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溺愛道の教え、その7 想い人を不安にさせる勿れ

溺愛道の教え、その7 想い人を不安にさせる勿れ④

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 いつしか湖上をはしる船の数が増えて、ゆるやかな弧を描く本土側の湖が前方に現れた。やがてみやこの上空に差しかかると、子どもたちが物珍しさから熱気球をこぞって追いかけてくる。
 いわば軟禁状態に置かれているとはいえ、ハルトは眼下の光景に魅了された。ここが近隣諸国の中でもっとも栄えている、というワシュリ領国の首都。
 放牧地に勢ぞろいした羊の数より大勢の人と馬車が通りを行き交い、なんて活気にあふれているんだろう! あちらには織物、こちらには金物を陳列した商店。広場には屋台がぎっしりと並び、色とりどりののぼりがはためくさまは花畑が広がっているようだ。煙突の煤払い屋が、屋根の上から柄の長いブラシを振ってよこした──。
 ハルトはぶんぶんと手を振り返しながら、思った。イスキアとつれ立って街じゅうの店を覗いて回るのは、きっと楽しい。そぞろ歩きをしてみたいと、ねだってみたら二つ返事でつき合ってくれるだろうか。

「あれ、おっかしいな……」

 首を右にかしげ、左にかしげた。✕✕をするのにイスキアとふたりで、が前提である必要がどこにあるのだろう。イスキア曰く十年ぶりに再会を果たした最初のころは、草原の中でその一角だけ荒れ果てているように目障りだった相手が、だんだん自分の中で重要な地位を占めつつある証拠なのかもしれない。
 喩えるならそれは、夜が明けても表が静まり返っているのを不思議に思って窓を開けると、しんしんと雪が降り積もっていたかのごとく静かな変わりようだ。
 ハルトは湖を振り返ると、波のまにまに快速艇の姿を捜した。つれ去られる決定的瞬間を目撃したからには、イスキアはさぞかしやきもきしているはず。
 そうと誓ってくれたとおり迎えにきてくれたあかつきには、熱烈なチュウで「ありがとう」を伝える。黒山の人だかりの中でも、絶対に。

「ぶつぶつ独り言を言って暗いなあ。ほらほら幼なじみくん、慰めておやりよ。ほだされてもらえるよう、がんばって口説きたまえ」

「うっす。なあ、本当に駆け落ちしようぜ。あくどい許婚なんかより俺のほうが断然、おまえを幸せにしてやれるって。夜のアレにしたって、おまえが満足するまで何発でも」

 スケベったらしく腰をかくかく振るのに、干し芋が詰まった布袋を投げつけて返す。ユキマサとは裸んぼうでじゃれ合って育った仲だが、兄貴分以上でも以下でもない。
 第一、今の自分は半分人妻……もとい人夫ひとづまも同然。不貞を働くのはイスキアに対する最大の裏切り行為で、彼の顔に泥を塗ることがあれば自分で自分を許せない。
 庶民の住宅街といった雰囲気を漂わせる、丸屋根がひしめくあたりを通過した。川を挟んだ界隈にはお屋敷がでん! でん! と在り、とりわけ豪壮な石造りの邸宅が目的地だ。
 ジリアンがバルブを閉じると、気球に温めた空気を送り込む装置が止まった。ユキマサがゴンドラの縁に結わえつけた砂袋をせっせと投げ下ろし、指示されて、ハルトはしぶしぶ索縄をたぐり寄せた。
 芝生を敷き詰めた庭に着陸したものの、ドタバタ喜劇の様相を呈する。浜辺に打ち上げられたクラゲさながら、へにゃんとなった気球がゴンドラにかぶさってきた。

「幼なじみくん、僕の上から即刻どくのだ! 無駄に重い、減量するのだ、つぶれるう」

「すんません、縄がこんがらがっちまって」

 ジリアンとユキマサは知恵の輪を抜き離すようにもがき、だが、かえって気球にくるまれる形になって団子状に転げ回る。
 かたやハルトはするする這い出すと、豪邸を振り仰いで目をぱちくりさせた。

「ここ、どこ? 誰の家?」

 港の方角は、この屋敷でもキュウリの蔓を絡ませたアーチのほうなのか。それとも二頭立ての馬車が折りしも走り去ったほうなのか。ともあれ港に先乗りしておけば、快速艇が到着してイスキアが上陸ししだい一緒に街を散策できる。ならば行動あるのみ。
 建物の向こうへ延びる小径こみちに沿って歩いていけば、門なり、跳び越えられる塀に行き当たるはず。
 早速そちらへ向かいかけた矢先、庭に面したガラス戸が開いて妙齢の女性が現れいでた。水妖族のアネスがこの場に居合わせていれば、

「うひゃあ、モノホンの巨乳っす、ぼいんぼいんっすね」

 尾ひれもどきの下肢をばたばたさせること請け合いの、メリハリの利いた躰の線を強調するドレスが夕映えの空のもとでひときわ華やかだ。赤銅色しゃくどういろの髪が豊かに波打ち、ちんまりと帽子を留めつけている。
 イスキアのそれとついをなす意匠の、金細工の帽子をツムジに。
 おそろいの品は、すごおく仲よしの印。そう思ったとたんムカムカしだして、ハルトは鳩尾みぞおちをさすった。変なの、故郷の村を発って小島へ向かう三日三晩、馬車に揺られどおしの旅はへっちゃらだったのに、熱気球には酔う体質だったのかしらん?
 くだんの美女は、かかとの高い靴で気球を踏みにじった。

「ジリアン、あなたが秘密兵器とうそぶいて作らせたのが、この薄汚い袋なのかしら。お笑い種ね、紙くずのほうがマシだわよ」

「これはこれはエレノア嬢、おん自ら出迎えてくださるとは恐悦至極。これ、このとおり、ご要望の仔犬を捕獲してまいりました」

「遅かったこと、待ちくたびれてよ」

「なかなか仔犬がうろうろしないため、いささか予定が狂いましてね。お許しを」

 ジリアンは、エレノアの足下にうやうやしくひざまずいてみせた。
 仔犬は暗号の一種で、大のおとなのくせしてスパイごっこでも始めたのだろうか。ハルトは芝居がかったやり取りを小声で皮肉った。例の金細工が挑発的にきらめくと一段とムカムカして、くるりと背を向けた。

「えっと……ジリアンさん? 面白いものに乗せてくれて、ありがと。おれ、島に帰るし、ユキマサも村に帰りなよ、元気でね」

「行き先は島でも村でもない、愛の逃避行に、いざ出発ーっ!」

「おれは人夫ひとづま(仮)、ふざけるな、離せ!」

 なかば羽交い絞めにするふうに抱きつかれ、ジタバタしているところをジリアンが咳払いで遮った。

「紹介しよう。こちらの臈長ろうたけた御方は、宰相の任にあたるハース氏の愛娘にして才媛の誉れ高いエレノア嬢」
 
 小型版のベレー帽に触れてひと呼吸おくと、ファンファーレを奏でるふうに声を張った。

「我が親愛なる従兄殿、イスキアの元恋人だ」
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