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第二話:灰色の公爵
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王宮のボールルームは、光と音の洪水だった。天井のシャンデリアは砕け散ったダイヤモンドのように輝き、楽団が奏でる優雅なワルツが、着飾った貴族たちの楽しげな喧騒と溶け合っている。
そのすべてが、アークライト・グレイフィールド公爵の目には、ただひどく退屈な濃淡の違う灰色の染みにしか映らなかった。
「あれがアークライト公爵様……相変わらず、お美しいけれど、氷のようね」
「声をかけた令嬢は、皆一言で退けられたそうよ」
「無理もない。あの方は英雄だが、その代償に感情を失われたのだから」
壁際の柱に寄りかかって立つ彼の耳に、遠巻きにする貴族たちの囁き声が届く。だが、その声も、意味を持たない雑音のように彼の意識を通り過ぎていくだけ。
強大な魔力で王国を滅亡の淵から救ったあの日以来、アークライトの世界から色は消えた。令嬢たちの華やかなドレスも、豪勢な料理も、窓の外に広がる王都の夜景も、すべてが古いモノクロームの写真のように色褪せている。
それと同時に、彼の心からも感情は抜け落ちた。喜びも、怒りも、悲しみも。ただ、深い静寂と、すべてに対する無関心だけが、灰色の世界を満たしていた。
(また、同じ光景か)
社交は義務だ。
英雄として、公爵として、この場にいることが求められている。彼はグラスの中身(おそらく上質な葡萄酒だろうが、彼にはただの苦い水としか感じられない)を無感動に喉へ流し込み、いつこの場を抜け出すかだけを考えていた。
その時だった。
「ごきげんよう、アークライト公爵様」
鈴を転がすような、しかし計算され尽くした甘い声が、彼の思考を遮った。視線を向けると、燃えるような真紅のドレス――彼の目には濃い灰色に見える――をまとった令嬢が、自信に満ちた笑みを浮かべて立っていた。ハノーヴァー子爵家の、セシリア。彼女のような女が何を求めて近づいてくるかなど、分かりきっている。
「……何か用か」
「まあ、冷たいお方。せっかくの夜会ですもの、少しお話し相手になっていただきたくて」
セシリアはそう言うと、持っていた扇を優雅に広げてみせた。
アークライトはいつものように一言で追い払おうと口を開きかけ――そして、動きを止めた。
彼の灰色だけの世界で、ありえないことが起きた。
セシリアが持つ扇。その縁に施された刺繍だけが、まるで暗闇に灯る星々のように、淡く、清らかな銀色の光を放っていたのだ。
(光……? 馬鹿な、色のないこの世界で、光など)
それは幻覚ではない。チカチカと瞬くような、それでいて穏やかな光。その光を見つめていると、凍てついていた心の湖に、小さな石が投げ込まれたかのような、微かな波紋が広がった。
何年も感じたことのない、ほんのわずかな心の揺らぎ。それは、「興味」という名の、忘れかけていた感情の欠片だった。
彼は無意識に、その光へと手を伸ばしかけていた。
セシリアは、アークライトの視線が自分の扇に釘付けになっていることに気づき、得意満面に微笑む。
作戦は成功した、と彼女は確信していた。
「公爵様? この扇、お気に召しましたか? わたくしが心を込めて刺繍した、とっておきなのですわ」
女の自惚れた声が、やけに大きく聞こえた。だが、今の彼にはどうでもよかった。
アークライトは、数年ぶりに自らの意志で、目の前の人間に問いかけていた。その声は、自分でも驚くほど、わずかに熱を帯びていた。
「……その扇を、こちらへ」
そのすべてが、アークライト・グレイフィールド公爵の目には、ただひどく退屈な濃淡の違う灰色の染みにしか映らなかった。
「あれがアークライト公爵様……相変わらず、お美しいけれど、氷のようね」
「声をかけた令嬢は、皆一言で退けられたそうよ」
「無理もない。あの方は英雄だが、その代償に感情を失われたのだから」
壁際の柱に寄りかかって立つ彼の耳に、遠巻きにする貴族たちの囁き声が届く。だが、その声も、意味を持たない雑音のように彼の意識を通り過ぎていくだけ。
強大な魔力で王国を滅亡の淵から救ったあの日以来、アークライトの世界から色は消えた。令嬢たちの華やかなドレスも、豪勢な料理も、窓の外に広がる王都の夜景も、すべてが古いモノクロームの写真のように色褪せている。
それと同時に、彼の心からも感情は抜け落ちた。喜びも、怒りも、悲しみも。ただ、深い静寂と、すべてに対する無関心だけが、灰色の世界を満たしていた。
(また、同じ光景か)
社交は義務だ。
英雄として、公爵として、この場にいることが求められている。彼はグラスの中身(おそらく上質な葡萄酒だろうが、彼にはただの苦い水としか感じられない)を無感動に喉へ流し込み、いつこの場を抜け出すかだけを考えていた。
その時だった。
「ごきげんよう、アークライト公爵様」
鈴を転がすような、しかし計算され尽くした甘い声が、彼の思考を遮った。視線を向けると、燃えるような真紅のドレス――彼の目には濃い灰色に見える――をまとった令嬢が、自信に満ちた笑みを浮かべて立っていた。ハノーヴァー子爵家の、セシリア。彼女のような女が何を求めて近づいてくるかなど、分かりきっている。
「……何か用か」
「まあ、冷たいお方。せっかくの夜会ですもの、少しお話し相手になっていただきたくて」
セシリアはそう言うと、持っていた扇を優雅に広げてみせた。
アークライトはいつものように一言で追い払おうと口を開きかけ――そして、動きを止めた。
彼の灰色だけの世界で、ありえないことが起きた。
セシリアが持つ扇。その縁に施された刺繍だけが、まるで暗闇に灯る星々のように、淡く、清らかな銀色の光を放っていたのだ。
(光……? 馬鹿な、色のないこの世界で、光など)
それは幻覚ではない。チカチカと瞬くような、それでいて穏やかな光。その光を見つめていると、凍てついていた心の湖に、小さな石が投げ込まれたかのような、微かな波紋が広がった。
何年も感じたことのない、ほんのわずかな心の揺らぎ。それは、「興味」という名の、忘れかけていた感情の欠片だった。
彼は無意識に、その光へと手を伸ばしかけていた。
セシリアは、アークライトの視線が自分の扇に釘付けになっていることに気づき、得意満面に微笑む。
作戦は成功した、と彼女は確信していた。
「公爵様? この扇、お気に召しましたか? わたくしが心を込めて刺繍した、とっておきなのですわ」
女の自惚れた声が、やけに大きく聞こえた。だが、今の彼にはどうでもよかった。
アークライトは、数年ぶりに自らの意志で、目の前の人間に問いかけていた。その声は、自分でも驚くほど、わずかに熱を帯びていた。
「……その扇を、こちらへ」
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