13 / 24
第十三話:砕かれた羅針盤と、夜の来訪者
しおりを挟む
科学とは、私の世界の全てだった。
あらゆる事象は観察と分析によって理解でき、あらゆる問題には合理的な解決策が存在する。それが、私の揺るぎない信念であり、私を支える羅針盤だった。
だが、アルジェント様が死んだという「事実」は、その羅針盤を粉々に打ち砕いた。
心が、動かない。
頭では、やるべきことが山積していると分かっている。冬の備え、新参者たちのための住居建設、鉄器のさらなる量産……。しかし、私の思考は、アルジェント様という一点をぐるぐると回り続けるだけで、未来への設計図を一枚も描くことができなかった。
「リン様、今日の昼食です。スープ、冷めないうちに……」
ティリアが、心配そうに食事を運んでくる。
「……ああ、そこに置いておいてくれ」
「ちゃんと、食べてくださいね……?」
その声に応えることすら、億劫だった。
私の異変に、村の誰もが気づいていた。だが、彼らは私を責めなかった。
私が評議会を開かなくても、ガレンが日々の仕事を割り振り、フィンが鍛冶場の炎を絶やさず、ティリアが食料の管理を完璧にこなしていた。
私が育てた村が、今度は、動けなくなった私を支え、守ってくれている。そのことが、余計に私の心を締め付けた。
「リン」
ある晩、星も見えない闇の中、北の空を眺めていた私の隣に、ガレンが立った。
彼は何も聞かず、ただ私と同じ方角を眺めていた。
「……あんたが何に苦しんでるのか、俺には分からねえ。だがな、あんたがもし、進むべき道を見失ったんなら、俺たちが道になる。あんたが立ち止まるなら、俺たちが盾になる」
彼は、私の方を見ずに、それだけを言った。
「だから、今はそれでいい。俺たちが、あんたを守る番だ」
その不器用な言葉が、凍りついた私の心に、ほんの少しだけ温もりをくれた。
だが、それでも、砕けた羅針盤の針は、震えるだけで方角を示そうとはしなかった。
◇
その夜、嵐が来た。
激しい雨風が谷を打ち付け、私たちの家を揺らす。だが、煉瓦造りの家はびくともしない。私たちは、安全な家の中で、嵐が過ぎるのを待っていた。
そんな中、見張りに出ていた者の一人が、血相を変えて集会所に駆け込んできた。
「て、敵襲かもしれません! 谷の罠をいくつか潜り抜け、何者かがこちらに接近しています!」
ガレンが即座に剣を手に取った。
「腕は!? 人数は!?」
「……一人です! ですが、その動き……ただの遭難者じゃありません!」
ガレンが屈強な男たちを率いて、嵐の中へ飛び出していく。村に残った私たちは、息を殺して彼らの帰りを待った。
一時間後。
ガレンたちが、ずぶ濡れになった一人の男を連れて帰ってきた。
男は、旅人風の外套を目深にかぶっていたが、その体格や姿勢は明らかに手練れの兵士のものだった。左腕からは血を流している。
私が手当てのために近づくと、男は私を一目見て、目を見開いた。そして、傷の痛みも忘れたかのように、その場で片膝をついた。それは、騎士が忠誠を誓う相手に行う、最敬礼だった。
「……ようやく、お会いできた。リン……様」
「あなたは……?」
男は、外套のフードを外した。現れたのは、鋭い目つきをした、見覚えのない顔。しかし、その身のこなしは、紛れもなく王宮の近衛騎士のものだった。
「私はケイラン。アルジェント第二王子殿下の、親衛隊長を務めておりました者」
アルジェント、という名に、私の心臓が凍りついた。
「……殿下は、亡くなったはずだ。なぜ、あなたがここに」
私の言葉に、ケイランと名乗る騎士は、悔しそうに顔を歪めた。
「それは、国王が流した偽り! 殿下は、ご存命です!」
その言葉が、私の思考を殴りつけた。
「……なんだと……?」
「国王は、民に人望の厚いアルジェント様を疎み、暗殺しようとしました。ですが、私たちはその動きを事前に察知し、殿下を王宮から脱出させたのです。殿下の自決は、追っ手を欺くための偽装工作にございます」
生きている。彼が、生きている。
その事実だけで、私の世界に再び色が戻ってくるような感覚に襲われた。砕けた羅針盤の破片が、一つ、また一つと集まっていく。
ケイランは、懐から油紙に包まれた筒を取り出した。
「殿下は今、北の貴族たちを味方につけるため、身を隠しながら旅を続けておられます。そして、私に最後の望みを託されました。――『灰の谷へ行き、リンを探せ。彼女の知恵と、彼女が築いた場所こそが、この国に残された最後の希望だ』と」
彼は、その筒を私に差し出した。
「これは、殿下からの親書です。どうか、お力をお貸しください」
私は、震える手でその親書を受け取った。
悲しみと無力感で満たされていた私の心に、全く新しい感情が、灼熱の溶岩のように湧き上がってくる。
それは、国王への、燃えるような怒り。
そして、今この瞬間も、どこかで戦い続けているであろうアルジェント王子への、狂おしいほどの庇護欲だった。
私は、集会所の壁に貼られた、この谷の地図へと向かった。
いや、違う。これはもう、ただの谷の地図ではない。私たちの国の、地図だ。
「ガレン」
私が振り返ると、彼は全てを察した顔で頷いた。
「何なりと」
私の瞳には、もう迷いはなかった。
「計画を変更する。冬の備えは第二目標。これより、我々の最優先事項はただ一つ」
私は、地図の上の王都を、指先で強く叩いた。
その声は、鋼のように冷たく、そして硬質だった。
「この聖域を、要塞に変える。そして――彼を、迎えに行く」
あらゆる事象は観察と分析によって理解でき、あらゆる問題には合理的な解決策が存在する。それが、私の揺るぎない信念であり、私を支える羅針盤だった。
だが、アルジェント様が死んだという「事実」は、その羅針盤を粉々に打ち砕いた。
心が、動かない。
頭では、やるべきことが山積していると分かっている。冬の備え、新参者たちのための住居建設、鉄器のさらなる量産……。しかし、私の思考は、アルジェント様という一点をぐるぐると回り続けるだけで、未来への設計図を一枚も描くことができなかった。
「リン様、今日の昼食です。スープ、冷めないうちに……」
ティリアが、心配そうに食事を運んでくる。
「……ああ、そこに置いておいてくれ」
「ちゃんと、食べてくださいね……?」
その声に応えることすら、億劫だった。
私の異変に、村の誰もが気づいていた。だが、彼らは私を責めなかった。
私が評議会を開かなくても、ガレンが日々の仕事を割り振り、フィンが鍛冶場の炎を絶やさず、ティリアが食料の管理を完璧にこなしていた。
私が育てた村が、今度は、動けなくなった私を支え、守ってくれている。そのことが、余計に私の心を締め付けた。
「リン」
ある晩、星も見えない闇の中、北の空を眺めていた私の隣に、ガレンが立った。
彼は何も聞かず、ただ私と同じ方角を眺めていた。
「……あんたが何に苦しんでるのか、俺には分からねえ。だがな、あんたがもし、進むべき道を見失ったんなら、俺たちが道になる。あんたが立ち止まるなら、俺たちが盾になる」
彼は、私の方を見ずに、それだけを言った。
「だから、今はそれでいい。俺たちが、あんたを守る番だ」
その不器用な言葉が、凍りついた私の心に、ほんの少しだけ温もりをくれた。
だが、それでも、砕けた羅針盤の針は、震えるだけで方角を示そうとはしなかった。
◇
その夜、嵐が来た。
激しい雨風が谷を打ち付け、私たちの家を揺らす。だが、煉瓦造りの家はびくともしない。私たちは、安全な家の中で、嵐が過ぎるのを待っていた。
そんな中、見張りに出ていた者の一人が、血相を変えて集会所に駆け込んできた。
「て、敵襲かもしれません! 谷の罠をいくつか潜り抜け、何者かがこちらに接近しています!」
ガレンが即座に剣を手に取った。
「腕は!? 人数は!?」
「……一人です! ですが、その動き……ただの遭難者じゃありません!」
ガレンが屈強な男たちを率いて、嵐の中へ飛び出していく。村に残った私たちは、息を殺して彼らの帰りを待った。
一時間後。
ガレンたちが、ずぶ濡れになった一人の男を連れて帰ってきた。
男は、旅人風の外套を目深にかぶっていたが、その体格や姿勢は明らかに手練れの兵士のものだった。左腕からは血を流している。
私が手当てのために近づくと、男は私を一目見て、目を見開いた。そして、傷の痛みも忘れたかのように、その場で片膝をついた。それは、騎士が忠誠を誓う相手に行う、最敬礼だった。
「……ようやく、お会いできた。リン……様」
「あなたは……?」
男は、外套のフードを外した。現れたのは、鋭い目つきをした、見覚えのない顔。しかし、その身のこなしは、紛れもなく王宮の近衛騎士のものだった。
「私はケイラン。アルジェント第二王子殿下の、親衛隊長を務めておりました者」
アルジェント、という名に、私の心臓が凍りついた。
「……殿下は、亡くなったはずだ。なぜ、あなたがここに」
私の言葉に、ケイランと名乗る騎士は、悔しそうに顔を歪めた。
「それは、国王が流した偽り! 殿下は、ご存命です!」
その言葉が、私の思考を殴りつけた。
「……なんだと……?」
「国王は、民に人望の厚いアルジェント様を疎み、暗殺しようとしました。ですが、私たちはその動きを事前に察知し、殿下を王宮から脱出させたのです。殿下の自決は、追っ手を欺くための偽装工作にございます」
生きている。彼が、生きている。
その事実だけで、私の世界に再び色が戻ってくるような感覚に襲われた。砕けた羅針盤の破片が、一つ、また一つと集まっていく。
ケイランは、懐から油紙に包まれた筒を取り出した。
「殿下は今、北の貴族たちを味方につけるため、身を隠しながら旅を続けておられます。そして、私に最後の望みを託されました。――『灰の谷へ行き、リンを探せ。彼女の知恵と、彼女が築いた場所こそが、この国に残された最後の希望だ』と」
彼は、その筒を私に差し出した。
「これは、殿下からの親書です。どうか、お力をお貸しください」
私は、震える手でその親書を受け取った。
悲しみと無力感で満たされていた私の心に、全く新しい感情が、灼熱の溶岩のように湧き上がってくる。
それは、国王への、燃えるような怒り。
そして、今この瞬間も、どこかで戦い続けているであろうアルジェント王子への、狂おしいほどの庇護欲だった。
私は、集会所の壁に貼られた、この谷の地図へと向かった。
いや、違う。これはもう、ただの谷の地図ではない。私たちの国の、地図だ。
「ガレン」
私が振り返ると、彼は全てを察した顔で頷いた。
「何なりと」
私の瞳には、もう迷いはなかった。
「計画を変更する。冬の備えは第二目標。これより、我々の最優先事項はただ一つ」
私は、地図の上の王都を、指先で強く叩いた。
その声は、鋼のように冷たく、そして硬質だった。
「この聖域を、要塞に変える。そして――彼を、迎えに行く」
27
あなたにおすすめの小説
偽りの呪いで追放された聖女です。辺境で薬屋を開いたら、国一番の不運な王子様に拾われ「幸運の女神」と溺愛されています
黒崎隼人
ファンタジー
「君に触れると、不幸が起きるんだ」――偽りの呪いをかけられ、聖女の座を追われた少女、ルナ。
彼女は正体を隠し、辺境のミモザ村で薬師として静かな暮らしを始める。
ようやく手に入れた穏やかな日々。
しかし、そんな彼女の前に現れたのは、「王国一の不運王子」リオネスだった。
彼が歩けば嵐が起き、彼が触れば物が壊れる。
そんな王子が、なぜか彼女の薬草店の前で派手に転倒し、大怪我を負ってしまう。
「私の呪いのせいです!」と青ざめるルナに、王子は笑った。
「いつものことだから、君のせいじゃないよ」
これは、自分を不幸だと思い込む元聖女と、天性の不運をものともしない王子の、勘違いから始まる癒やしと幸運の物語。
二人が出会う時、本当の奇跡が目を覚ます。
心温まるスローライフ・ラブファンタジー、ここに開幕。
婚約破棄され森に捨てられました。探さないで下さい。
拓海のり
ファンタジー
属性魔法が使えず、役に立たない『自然魔法』だとバカにされていたステラは、婚約者の王太子から婚約破棄された。そして身に覚えのない罪で断罪され、修道院に行く途中で襲われる。他サイトにも投稿しています。
追放即死と思ったら転生して最強薬師、元家族に天罰を
タマ マコト
ファンタジー
名門薬師一族に生まれたエリシアは、才能なしと蔑まれ、家名を守るために追放される。
だがそれは建前で、彼女の異質な才能を恐れた家族による処刑だった。
雨の夜、毒を盛られ十七歳で命を落とした彼女は、同じ世界の片隅で赤子として転生する。
血の繋がらない治療師たちに拾われ、前世の記憶と復讐心を胸に抱いたまま、
“最強薬師”としての二度目の人生が静かに始まる。
元悪役令嬢、偽聖女に婚約破棄され追放されたけど、前世の農業知識で辺境から成り上がって新しい国の母になりました
黒崎隼人
ファンタジー
公爵令嬢ロゼリアは、王太子から「悪役令嬢」の汚名を着せられ、大勢の貴族の前で婚約を破棄される。だが彼女は動じない。前世の記憶を持つ彼女は、法的に完璧な「離婚届」を叩きつけ、自ら自由を選ぶ!
追放された先は、人々が希望を失った「灰色の谷」。しかし、そこは彼女にとって、前世の農業知識を活かせる最高の「研究室」だった。
土を耕し、水路を拓き、新たな作物を育てる彼女の姿に、心を閉ざしていた村人たちも、ぶっきらぼうな謎の青年カイも、次第に心を動かされていく。
やがて「辺境の女神」と呼ばれるようになった彼女の奇跡は、一つの領地を、そして傾きかけた王国全体の運命をも揺るがすことに。
これは、一人の気高き令嬢が、逆境を乗り越え、最高の仲間たちと新しい国を築き、かけがえのない愛を見つけるまでの、壮大な逆転成り上がりストーリー!
役立たずと追放された聖女は、第二の人生で薬師として静かに輝く
腐ったバナナ
ファンタジー
「お前は役立たずだ」
――そう言われ、聖女カリナは宮廷から追放された。
癒やしの力は弱く、誰からも冷遇され続けた日々。
居場所を失った彼女は、静かな田舎の村へ向かう。
しかしそこで出会ったのは、病に苦しむ人々、薬草を必要とする生活、そして彼女をまっすぐ信じてくれる村人たちだった。
小さな治療を重ねるうちに、カリナは“ただの役立たず”ではなく「薬師」としての価値を見いだしていく。
宮廷から追放された聖女の回復魔法は最強でした。後から戻って来いと言われても今更遅いです
ダイナイ
ファンタジー
「お前が聖女だな、お前はいらないからクビだ」
宮廷に派遣されていた聖女メアリーは、お金の無駄だお前の代わりはいくらでもいるから、と宮廷を追放されてしまった。
聖国から王国に派遣されていた聖女は、この先どうしようか迷ってしまう。とりあえず、冒険者が集まる都市に行って仕事をしようと考えた。
しかし聖女は自分の回復魔法が異常であることを知らなかった。
冒険者都市に行った聖女は、自分の回復魔法が周囲に知られて大変なことになってしまう。
追放先の辺境で前世の農業知識を思い出した悪役令嬢、奇跡の果実で大逆転。いつの間にか世界経済の中心になっていました。
緋村ルナ
ファンタジー
「お前のような女は王妃にふさわしくない!」――才色兼備でありながら“冷酷な野心家”のレッテルを貼られ、無能な王太子から婚約破棄されたアメリア。国外追放の末にたどり着いたのは、痩せた土地が広がる辺境の村だった。しかし、そこで彼女が見つけた一つの奇妙な種が、運命を、そして世界を根底から覆す。
前世である農業研究員の知識を武器に、新種の果物「ヴェリーナ」を誕生させたアメリア。それは甘美な味だけでなく、世界経済を揺るがすほどの価値を秘めていた。
これは、一人の追放された令嬢が、たった一つの果実で自らの運命を切り開き、かつて自分を捨てた者たちに痛快なリベンジを果たし、やがて世界の覇権を握るまでの物語。「食」と「経済」で世界を変える、壮大な逆転ファンタジー、開幕!
大器晩成エンチャンター~Sランク冒険者パーティから追放されてしまったが、追放後の成長度合いが凄くて世界最強になる
遠野紫
ファンタジー
「な、なんでだよ……今まで一緒に頑張って来たろ……?」
「頑張って来たのは俺たちだよ……お前はお荷物だ。サザン、お前にはパーティから抜けてもらう」
S級冒険者パーティのエンチャンターであるサザンは或る時、パーティリーダーから追放を言い渡されてしまう。
村の仲良し四人で結成したパーティだったが、サザンだけはなぜか実力が伸びなかったのだ。他のメンバーに追いつくために日々努力を重ねたサザンだったが結局報われることは無く追放されてしまった。
しかしサザンはレアスキル『大器晩成』を持っていたため、ある時突然その強さが解放されたのだった。
とてつもない成長率を手にしたサザンの最強エンチャンターへの道が今始まる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる