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第四十三話:毒の花、蜜の罠
大図書館での一件から一夜が明けた。私の執務室は、どこかぎこちない、しかし決して不快ではない沈黙に包まれていた。
目の前で書類に目を通すアレクシスの視線が、時折ちらりと私に向けられ、目が合うと慌てたように逸らされる。昨夜の彼の不器用な嫉妬は、私たちの間にあった「同志」という透明な壁に、初めて人間らしい温かみのあるひびを入れていた。
(古代のカタパルト、ね……)
思い出して、思わず笑みがこぼれそうになるのを必死にこらえる。彼が、帝国の絶対君主である前に、一人の男性なのだと、これほど強く意識したことはなかった。
そんな穏やかな変化の裏で、後宮の最も暗く、冷たい場所で、一つの毒牙が研がれていることを、私はまだ知らなかった。
北の離宮。
元Sランク妃イザベラは、もはや鏡を見ることさえやめていた。そこに映る、嫉妬にやつれた自分の顔を見るのが耐えられなかったからだ。彼女の心を満たすのは、ただ一つ。私、リディア・バーデンへの、骨の髄まで染み込んだ憎しみだけだった。
「……チャンスは、今しかない」
ジュリアン王子の来訪と、彼が私に向ける特別な視線。そして、それを苦々しく見つめる皇帝の姿。イザベラは、この数日間、息を殺してその全てを観察していた。
彼女は、かつて自分が最も信頼していた侍女を密かに呼び寄せた。後宮制度の解体後も、彼女への忠誠心からこの離宮に残り続けていた、数少ない一人だ。
「マリ。お前にしか頼めないことがある」
イザベラは、自分の持てる限りの宝飾品が入った小袋を侍女に手渡した。
「これを使い、ソラリスの使節団の者に接触なさい。そして、こう伝えるのです。『我が主、イザベラ様は、王子殿下の帝都での成功を確実にするための、最も価値ある情報をお持ちです』と」
マリは、主の瞳に宿る、狂気にも似た光に一瞬怯んだが、静かに頷き、闇の中へと消えていった。
その日の深夜。
後宮の庭園、今は訪れる者もいない、忘れられた東屋で、密会は行われた。
現れたのは、ジュリアン王子の腹心であり、彼の影とも呼ばれる壮年の側近だった。
「……して、その『価値ある情報』とは?」
側近の冷たい声に、イザベラは嘲るような笑みを浮かべた。
「あなた方の王子が狙っているのは、リディア・バーデン。そして、彼女を通してこの帝国を内側から揺さぶること。違いますか?」
「……」
「あの女は、一見すると完璧です。ですが、完璧なものほど、脆い一面があるものよ。あの女の最大の弱点……それは、自分が『恋』というものを知らないことです」
イザベラは、確信を持って続けた。
「皇帝陛下は、今、生まれて初めての嫉妬に戸惑っておられる。そしてリディアは、その感情の意味すら理解できていない。この二人の心の隙間こそが、あなた方が突くべき最大の弱点。わたくしには、その隙間を、修復不可能な亀裂へと広げるための、無数の手立てがございますわ」
彼女は、後宮の人間関係、私の行動パターン、そしてアレクシスが最もプライドを傷つけられるであろう言葉まで、毒の蜜を滴らせるように語った。
側近は、その全てを黙って聞いていたが、やがて満足げに頷いた。
「見返りは、何だ」
「わたくしを、この屈辱の牢獄から出してくださること。そして、ジュリアン王子妃とは言わないまでも、ソラリスで、それに準ずる地位をお約束いただきたい」
それは、国家反逆罪にも等しい、あまりにも大胆な取引だった。
側近は、しばらくイザベラを値踏みするように見つめていたが、やがてその口元に、冷たい笑みを浮かべた。
「……王子は、あなたの『協力』に、大いに感謝されることでしょう」
取引は、成立した。
イザベラは、闇に紛れて自室に戻ると、震える手で窓を開けた。遠くに見える、皇帝の執務室と、その隣のリディアの執務室の灯り。
そこにいるはずの二人を思い浮かべ、彼女は静かに、しかし深く、笑った。
「見ていなさい、リディア・バーデン。あなたの築き上げたその全てを、わたくしがこの手で、砂上の楼閣のように崩れさせてあげるわ……」
華やかな帝都の夜の裏側で、甘美な顔をした敵と、忘れられた女の怨念が結びついた。
帝国の未来を揺るがす、最も危険な毒の蜘蛛の巣が、その最初の一本の糸を、静かに張り巡らせ始めていた。
目の前で書類に目を通すアレクシスの視線が、時折ちらりと私に向けられ、目が合うと慌てたように逸らされる。昨夜の彼の不器用な嫉妬は、私たちの間にあった「同志」という透明な壁に、初めて人間らしい温かみのあるひびを入れていた。
(古代のカタパルト、ね……)
思い出して、思わず笑みがこぼれそうになるのを必死にこらえる。彼が、帝国の絶対君主である前に、一人の男性なのだと、これほど強く意識したことはなかった。
そんな穏やかな変化の裏で、後宮の最も暗く、冷たい場所で、一つの毒牙が研がれていることを、私はまだ知らなかった。
北の離宮。
元Sランク妃イザベラは、もはや鏡を見ることさえやめていた。そこに映る、嫉妬にやつれた自分の顔を見るのが耐えられなかったからだ。彼女の心を満たすのは、ただ一つ。私、リディア・バーデンへの、骨の髄まで染み込んだ憎しみだけだった。
「……チャンスは、今しかない」
ジュリアン王子の来訪と、彼が私に向ける特別な視線。そして、それを苦々しく見つめる皇帝の姿。イザベラは、この数日間、息を殺してその全てを観察していた。
彼女は、かつて自分が最も信頼していた侍女を密かに呼び寄せた。後宮制度の解体後も、彼女への忠誠心からこの離宮に残り続けていた、数少ない一人だ。
「マリ。お前にしか頼めないことがある」
イザベラは、自分の持てる限りの宝飾品が入った小袋を侍女に手渡した。
「これを使い、ソラリスの使節団の者に接触なさい。そして、こう伝えるのです。『我が主、イザベラ様は、王子殿下の帝都での成功を確実にするための、最も価値ある情報をお持ちです』と」
マリは、主の瞳に宿る、狂気にも似た光に一瞬怯んだが、静かに頷き、闇の中へと消えていった。
その日の深夜。
後宮の庭園、今は訪れる者もいない、忘れられた東屋で、密会は行われた。
現れたのは、ジュリアン王子の腹心であり、彼の影とも呼ばれる壮年の側近だった。
「……して、その『価値ある情報』とは?」
側近の冷たい声に、イザベラは嘲るような笑みを浮かべた。
「あなた方の王子が狙っているのは、リディア・バーデン。そして、彼女を通してこの帝国を内側から揺さぶること。違いますか?」
「……」
「あの女は、一見すると完璧です。ですが、完璧なものほど、脆い一面があるものよ。あの女の最大の弱点……それは、自分が『恋』というものを知らないことです」
イザベラは、確信を持って続けた。
「皇帝陛下は、今、生まれて初めての嫉妬に戸惑っておられる。そしてリディアは、その感情の意味すら理解できていない。この二人の心の隙間こそが、あなた方が突くべき最大の弱点。わたくしには、その隙間を、修復不可能な亀裂へと広げるための、無数の手立てがございますわ」
彼女は、後宮の人間関係、私の行動パターン、そしてアレクシスが最もプライドを傷つけられるであろう言葉まで、毒の蜜を滴らせるように語った。
側近は、その全てを黙って聞いていたが、やがて満足げに頷いた。
「見返りは、何だ」
「わたくしを、この屈辱の牢獄から出してくださること。そして、ジュリアン王子妃とは言わないまでも、ソラリスで、それに準ずる地位をお約束いただきたい」
それは、国家反逆罪にも等しい、あまりにも大胆な取引だった。
側近は、しばらくイザベラを値踏みするように見つめていたが、やがてその口元に、冷たい笑みを浮かべた。
「……王子は、あなたの『協力』に、大いに感謝されることでしょう」
取引は、成立した。
イザベラは、闇に紛れて自室に戻ると、震える手で窓を開けた。遠くに見える、皇帝の執務室と、その隣のリディアの執務室の灯り。
そこにいるはずの二人を思い浮かべ、彼女は静かに、しかし深く、笑った。
「見ていなさい、リディア・バーデン。あなたの築き上げたその全てを、わたくしがこの手で、砂上の楼閣のように崩れさせてあげるわ……」
華やかな帝都の夜の裏側で、甘美な顔をした敵と、忘れられた女の怨念が結びついた。
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