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第六十話(新章):幸せな朝食と、招かれざる予言者
あれから、五年の月日が流れた。
帝都の朝は、今日も穏やかな光に満ちている。
「あーん、してください。母様」
「はい、あーん。……ふふ、レオ、お口についてもったいないことになってますよ」
朝のダイニングルームに、愛らしい笑い声が響く。
私の膝の上には、四歳になったばかりの息子、レオがちょこんと座っていた。アレクシス譲りの金色の髪と、私と同じ緑の瞳を持つ、好奇心旺盛な皇子様だ。
彼は、今朝焼き上がったばかりのパン――私たちが苦労して定着させたロスマリン小麦のパンだ――を、リスのように頬張っている。
「リディア、私の分はどうなっているのだ?」
正面に座るアレクシスが、わざとらしく不満げな声を上げた。
かつて「氷の皇帝」と呼ばれた厳格な面影は、家族の前では完全に鳴りを潜めている。今の彼は、妻と息子に甘くて仕方がない、ただの親馬鹿な夫だ。
「まあ、アレクシスったら。レオと張り合わないでくださいな」
「む。……張り合ってなどいない。ただ、君の手で食べさせてもらわないと、どうも一日の活力が湧かない気がしてな」
「はいはい」
私は苦笑しながら、ちぎったパンに特製のハーブジャムを塗り、彼の方へ差し出した。アレクシスはそれを嬉しそうに受け入れると、私の指先にそっと口づけを落とす。
「……美味しい。やはり、君のくれる糧は、私にとって最上のものだ」
甘い。パンではなく、空気が。
侍女たちが微笑ましそうに見守る中、私は少し顔を赤らめる。
後宮の片隅、最下位の妃として始まった私の物語は、今、これ以上ないほどの幸せな日常の中にあった。自分たちの手で耕した畑、信頼できる仲間たち、そして愛する家族。
この穏やかな日々が、永遠に続くと信じていた。
――そう、あの「招かれざる客」が現れるまでは。
朝食の後、私たちは執務室へと向かった。
廊下を歩いていると、不意に、衛兵たちの制止する声と、甲高い女性の悲鳴のような声が聞こえてきた。
「通して! お願い、通してくださらない!? 陛下にお伝えしなくてはならないの! 帝国の未来に関わることなのよ!」
「ならん! 身元も定かでない者を、皇帝陛下の御前になど……!」
騒ぎの方へ目を向けると、そこには一人の少女がいた。
歳は十七、八だろうか。色素の薄い桃色の髪に、涙に濡れた大きな瞳。儚げで、守ってあげたくなるような可憐な容姿をしている。身なりは良いが、どこか古めかしいデザインのドレスを着ていた。
彼女は、私たち……いいえ、アレクシスの姿を認めると、衛兵の手を振りほどき、転がるように駆け寄ってきた。
「陛下……! ああ、やっと、やっとお会いできました……!」
「何者だ。控えよ」
アレクシスが私とレオを背に庇い、鋭い声を発する。
しかし、少女は怯むどころか、その場に膝をつき、両手を組んで祈るように叫んだ。
「私です! お忘れですか、ミイナです! バーデン家の分家の、ミイナ・フォン・ローゼンです!」
バーデン家……? 私の実家の?
確かに、遠縁にそのような名の娘がいたような気もするが、面識はほとんどない。
「陛下、どうか聞いてください! 私は……私は、神より『啓示』を授かりました。やがて訪れる、帝国の絶望的な破滅について!」
「……は?」
アレクシスが、怪訝そうに眉をひそめる。
少女ミイナは、震える指先で、まっすぐに私を指さした。その瞳には、恐怖と、そして奇妙なほどの敵意が宿っていた。
「その女……リディア・バーデンこそが、帝国を破滅へと導く『稀代の悪女』なのです! 彼女の偽りの知識が、やがて土を腐らせ、民を飢えさせ、この国を滅ぼすのです! 私はその破滅を食い止めるために、神に選ばれ、真なる『叡智』を授けられたのです!」
その場にいた全員が、息を呑んだ。
あまりにも荒唐無稽な言いがかり。私の功績を知らぬ者はいない。本来なら、不敬罪で即座に捕らえられるべき発言だ。
だが、彼女のあまりにも真に迫った必死な形相が、場の空気を凍りつかせていた。
「……リディアが、悪女だと?」
アレクシスの声が、氷点下まで下がる。
彼は冷ややかな瞳でミイナを見下ろし、吐き捨てるように言った。
「戯言も大概にせよ。彼女がいなければ、今の帝国の繁栄はない。彼女こそが、我が国の至宝であり、私の最愛の妻だ。……衛兵、この狂女をつまみ出せ。二度と私の視界に入れるな」
アレクシスの一刀両断の拒絶。
当然だ。私たちの絆は、そんな妄言で揺らぐほど脆くはない。
衛兵たちがミイナの両脇を抱え、引きずり出そうとする。
しかし、ミイナは抵抗もせず、ただ不気味なほど静かな笑みを浮かべて、こう言い残した。
「……信じられないのも無理はありませんわ。でも、今夜。今夜、帝都の西で大きな地震が起きます。それが『始まりの合図』です」
「なんですって?」
「それが当たったら、信じてくださいますね? 神に選ばれた運命の相手は、悪女リディアではなく……この私、ミイナなのだと」
彼女は恍惚とした表情でアレクシスを見つめ、そのまま連行されていった。
あとに残されたのは、奇妙な静寂と、胸のざわつきだけ。
「……気にするな、リディア。頭のおかしい娘だ」
アレクシスは私の肩を抱き、優しく言った。
私も、努めて明るく頷き返す。
そう、ただの妄言。気にすることなんてない。
――しかし、その夜。
私たちは知ることになる。
ゴゴゴゴゴ……ッ!!
就寝前の静かな時間を切り裂いて、帝都の大地が、激しく揺れたのだ。
窓の外、西の方角から、鳥たちが一斉に飛び立つのが見えた。
彼女の予言通りに。
帝都の朝は、今日も穏やかな光に満ちている。
「あーん、してください。母様」
「はい、あーん。……ふふ、レオ、お口についてもったいないことになってますよ」
朝のダイニングルームに、愛らしい笑い声が響く。
私の膝の上には、四歳になったばかりの息子、レオがちょこんと座っていた。アレクシス譲りの金色の髪と、私と同じ緑の瞳を持つ、好奇心旺盛な皇子様だ。
彼は、今朝焼き上がったばかりのパン――私たちが苦労して定着させたロスマリン小麦のパンだ――を、リスのように頬張っている。
「リディア、私の分はどうなっているのだ?」
正面に座るアレクシスが、わざとらしく不満げな声を上げた。
かつて「氷の皇帝」と呼ばれた厳格な面影は、家族の前では完全に鳴りを潜めている。今の彼は、妻と息子に甘くて仕方がない、ただの親馬鹿な夫だ。
「まあ、アレクシスったら。レオと張り合わないでくださいな」
「む。……張り合ってなどいない。ただ、君の手で食べさせてもらわないと、どうも一日の活力が湧かない気がしてな」
「はいはい」
私は苦笑しながら、ちぎったパンに特製のハーブジャムを塗り、彼の方へ差し出した。アレクシスはそれを嬉しそうに受け入れると、私の指先にそっと口づけを落とす。
「……美味しい。やはり、君のくれる糧は、私にとって最上のものだ」
甘い。パンではなく、空気が。
侍女たちが微笑ましそうに見守る中、私は少し顔を赤らめる。
後宮の片隅、最下位の妃として始まった私の物語は、今、これ以上ないほどの幸せな日常の中にあった。自分たちの手で耕した畑、信頼できる仲間たち、そして愛する家族。
この穏やかな日々が、永遠に続くと信じていた。
――そう、あの「招かれざる客」が現れるまでは。
朝食の後、私たちは執務室へと向かった。
廊下を歩いていると、不意に、衛兵たちの制止する声と、甲高い女性の悲鳴のような声が聞こえてきた。
「通して! お願い、通してくださらない!? 陛下にお伝えしなくてはならないの! 帝国の未来に関わることなのよ!」
「ならん! 身元も定かでない者を、皇帝陛下の御前になど……!」
騒ぎの方へ目を向けると、そこには一人の少女がいた。
歳は十七、八だろうか。色素の薄い桃色の髪に、涙に濡れた大きな瞳。儚げで、守ってあげたくなるような可憐な容姿をしている。身なりは良いが、どこか古めかしいデザインのドレスを着ていた。
彼女は、私たち……いいえ、アレクシスの姿を認めると、衛兵の手を振りほどき、転がるように駆け寄ってきた。
「陛下……! ああ、やっと、やっとお会いできました……!」
「何者だ。控えよ」
アレクシスが私とレオを背に庇い、鋭い声を発する。
しかし、少女は怯むどころか、その場に膝をつき、両手を組んで祈るように叫んだ。
「私です! お忘れですか、ミイナです! バーデン家の分家の、ミイナ・フォン・ローゼンです!」
バーデン家……? 私の実家の?
確かに、遠縁にそのような名の娘がいたような気もするが、面識はほとんどない。
「陛下、どうか聞いてください! 私は……私は、神より『啓示』を授かりました。やがて訪れる、帝国の絶望的な破滅について!」
「……は?」
アレクシスが、怪訝そうに眉をひそめる。
少女ミイナは、震える指先で、まっすぐに私を指さした。その瞳には、恐怖と、そして奇妙なほどの敵意が宿っていた。
「その女……リディア・バーデンこそが、帝国を破滅へと導く『稀代の悪女』なのです! 彼女の偽りの知識が、やがて土を腐らせ、民を飢えさせ、この国を滅ぼすのです! 私はその破滅を食い止めるために、神に選ばれ、真なる『叡智』を授けられたのです!」
その場にいた全員が、息を呑んだ。
あまりにも荒唐無稽な言いがかり。私の功績を知らぬ者はいない。本来なら、不敬罪で即座に捕らえられるべき発言だ。
だが、彼女のあまりにも真に迫った必死な形相が、場の空気を凍りつかせていた。
「……リディアが、悪女だと?」
アレクシスの声が、氷点下まで下がる。
彼は冷ややかな瞳でミイナを見下ろし、吐き捨てるように言った。
「戯言も大概にせよ。彼女がいなければ、今の帝国の繁栄はない。彼女こそが、我が国の至宝であり、私の最愛の妻だ。……衛兵、この狂女をつまみ出せ。二度と私の視界に入れるな」
アレクシスの一刀両断の拒絶。
当然だ。私たちの絆は、そんな妄言で揺らぐほど脆くはない。
衛兵たちがミイナの両脇を抱え、引きずり出そうとする。
しかし、ミイナは抵抗もせず、ただ不気味なほど静かな笑みを浮かべて、こう言い残した。
「……信じられないのも無理はありませんわ。でも、今夜。今夜、帝都の西で大きな地震が起きます。それが『始まりの合図』です」
「なんですって?」
「それが当たったら、信じてくださいますね? 神に選ばれた運命の相手は、悪女リディアではなく……この私、ミイナなのだと」
彼女は恍惚とした表情でアレクシスを見つめ、そのまま連行されていった。
あとに残されたのは、奇妙な静寂と、胸のざわつきだけ。
「……気にするな、リディア。頭のおかしい娘だ」
アレクシスは私の肩を抱き、優しく言った。
私も、努めて明るく頷き返す。
そう、ただの妄言。気にすることなんてない。
――しかし、その夜。
私たちは知ることになる。
ゴゴゴゴゴ……ッ!!
就寝前の静かな時間を切り裂いて、帝都の大地が、激しく揺れたのだ。
窓の外、西の方角から、鳥たちが一斉に飛び立つのが見えた。
彼女の予言通りに。
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