二人で笑った・・笑いの中に、あの日の怖さも、逃げ出した夜も、全部混ざっているのが分かった・・でも、笑いの向こうに確かなものがある。

日々の小さな親切、見知らぬ人の微かな思いやり、夜に戻ってくる家の灯り・・それらが積み重なって、私たちを支えてくれた。

結婚は派手なものではなかった。

近所の神主と小さな食事、昔ながらの簡素な祝詞。

私たちは目立たぬように、しかし確かに「夫婦」として、公の場で互いを指し示した。

八重の背に残る牡丹の入れ墨は、消えることはなかった・・でも、私はそれを抱きしめ、八重は笑って頬を染めた。

誰かが見下すことがあっても、一日の終わりにぬくもりを分かち合ってくれる人がいる・・ただそれだけで世界は違って見えた。

年月が経ち、戦後の風景は少しずつ変わった。

大学の友人たちが戻ったようだ・・私には関係の無いことだった。

街には新しい店が出来た。

私はまた本を手に取り、時には学生気分で文章を書くこともあった。

だが、二人で過ごしている日々は決して色あせない。 

八重は時折、夜道で顔を上げて遠くを見つめることがあった・・私はそのたびに、彼女の過去が心のどこかで鋭く疼いていることを感じた。入れ墨はその証しであり、消えない痕跡であった。

ある冬の夕暮れ、僕たちは並んで浜辺に座り、海に落ちる赤い陽を見つめていた。

八重が小さな声で言った。

「私ね・・お兄ちゃんと来てよかった・・辛いことは忘れないけど、忘れたくもないの・・あの頃の私がいたから、今の私がいるのって思うの」

私は八重の手を強く握り返した・・言葉では伝えきれない安堵が胸を満たした。

『俺もだよ。あの夜に逃げて、八重とここに来られてよかった・・背中も・・全て八重自身も・・全部愛してる』

波がゆっくりと岸を洗い、遠くの灯がぽつぽつと灯った。街の喧噪も、組の影も、もう私たちの耳には届かない。

過去は消えないけれど、それが今の幸福を損なうものではないと、二人は分かっていた』

年月の重みが、二人の顔に小さな刻みを残していった。

時折、夜中に目を覚ましては、互いの呼吸を確かめ合う。

どこかに心の痛みを抱えたまま、それでも小さな台所で湯を沸かす・・そんな日常が、誰よりも深い幸せだと私は思った。

最後に、遠い夕焼けの中、私たちは並んで歩いた・・手をつなぎながら、静かに笑い合った。

過ぎ去った痛みは決して消えない。けれど、その痛みを抱えたままでも、人は幸せになれる。

私たちはそんなことを、毎日の寝床で確かめ合っている。

やがて夜が来て、窓の外には柔らかな星が瞬いた。

私は八重の髪をそっと撫で、その小さな手を握っる・・二人とも遥かな喪失を知っている。

だが同時に、目の前にある温もりを、誰よりも深く味わっていた。

それが私たちの・・ささやかで物悲しいが、確かなハッピーエンドだった。

~終~
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