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第九話:希望の設計図
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夕暮れの橙色の光が、フロスラントの集落を柔らかく染めていた。
森から戻った私とレオンを迎えたのは、昨日までの猜疑に満ちた空気ではなく、温かいスープの香りと、どこか安堵したような村人たちの眼差しだった。
広場では、マルタが中心となって、若い女たちに手際よく薬膳スープの配給を行っている。その光景は、まるでずっと昔からそうであったかのように、集落に自然に溶け込んでいた。知識が正しく継承され、日常へと変わり始めている証拠だ。
「…おかえりなさい、レオン様、先生」
マルタが、皺の刻まれた顔に人の良い笑みを浮かべて、私たちに声をかけた。
「先生」という呼び名が、すでに私のこの土地での呼称として定着しつつあるらしい。
その夜、集会所には、村の主だった者たちが全員集められていた。
昼間の活気とは違う、厳粛な緊張感が漂う。灯された幾つかのランプが、集まった男たちの険しい顔を照らし出していた。
全員の視線が、中央に立つレオンに注がれる。
彼は、いつものように腕を組み、一人一人の顔を確かめるように見渡してから、重々しく口を開いた。
「皆、知っての通り、アイリス殿――アイリス先生の知識のおかげで、我々は『霜枯れ病』への対抗策を手に入れた。長年、我々を苦しめてきた呪いのような病が、ただの栄養不足だったこと、そしてそれが食事で治せることを、我々は学んだ」
彼の言葉に、何人かが深く頷く。
「だが、これは始まりに過ぎん。このスープは、冬を生き延びるための薬だ。だが俺は、ただ生き延びるだけの冬は、もう終わりにしたい」
レオンの声に、力がこもる。
「俺たちは、冬と戦い、そして勝つ。そのための武器を、先生が示してくれた。…我々は、このフロスラントに、冬でも作物が育つ『温室』を作る!」
温室、という言葉に、会場が大きくどよめいた。
「温室だと? 馬鹿な!」
「そんなもの、王都の貴族様の遊び道具だろ!」
「どこにそんな金と資材があるってんだ!」
矢継ぎ早に飛ぶ、もっともな反論。それは、彼らが夢物語を信じられないのではなく、あまりに厳しい現実を知っているからこその声だった。
レオンは、その声を手で制すると、隣に立つ私に視線を向けた。今が、私の出番だった。
私は、昼間のうちに羊皮紙に描き上げておいた設計図を、長机の上に広げた。
それは王宮の建築士が描くような精緻なものではない。だが、構造、寸法、そして必要な材料が、誰にでも分かるように記されている。
「皆様の懸念は、当然のことです。ですが、この計画は、この土地にあるものだけで実現可能です」
私は、設計図の一点を指差した。
「まず、建物の骨格。北の森に自生する鉄木を使います。寒さに強く、十分な強度があります。次に、壁面。王都で使うような高価なガラスは不要です。狩りで得た獣の皮を薄く剥ぎ、魚から抽出した油を塗ってなめすことで、光を通す半透明の幕を作ることができます」
「獣の皮が、ガラスの代わりになるのか…?」
「はい。効率は落ちますが、冬の弱い日差しでも、地熱の助けがあれば作物の育成には十分な光量を確保できます。そして最も重要な熱源は、先日発見した丘の麓の地熱です。そこまで水路を引けば、温室内を常に一定の温度に保つことが可能となります」
私の淀みない説明に、あれほど騒がしかった男たちが、水を打ったように静まり返る。
彼らが「不可能だ」と考えていた壁の一つ一つを、私が「知識」という槌で、論理的に打ち砕いていく。
不可能は、可能へと姿を変え、夢物語は、現実的な「計画」へと変わっていった。
沈黙を破ったのは、村で一番の年長者である鍛冶職人の老人だった。
「…その『温室』とやらができれば、本当に、冬に野菜が食えるようになるのか」
「はい。保証します」
私の即答に、老人は深く刻まれた皺をさらに深くして、そして、ゆっくりと頷いた。
「…わしの一生は、冬との戦いだった。腹を空かせ、仲間が病に倒れるのを、ただ耐えるだけの日々だった。だが…」
老人は、設計図を見つめる。
「生まれて初めてだ。冬に『勝つ』ための戦いができるなんざ。…レオン様、先生。この老いぼれの腕でよければ、いくらでも貸しなされ。鉄木の加工に必要な道具なら、わしが打ってやる」
その一言が、狼煙だった。
「俺は、石積みが得意だ! 基礎なら任せろ!」
「水路作りなら、若い衆をまとめよう!」
「女たちも、皮なめしなら手伝えるぞ!」
次々と上がる声。それはもう、諦めの声ではない。
未来を自らの手で作り上げようとする、力強い意思の表明だった。
レオンは、その光景を、万感の思いを込めた表情で見つめていた。
そして、私の隣に立つと、低い声で、しかしはっきりと聞こえるように言った。
「…ありがとう、先生。あんたは、この土地に種を蒔いてくれた」
設計図の上には、いつの間にか、村人たちの指先が無数に置かれていた。
それは、フロスラントの民の希望そのものだった。
王都で「心がない」と捨てられた私の知識が、今、この北の果てで、確かに人々の心を一つに結びつけていた。
森から戻った私とレオンを迎えたのは、昨日までの猜疑に満ちた空気ではなく、温かいスープの香りと、どこか安堵したような村人たちの眼差しだった。
広場では、マルタが中心となって、若い女たちに手際よく薬膳スープの配給を行っている。その光景は、まるでずっと昔からそうであったかのように、集落に自然に溶け込んでいた。知識が正しく継承され、日常へと変わり始めている証拠だ。
「…おかえりなさい、レオン様、先生」
マルタが、皺の刻まれた顔に人の良い笑みを浮かべて、私たちに声をかけた。
「先生」という呼び名が、すでに私のこの土地での呼称として定着しつつあるらしい。
その夜、集会所には、村の主だった者たちが全員集められていた。
昼間の活気とは違う、厳粛な緊張感が漂う。灯された幾つかのランプが、集まった男たちの険しい顔を照らし出していた。
全員の視線が、中央に立つレオンに注がれる。
彼は、いつものように腕を組み、一人一人の顔を確かめるように見渡してから、重々しく口を開いた。
「皆、知っての通り、アイリス殿――アイリス先生の知識のおかげで、我々は『霜枯れ病』への対抗策を手に入れた。長年、我々を苦しめてきた呪いのような病が、ただの栄養不足だったこと、そしてそれが食事で治せることを、我々は学んだ」
彼の言葉に、何人かが深く頷く。
「だが、これは始まりに過ぎん。このスープは、冬を生き延びるための薬だ。だが俺は、ただ生き延びるだけの冬は、もう終わりにしたい」
レオンの声に、力がこもる。
「俺たちは、冬と戦い、そして勝つ。そのための武器を、先生が示してくれた。…我々は、このフロスラントに、冬でも作物が育つ『温室』を作る!」
温室、という言葉に、会場が大きくどよめいた。
「温室だと? 馬鹿な!」
「そんなもの、王都の貴族様の遊び道具だろ!」
「どこにそんな金と資材があるってんだ!」
矢継ぎ早に飛ぶ、もっともな反論。それは、彼らが夢物語を信じられないのではなく、あまりに厳しい現実を知っているからこその声だった。
レオンは、その声を手で制すると、隣に立つ私に視線を向けた。今が、私の出番だった。
私は、昼間のうちに羊皮紙に描き上げておいた設計図を、長机の上に広げた。
それは王宮の建築士が描くような精緻なものではない。だが、構造、寸法、そして必要な材料が、誰にでも分かるように記されている。
「皆様の懸念は、当然のことです。ですが、この計画は、この土地にあるものだけで実現可能です」
私は、設計図の一点を指差した。
「まず、建物の骨格。北の森に自生する鉄木を使います。寒さに強く、十分な強度があります。次に、壁面。王都で使うような高価なガラスは不要です。狩りで得た獣の皮を薄く剥ぎ、魚から抽出した油を塗ってなめすことで、光を通す半透明の幕を作ることができます」
「獣の皮が、ガラスの代わりになるのか…?」
「はい。効率は落ちますが、冬の弱い日差しでも、地熱の助けがあれば作物の育成には十分な光量を確保できます。そして最も重要な熱源は、先日発見した丘の麓の地熱です。そこまで水路を引けば、温室内を常に一定の温度に保つことが可能となります」
私の淀みない説明に、あれほど騒がしかった男たちが、水を打ったように静まり返る。
彼らが「不可能だ」と考えていた壁の一つ一つを、私が「知識」という槌で、論理的に打ち砕いていく。
不可能は、可能へと姿を変え、夢物語は、現実的な「計画」へと変わっていった。
沈黙を破ったのは、村で一番の年長者である鍛冶職人の老人だった。
「…その『温室』とやらができれば、本当に、冬に野菜が食えるようになるのか」
「はい。保証します」
私の即答に、老人は深く刻まれた皺をさらに深くして、そして、ゆっくりと頷いた。
「…わしの一生は、冬との戦いだった。腹を空かせ、仲間が病に倒れるのを、ただ耐えるだけの日々だった。だが…」
老人は、設計図を見つめる。
「生まれて初めてだ。冬に『勝つ』ための戦いができるなんざ。…レオン様、先生。この老いぼれの腕でよければ、いくらでも貸しなされ。鉄木の加工に必要な道具なら、わしが打ってやる」
その一言が、狼煙だった。
「俺は、石積みが得意だ! 基礎なら任せろ!」
「水路作りなら、若い衆をまとめよう!」
「女たちも、皮なめしなら手伝えるぞ!」
次々と上がる声。それはもう、諦めの声ではない。
未来を自らの手で作り上げようとする、力強い意思の表明だった。
レオンは、その光景を、万感の思いを込めた表情で見つめていた。
そして、私の隣に立つと、低い声で、しかしはっきりと聞こえるように言った。
「…ありがとう、先生。あんたは、この土地に種を蒔いてくれた」
設計図の上には、いつの間にか、村人たちの指先が無数に置かれていた。
それは、フロスラントの民の希望そのものだった。
王都で「心がない」と捨てられた私の知識が、今、この北の果てで、確かに人々の心を一つに結びつけていた。
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