後宮妃よ、紅を引け。~寵愛ではなく商才で成り上がる中華ビジネス録~

希羽

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第三話:最初の顧客(インフルエンサー)

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 後宮の奥深く、忘れられたように佇む「月華宮げっかきゅう」。それが、林淑妃リンしゅくひの住まいだった。かつては皇帝の寵愛の証として、夜ごと楽の音が響いたというその宮も、今では庭の手入れもままならず、寂寥とした空気が漂っている。

 私は物怖じすることなく、その宮の庭へと足を踏み入れた。

 椅子に座り、虚ろな目で池を眺めていた林淑妃が、私の気配に気づき、ゆっくりと顔を上げる。柳のようにしなやかな眉が、訝しげに寄せられた。

「……何者だ」

 その声は、長く使われていなかった楽器のように掠れていた。

「お初にお目にかかります、淑妃様。新人妃の李雪蘭と申します」

 私は作法通りに、丁寧な礼をとった。

 彼女の瞳に侮蔑の色が浮かぶ。「ほう、新入りか。私に何の用だ。施しでも受けに来たか、それともこの落ちぶれた様を物笑いに来たか」

 その言葉には、かつて栄華を極めた者だけが持つ、刺々しいプライドが滲んでいた。

「どちらでもございません」

 私は顔を上げ、彼女の瞳をまっすぐに見据えた。

「私は淑妃様に、投資のご提案に参りました」
「……投資だと?」

 予想外の言葉に、林淑妃の表情がわずかに変わる。

 私は一歩前に進み出ると、懐から白磁の小さな壺を取り出した。

「淑妃様は、この後宮で最も美しい宝石。ただ、今は少しだけ曇っておられるに過ぎません」

 まず、彼女の価値を肯定する。プライドの高い人間を動かすための、交渉の第一歩だ。

「これは、私が故郷の製法で作り上げました、宝石を磨くためのでございます」

 私は壺の蓋を開け、彼女の前に差し出した。ふわりと、甘く清らかな花の香りが漂う。中には、真珠のような光沢を放つ乳白色のクリームが満たされていた。

「これを一月、お試しください。もし淑妃様が本来の輝きを取り戻されたなら、その時には、この道具の真価を、他の妃たちに伝えていただきたいのです」

 林淑妃は、私の言葉を黙って聞いていた。その瞳には、まだ深い疑念の色が浮かんでいる。

「……施しではない、と申すか」
「はい。これは、対等な取引です。淑妃様は美しさを取り戻し、私は私の道具の価値を証明する。双方に益のある、商いの話にございます」

 林淑妃は、ふ、と鼻で笑った。

「小娘が、面白いことを言う。良いだろう。その戯言に付き合ってやる。だが、くだらぬ物であれば、ただではおかぬぞ」

 彼女は侍女に目配せし、私の差し出した壺を受け取らせた。その指先が、ほんの少し震えているのを、私は見逃さなかった。彼女は、まだ諦めてはいなかったのだ。美しさへの渇望を。

 それから、私は月華宮を訪れなかった。

 焦りは禁物だ。商品の価値は、顧客自身が実感してこそ最大化される。

 噂が私の耳に届き始めたのは、十日ほど経った頃だった。

「林淑妃様が、最近よく庭を散策されているらしい」
「やつれたご様子だったのに、近頃はお顔の色艶がずいぶんと良いとか」

 そして、ちょうど一月が経った日。私の静蘭宮に、林淑妃からの使者が訪れた。

「淑妃様が、お前を呼んでいる」

 再び訪れた月華宮は、以前とは空気が一変していた。庭は掃き清められ、侍女たちの動きもどこか活気がある。

 通された部屋で私を待っていたのは、息を呑むほどに美しい女性だった。

 艶やかな黒髪を結い上げ、上等な絹の衣をまとうその姿は、紛れもなく林淑妃だった。だが、以前の憔悴した面影はどこにもない。潤いに満ちた肌は内から光を放つように輝き、その瞳にはかつての自信と気力が戻っていた。

「……お前の言う通りになったな、小娘」

 彼女は、卓に置かれた空の壺を指先でなぞりながら言った。その声には、もう掠れはない。

「取引だ。お前の望みは何だ? 金か? それとも、皇帝陛下への口添えか?」

 私は静かに首を横に振った。

「私が欲しいのは、淑妃様がお持ちのにございます」
「……情報?」
「はい。この後宮で、誰が何を欲し、誰が何を恐れているのか。誰と誰が繋がり、誰が誰を陥れようとしているのか。そして何より、私のこのを広めるための、淑妃様の影響力。それこそが、私が投資した対価でございます」

 私の言葉を聞き、林淑妃は初めて、心の底から楽しそうに、妖艶に微笑んだ。

「……ククク、面白い。実に面白い小娘だ。気に入った」

 彼女は立ち上がると、私のそばまで歩み寄った。そして、私の耳元で囁く。

「よろしい。この林淑妃が、お前の最初の顧客パトロンになってやろう」

 その瞳が、鋭い光を宿した。

「まずは手始めに、成り上がりの張貴妃の鼻を明かしてやろうではないか。あばずれが懇意にしている商人から仕入れている紅は、唇を荒らすだけの代物だ。お前なら、あれを超える紅を作れるのだろう?」

 それは、問いかけではなかった。

 私と彼女の、最初の共同事業の始まりを告げる、宣戦布告だった。
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