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溺愛道の教え、その2 想い人に親近感を抱いてもらえるよう努めよ

溺愛道の教え、その2 想い人に親近感を抱いてもらえるよう努めよ⑤

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「二十キロくらいチョロいもんねえ、だ」

 ハルトは櫂をひったくると、ひらりと船べりを跨いだ。ところが舳先へさき側のいわば左舷から右舷へ、同じくとものそこに渡された二枚の板の間で立ち尽くす。
 ひと口に漕ぐといってもブランコを漕ぐのとは勝手が違う。馬と異なり意思の疎通ができないものを、どう操れば思い通りに動かせるのだ?

「まごつきようから見て、まったくの初めてらしいな。では前方の板に腰かけなさい、櫂さばきを手ほどきしてやろう」

 しぶしぶ指南役を務めるふうを装って、イスキアはもやい綱をほどいた。内心では願ったり叶ったりの展開に鼻歌が出かねないのをからくも抑えて、後方の板に移った。

 小舟が揺れたはずみに、ハルトは尻餅をつく形で横板におさまった。手ほどきして、という恩着せがましい響きに神経を逆なでされて、いっそのこと櫂をへし折ってしまいたい衝動に駆られる。だいたい小舟の漕ぎ方を教えていただくも何も、なんとしてでも今日中に草原めざして出発するのだから無駄じゃないか。
 船着き場に視線を流すと、杭に止まった蝶がおいでおいでをするようにはねを広げて、たたんだ。ふと名案が浮かんだ。用を足してくると偽って小径に駆け戻り、島のどこかに隠れておいて、イスキアを送り迎えする快速艇が錨をあげる瞬間を狙って、こっそり乗り込む。本土側の港に着きししだい、一路ふるさとへ!
 衣ずれが鼓膜を震わせ、羊の群れは幻と消えた。イスキアが真後ろにいて、その存在を意識すると腰がもぞつく。売られた喧嘩は買う主義といえ、まんまと思う壷にはまって、おれの馬鹿馬鹿。だが今さら櫂を突っ返すと、怖じ気づいたがゆえと誤解されるかもしれなくて、それでは沽券にかかわる。
 振り向き、精一杯にこやかに皮肉った。

「領主さま、じきじきに指導してくださるとは身に余る光栄です」

「ざっくばらんに〝イスキア〟と呼ぶがよい、許す」

 よし、課題をひとつ片づけた。イスキアが心の中でそう快哉を叫んだなんて、ハルトはもちろん想像もしなかった。櫂を垂直に水路に突き入れると、

「櫂は躰と平行にへその位置で構え、8の字を描くように水を搔く」

 背中にくっつかれて、正しい構え方とやらに修正がほどこされる。

「暑苦しい、気安くさわるな」

 できるかぎり前にずれて櫂を握り直すと、片方のヘラ状の部分で水面を撫でてみた。ぎこちないなりに、言われた通り今度は反対側のヘラを浅く沈めて同じ動きを繰り返すと、すうっと小舟がすべりだした。

「わっ、漕げた」

「その調子だ。あとは両の手を均等に動かすよう努めることだ。でないと、くるくる回るばかりで進まない。そなたは筋がいい」

「お褒めにあずかり恐縮です」

 棒読みで応じるのとは裏腹、ついつい頬がゆるむ。許婚ごっこは御免でも、本来は話しかけるのさえ恐れ多い領主に反抗しっぱなし。とっくの昔に不敬を働いたかどで、牢獄にぶち込まれていてもおかしくない。
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