追放された宮廷薬師、科学の力で不毛の地を救い、聡明な第二王子に溺愛される

希羽

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第十三話:砕かれた羅針盤と、夜の来訪者

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 科学とは、私の世界の全てだった。

 あらゆる事象は観察と分析によって理解でき、あらゆる問題には合理的な解決策が存在する。それが、私の揺るぎない信念であり、私を支える羅針盤コンパスだった。

 だが、アルジェント様が死んだという「事実」は、その羅針盤を粉々に打ち砕いた。

 心が、動かない。

 頭では、やるべきことが山積していると分かっている。冬の備え、新参者たちのための住居建設、鉄器のさらなる量産……。しかし、私の思考は、アルジェント様という一点をぐるぐると回り続けるだけで、未来への設計図を一枚も描くことができなかった。

「リン様、今日の昼食です。スープ、冷めないうちに……」

 ティリアが、心配そうに食事を運んでくる。

「……ああ、そこに置いておいてくれ」
「ちゃんと、食べてくださいね……?」

 その声に応えることすら、億劫だった。

 私の異変に、村の誰もが気づいていた。だが、彼らは私を責めなかった。

 私が評議会を開かなくても、ガレンが日々の仕事を割り振り、フィンが鍛冶場の炎を絶やさず、ティリアが食料の管理を完璧にこなしていた。

 私が育てた村が、今度は、動けなくなった私を支え、守ってくれている。そのことが、余計に私の心を締め付けた。

「リン」

 ある晩、星も見えない闇の中、北の空を眺めていた私の隣に、ガレンが立った。

 彼は何も聞かず、ただ私と同じ方角を眺めていた。

「……あんたが何に苦しんでるのか、俺には分からねえ。だがな、あんたがもし、進むべき道を見失ったんなら、俺たちが道になる。あんたが立ち止まるなら、俺たちが盾になる」

 彼は、私の方を見ずに、それだけを言った。

「だから、今はそれでいい。俺たちが、あんたを守る番だ」

 その不器用な言葉が、凍りついた私の心に、ほんの少しだけ温もりをくれた。

 だが、それでも、砕けた羅針盤の針は、震えるだけで方角を示そうとはしなかった。

 ◇

 その夜、嵐が来た。

 激しい雨風が谷を打ち付け、私たちの家を揺らす。だが、煉瓦造りの家はびくともしない。私たちは、安全な家の中で、嵐が過ぎるのを待っていた。

 そんな中、見張りに出ていた者の一人が、血相を変えて集会所に駆け込んできた。

「て、敵襲かもしれません! 谷の罠をいくつか潜り抜け、何者かがこちらに接近しています!」

 ガレンが即座に剣を手に取った。

「腕は!? 人数は!?」
「……一人です! ですが、その動き……ただの遭難者じゃありません!」

 ガレンが屈強な男たちを率いて、嵐の中へ飛び出していく。村に残った私たちは、息を殺して彼らの帰りを待った。

 一時間後。

 ガレンたちが、ずぶ濡れになった一人の男を連れて帰ってきた。

 男は、旅人風の外套を目深にかぶっていたが、その体格や姿勢は明らかに手練れの兵士のものだった。左腕からは血を流している。

 私が手当てのために近づくと、男は私を一目見て、目を見開いた。そして、傷の痛みも忘れたかのように、その場で片膝をついた。それは、騎士が忠誠を誓う相手に行う、最敬礼だった。

「……ようやく、お会いできた。リン……様」
「あなたは……?」

 男は、外套のフードを外した。現れたのは、鋭い目つきをした、見覚えのない顔。しかし、その身のこなしは、紛れもなく王宮の近衛騎士のものだった。

「私はケイラン。アルジェント第二王子殿下の、親衛隊長を務めておりました者」

 アルジェント、という名に、私の心臓が凍りついた。

「……殿下は、亡くなったはずだ。なぜ、あなたがここに」

 私の言葉に、ケイランと名乗る騎士は、悔しそうに顔を歪めた。

「それは、国王が流した偽り! 殿下は、ご存命です!」

 その言葉が、私の思考を殴りつけた。

「……なんだと……?」
「国王は、民に人望の厚いアルジェント様を疎み、暗殺しようとしました。ですが、私たちはその動きを事前に察知し、殿下を王宮から脱出させたのです。殿下の自決は、追っ手を欺くための偽装工作にございます」

 生きている。彼が、生きている。

 その事実だけで、私の世界に再び色が戻ってくるような感覚に襲われた。砕けた羅針盤の破片が、一つ、また一つと集まっていく。

 ケイランは、懐から油紙に包まれた筒を取り出した。

「殿下は今、北の貴族たちを味方につけるため、身を隠しながら旅を続けておられます。そして、私に最後の望みを託されました。――『灰の谷へ行き、リンを探せ。彼女の知恵と、彼女が築いた場所こそが、この国に残された最後の希望だ』と」

 彼は、その筒を私に差し出した。

「これは、殿下からの親書です。どうか、お力をお貸しください」

 私は、震える手でその親書を受け取った。

 悲しみと無力感で満たされていた私の心に、全く新しい感情が、灼熱の溶岩のように湧き上がってくる。

 それは、国王への、燃えるような怒り。

 そして、今この瞬間も、どこかで戦い続けているであろうアルジェント王子への、狂おしいほどの庇護欲だった。

 私は、集会所の壁に貼られた、この谷の地図へと向かった。

 いや、違う。これはもう、ただの谷の地図ではない。私たちの国の、地図だ。

「ガレン」

 私が振り返ると、彼は全てを察した顔で頷いた。

「何なりと」

 私の瞳には、もう迷いはなかった。

「計画を変更する。冬の備えは第二目標。これより、我々の最優先事項はただ一つ」

 私は、地図の上の王都を、指先で強く叩いた。

 その声は、鋼のように冷たく、そして硬質だった。

「この聖域を、要塞に変える。そして――彼を、迎えに行く」
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