あの日に戻りたい

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私は遺言に・・!

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『あの日に帰りたい』

人生で、何度その言葉を胸の中で反芻しただろう。

一度や二度では足りない。
五度、十度・・いや数えるのをやめた頃から、人はそれを「思い出」と呼ぶんだ。

「あの時、余計な一言さえ言わなければ」

「いや、本当は言うべき一言を、飲み込まなければ」

後悔は、いつも遅れてやって来る。

しかも厄介なことに、最も大切な瞬間ほど、冷たい冷蔵庫の奥にしまい込んだまま、当時は重要さにも気づかないでいた。

真剣に受け止めなかった言葉は、後から探しても、もう賞味期限がとっくに切れている。

突然だが、私は金持ちだ。
それも、口にすると場の空気が一段冷える程に。

年収は十億を超える。

働いていないわけではない。
ただ、亡くなった祖父から引き継いだ「不労所得」が、黙っていても増え続けるだけの話だ。

祖父は口うるさい人だった。

「金があるような振る舞いをするな」
「散漫になるな」
「穏やかに、慎ましく生きろ」

そして最後に、
「結婚しろ、家庭を持て、ただし、人は慎重に選べ」

「金の匂いを嗅いだ途端、豹変する人間を私は山ほど見てきた」

その言葉は、今も私の背中に重く乗っている。

私は祖父の遺言を、ほぼ完璧に守っている。

家賃六万円の二DK。
中小企業の事務職。
月給二十五万円。
年二回のボーナス。

三十八歳。
鏡に映る自分に、「少し疲れているな」と声をかける年齢だ。

恋愛も、それなりにした。
ただ、思い出すのはいつも、
うまくいかなかったあの日の場面ばかりだ。

金も時間もある。

だが・・!
あの日に戻れる切符だけは、どんな資産があってもでも買えない。

彼女と出会ったのは、会社の給湯室だった。

電子レンジの前で、彼女は弁当を温め!

私はなぜか二度続けて「温めすぎ」を押していた。

「あのぉ~・・それ・・爆発しますよ?」

そう言って笑った彼女を見た瞬間、私は負けていたのだと思う。

彼女は三つ下。
派手でも地味でもない。
会社に一人いると、空気が柔らぐタイプの人だった。

昼休み・・!
靴下が洗濯機から消える話をして笑った。
どうでもいい話が、なぜか心に残った。

私は、自分の正体を隠していた。

年収二十五万の男として。
家賃六万の住人として。

祖父の遺言を、
恋愛にまで適用して・・守っていた。

ある日、彼女が言った。
「・・今度、引っ越そうと思ってて」

「どこへ?」

「今より、少し広いところ・・
・・・一人だと・・狭いので・・少し寂しくて」

気づいていた。
いや、気づいていたからこそ、逃げた。

「広い部屋は、掃除が大変ですよ」

人生三大・余計な一言。

彼女は黙り!
勇気を振り絞るように口を開いた。

「・・あの・・私・・・」

心臓が鳴った。
祖父の声が蘇った。

私は慎重さを、鈍さにすり替えた。

「すみません、次の会議が・・ありまして」

そう言って、給湯室から逃げた。

彼女の言葉から、人生の分岐点だった。

翌週、彼女は異動した。

今でも、はっきり覚えている。
蛍光灯が一本だけの暗い給湯室に電子レンジの「チン」という音が、やけに大きく響いたこと。

「私、ここにいると安心するんです」

彼女は温めたカップを見つめていた。

その声は少し震えていたような?

本気の人ほど、声を荒げない。
この年になって、ようやく分かる。

「・・それは良かったですね」

彼女は小さく笑い、首をすくめた。

あれは、諦める人の顔だった。

翌朝、彼女の机は空だった。

そして私の机の引き出しに・・
「おつかれさまでした」と書かれた付箋が一枚残っていた。

それ以来・・私は彼女の人生に登場していない。

祖父の遺言は守った。
慎ましく、穏やかに。
金も、心も、見せずに。

完璧だ・・いや・・!

夜になると、部屋の静けさが、重い。

広い部屋はいらない。
高級車も時計も欲しくない。

ただ!
あの給湯室に、一緒に立つ人が、もういない。

それだけだ。

もし、あの時、
一歩だけ踏み出していたら。

結果は同じだったかもしれない。

それでも!
私は彼女の人生に、
「何もなかった人」ではなく、
「少しだけ大切だった人」として、残れたかもしれない。

金は増える。
だが、人の気持ちは待ってくれない。

今日も私は、
家賃六万の二DKで、
誰も来ない給湯室の前に立ち止まる。

あの日、
彼女が言いかけた言葉は、
今も一度も温められないまま、
冷えたまま、胸の奥にある。

それが、私がどれだけ金を持っていても、一生、取り戻せないものだった。

ー了ー
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