婚約破棄された公爵令嬢は数理魔法の天才

希羽

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第十四話:誤差ゼロの迎撃

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 時間が、引き伸ばされたゴムのようにゆっくりと動いた。

 巨大な狼の顎が開かれ、鋭い牙が、私の喉笛へと迫る。レオンの絶叫が、遠くで聞こえた。

 だが、私の心は、凍てつくほどに静かだった。恐怖という非合理な感情は、極限の集中状態にある私の思考から、完全に排除されていた。

 敵性個体:ダイアウルフ(アルファ)。質量、推定150kg。現存体力、推定18%。負傷箇所、左後足の粉砕骨折による機動力低下。突進ベクトル、前方3.2メートル、仰角15度。到達予測時間、0.8秒。

 私の脳が、瞬時に変数を弾き出す。後方への回避は間に合わない。左右への跳躍も、崖っぷちという地形的制約により選択肢から除外。

 ならば、最適解は、ただ一つ。

 私は、後ずさる代わりに、計算され尽くした、ほんの半歩だけ、前へ踏み出した。

 それは、自殺行為に見えただろう。しかし、その半歩が、私を狼の牙が描く致死の軌道から、紙一重で外す完璧な位置へと導いた。

 すれ違いざま、私はドレスの隠しポケットから抜き放った象牙の計算尺を、強く握りしめていた。それは武器ではない。だが、あらゆる物体は、その使い方によって凶器となり得る。

 F = ma(力 = 質量 × 加速度)。

 私の体重を乗せた計算尺の硬い先端が、最小の力で最大の結果を生む、ただ一点。狼が身を翻したことでがら空きになった、首の付け根にある延髄直下の神経節へと、吸い込まれるように突き刺さった。

「――キャンッ!」

 巨体に似合わぬ、情けない悲鳴。

 アルファの巨体は、私を飛び越えた先で勢いを失い、数度、痙攣したかと思うと、そのまま崩れるようにして動かなくなった。

 最後の変数にして、最大の脅威は、完全に沈黙した。

「……リディアッ!」

 駆け寄ってきたレオンが、私の両肩を掴む。その顔は血の気を失い、彼の声は恐怖に震えていた。

「怪我は! 怪我はないか!?」
「問題ありません。計算通りですわ」

 彼の心配をよそに、私は手に持った計算尺についた獣の血を、冷静にドレスの裾で拭った。だが、その指先が、自分でも気づかぬほど、わずかに震えていた。私の心もまた、鉄でできていたわけではなかったらしい。

 レオンは、私の無事を確認すると、今度は崩れ落ちるようにその場に膝をついた。安堵と、極度の緊張からの解放。彼もまた、限界だったのだ。

 崖の上の村人たちは、ただ呆然と、その光景を見ていた。彼らの目には、若い娘が、巨大な魔物のリーダーを、一本の定規のようなもので仕留めたようにしか見えなかっただろう。それは、彼らの常識を、完全に破壊する光景だった。

 夜が明け、私たちが村へ凱旋した時、その反応は爆発した。

 バリケードの内側で恐怖の一夜を明かした村人たちが、私たちの姿を認めると、堰を切ったように駆け寄ってくる。

 猟師たちから昨夜の戦いの顛末――特に、私がたった一人でアルファを仕留めたという信じがたい事実が伝わると、村人たちの私を見る目は、尊敬や感謝を通り越し、もはや何か神聖なものを見るような、熱狂的な崇拝の色を帯びていた。

「リディア様!」
「我らの守り神だ!」

 彼らは私の名を叫び、私を担ぎ上げようとさえした。この種の、計算不能な熱狂は、私が最も苦手とするところだった。私は人々の賞賛の輪の中心で、どうしていいか分からず、ただ困惑して立ち尽くすしかなかった。その姿は、あるいは、狼と対峙していた時よりも、よほど無防備に見えたかもしれない。

 その夜。村が勝利の祝宴に沸く中、私は一人、研究室(納屋)にこもっていた。

 祝う気にはなれなかった。それよりも、収集すべきデータが、目の前に山積していたからだ。私はアルファ個体の死骸を運び込み、その分析を行っていた。

 そして、見つけた。

 狼の肩口の筋肉の奥深く。そこに、指の爪ほどの大きさの、黒く、そして奇妙な幾何学模様を持つ鉱物の欠片が、食い込むように埋まっていたのだ。それは、この辺りの地層からは決して採れない、未知の鉱物。そして、微弱ながらも、明らかに異常な魔力を放っていた。

「……なるほど」

 私の目に、探求者の光が強く宿る。

 あの異常なまでの攻撃性。統率された群れの動き。それは、この鉱物が彼らの生態系に与えた、予測不能な「汚染」の結果だったのではないか。

 私は壁に貼った地図へと向き直る。そして、あの古代遺跡の位置を、指でなぞった。

「この異常な変数の発生源……。おそらく、あそこね」

 村を守るという短期的な課題は、クリアした。

 だが、その根本原因を取り除かない限り、第二、第三の脅威が、いずれまたこの村を襲うだろう。

 私の個人的な研究目標と、この村の安全保障という課題が、今、一つの線で結ばれた。

 次なる目的地は、決まった。

 私の本当の戦いは、まだ始まったばかりだった。
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