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第4話 実感
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ーータイ・バンコク国際空港ーー
自動ドアが開いた瞬間、むせかえるような熱気が全身にまとわりついた。
冷えた機内の空気が一瞬で押し流され、湿度を含んだ風が喉の奥まで入り込む。
「暑いな……」
強い日差しが額に突き刺さり、視界がわずかに揺らぐ。
歩道を横断したその先で、ひとりの男が静かにこちらを見つめていた。
リネンの薄いシャツにスラックスというラフな装い。
胸元のボタンが二つ外されている。
そこからのぞく身体は、ただ派手に鍛え上げたというより、長い時間をかけて積み重ねられた強さを感じさせるものだった。
湿気を孕んだ空気の中で、呼吸に合わせてゆるやかに上下する胸板。
動くたびに、鎖骨の影が深くなったり浅くなったりする。
……ごくり。
思わず喉が鳴る。
理性よりも先に、記憶が追いついた。
ゆっくりと動く喉仏。
そこへ唇を落とした夜の感触が、不意に脳裏をかすめる。
人の流れが一瞬途切れた、その隙間を縫うように、Inkは迷いなく一歩踏み込んだ。
靴音はほとんどしない。
けれど、距離だけが一気に縮まる。
湿った夜気ごと押し寄せる体温。
視線がぶつかる。
次の瞬間、Inkの手がさりげなくRioの腰に触れた。
引き寄せるというより、そこが正しい位置だと決めるような、控えめな力。
呼吸が混ざる。
開いた胸元から、太陽を吸い込んだ肌の熱が伝わってくる。
唇は触れない。
だが吐息が頬をかすめる。
ゆっくりと顔が傾き、耳元へ近づく。
「そんな目で見るな」
低い声が、鼓膜に直接落ちた。
息が耳朶をなぞり、Rioの指先がわずかに震える。
逃げ場を与えない距離のまま、さらに囁く。
「思い出したか?」
甘く、低く。
その声は二人のあいだだけで響く。
何をとは言わない、お互いだけが"それ"だと分かるーー。
「ちがっ……! 暑そうだなと思っただけで!」
Inkが小さく笑う。
「……Wirachaiさん」
「Inkと呼んでくれ」
「っ、Inkさん。暑くないんですか?」
問いかける声は平静を装っているのに、まだわずかに熱を帯びていた。
Inkはわずかに目を細め、
「慣れてる」
短く答え、額にかかりそうな前髪を指で払う。
汗はかいていない。
むしろ、この気候ごと自分のものにしている
そんな余裕がある。
「それに」
ゆっくりと近づき、視線を外さない。
「そんな顔で見られたら、暑さなんてどうでもよくなる」
冗談のようで、本気が混じる声音。
Rioはわざとらしく咳払いをした。
「観光、案内してくれるんですよね?」
Inkは小さく笑い、ようやく距離を解いた。
「もちろんだ」
駐車場へ向かい、黒い車のドアを開ける。
運転席に収まる動作は自然で、無駄がない。
エンジンがかかり、冷房の風が静かに流れ出す。
空港を出ると、街の景色が広がる。
道路を行き交う車列、歩道に並ぶ屋台、看板の色。
窓越しでも、街の熱と匂いは伝わってくる。
「最初に行きたい場所はあるか?」
ハンドルを握ったまま、Inkが尋ねる。
横顔は穏やかだが、視線だけがときどきこちらを確かめるように流れる。
「お任せします」
そう答えると、Inkは口元だけで笑った。
「じゃあ、まずは腹ごしらえだ。この街は、味で覚えるのが早い」
信号で止まる。
Inkが何気なく息を吐いたとき、その唇にふと視線が吸い寄せられた。
厚すぎず、薄すぎない。
形は端正なのに、どこか無防備だ。
口角はわずかに上がりやすいのか、無意識でも柔らかな線を描いている。
だが笑っていないときは、静かに引き結ばれ、意志の強さを隠しきれない。
信号待ちのわずかな沈黙のあいだ、彼は舌先で下唇を湿らせた。
乾燥を防ぐための、ごく自然な仕草。
Rioの視線が、ついそこへ向く。
ーー気づいているくせに、何も言わない。
その余裕が、いちばん厄介だった。
バンコクの市場は人であふれていた。
鉄のフライパンに油が落ちる音。
甘い果物の匂いと、ナンプラーの塩気が混ざる。
「こっち」
手首を引かれ、屋台の影に入る。
外の熱気が、少しだけ遠くなった。
色と匂いであふれる一角、
山のようなマンゴー
赤い唐辛子
細長く濃い緑色の葉っぱ
何に使うのかは分からない。
見たことのない形、見たことのない色。
甘い香りと青い匂いが混ざり合い、空気まで濃い。
「これ、どうやって食べるんですか?」
Rioが手に取ったのは、棘のある不思議な果物だった。
表面は硬く、どこから割ればいいのかも分からない。
店主が何か説明しているが、早口のタイ語は追いつかない。
困ったように果実を回していると、横からInkの手が伸びた。
「貸してみろ」
InkはRioの手からそれを取ると、軽く重さを確かめるように持ち替えた。
「こうやるんだ」
親指を皮の継ぎ目に押し込み、ぐっと力をかける。
硬そうに見えた外皮が、意外なほど素直に割れた。
両手で押し開くと、内側から白い果肉がのぞく。
無駄のない動き。
手慣れている。
「ほら」
一口大に切った果肉を、当たり前のようにRioの口元へ差し出す。
一瞬ためらったあと、素直に口を開ける。
甘い。
予想よりもずっと濃い果汁が広がる。
「……おいしい」
そのまま勢いで、指先に残った果汁まで舐め取ってしまう。
はっとして顔を上げると、Inkがじっと見ていた。
「誘っているのか?」
冗談めいているのに、目は笑っていない。
「ち、違います!」
慌てて一歩下がると、Inkは小さく肩を揺らした。
「冗談だ」
だが、指先はしばらくそのままだった。
少し歩いた先で、ジュースを渡された。丸ごとくり抜かれた南国の果実にストローが挿さっているのが見えた。
「これなら分かるだろ」
それを受け取ろうとするが、
暑さのせいか、視界がわずかに揺れる。
人の多さと熱気に、思考がぼんやりする。
そのとき。
背後からエンジン音が近づいた。
振り向くより早く、強い力が腕を引く。
身体が引き寄せられ、次の瞬間、バイクが背後をすり抜けていった。
「……気を付けろ」
気付いたらInkの腕の中だった。
片腕でしっかりと支えられている。
胸をかすめた鼻先に、汗と果実の匂いが混ざる。
「ぼーっとしてると、危ない」
低く、真面目な声。
さっきまでの軽さはない。
Rioの心臓は、暑さとは別の理由で早く打つ。
ジュースの甘さが、やけに濃く残っていることを今さら実感した。
自動ドアが開いた瞬間、むせかえるような熱気が全身にまとわりついた。
冷えた機内の空気が一瞬で押し流され、湿度を含んだ風が喉の奥まで入り込む。
「暑いな……」
強い日差しが額に突き刺さり、視界がわずかに揺らぐ。
歩道を横断したその先で、ひとりの男が静かにこちらを見つめていた。
リネンの薄いシャツにスラックスというラフな装い。
胸元のボタンが二つ外されている。
そこからのぞく身体は、ただ派手に鍛え上げたというより、長い時間をかけて積み重ねられた強さを感じさせるものだった。
湿気を孕んだ空気の中で、呼吸に合わせてゆるやかに上下する胸板。
動くたびに、鎖骨の影が深くなったり浅くなったりする。
……ごくり。
思わず喉が鳴る。
理性よりも先に、記憶が追いついた。
ゆっくりと動く喉仏。
そこへ唇を落とした夜の感触が、不意に脳裏をかすめる。
人の流れが一瞬途切れた、その隙間を縫うように、Inkは迷いなく一歩踏み込んだ。
靴音はほとんどしない。
けれど、距離だけが一気に縮まる。
湿った夜気ごと押し寄せる体温。
視線がぶつかる。
次の瞬間、Inkの手がさりげなくRioの腰に触れた。
引き寄せるというより、そこが正しい位置だと決めるような、控えめな力。
呼吸が混ざる。
開いた胸元から、太陽を吸い込んだ肌の熱が伝わってくる。
唇は触れない。
だが吐息が頬をかすめる。
ゆっくりと顔が傾き、耳元へ近づく。
「そんな目で見るな」
低い声が、鼓膜に直接落ちた。
息が耳朶をなぞり、Rioの指先がわずかに震える。
逃げ場を与えない距離のまま、さらに囁く。
「思い出したか?」
甘く、低く。
その声は二人のあいだだけで響く。
何をとは言わない、お互いだけが"それ"だと分かるーー。
「ちがっ……! 暑そうだなと思っただけで!」
Inkが小さく笑う。
「……Wirachaiさん」
「Inkと呼んでくれ」
「っ、Inkさん。暑くないんですか?」
問いかける声は平静を装っているのに、まだわずかに熱を帯びていた。
Inkはわずかに目を細め、
「慣れてる」
短く答え、額にかかりそうな前髪を指で払う。
汗はかいていない。
むしろ、この気候ごと自分のものにしている
そんな余裕がある。
「それに」
ゆっくりと近づき、視線を外さない。
「そんな顔で見られたら、暑さなんてどうでもよくなる」
冗談のようで、本気が混じる声音。
Rioはわざとらしく咳払いをした。
「観光、案内してくれるんですよね?」
Inkは小さく笑い、ようやく距離を解いた。
「もちろんだ」
駐車場へ向かい、黒い車のドアを開ける。
運転席に収まる動作は自然で、無駄がない。
エンジンがかかり、冷房の風が静かに流れ出す。
空港を出ると、街の景色が広がる。
道路を行き交う車列、歩道に並ぶ屋台、看板の色。
窓越しでも、街の熱と匂いは伝わってくる。
「最初に行きたい場所はあるか?」
ハンドルを握ったまま、Inkが尋ねる。
横顔は穏やかだが、視線だけがときどきこちらを確かめるように流れる。
「お任せします」
そう答えると、Inkは口元だけで笑った。
「じゃあ、まずは腹ごしらえだ。この街は、味で覚えるのが早い」
信号で止まる。
Inkが何気なく息を吐いたとき、その唇にふと視線が吸い寄せられた。
厚すぎず、薄すぎない。
形は端正なのに、どこか無防備だ。
口角はわずかに上がりやすいのか、無意識でも柔らかな線を描いている。
だが笑っていないときは、静かに引き結ばれ、意志の強さを隠しきれない。
信号待ちのわずかな沈黙のあいだ、彼は舌先で下唇を湿らせた。
乾燥を防ぐための、ごく自然な仕草。
Rioの視線が、ついそこへ向く。
ーー気づいているくせに、何も言わない。
その余裕が、いちばん厄介だった。
バンコクの市場は人であふれていた。
鉄のフライパンに油が落ちる音。
甘い果物の匂いと、ナンプラーの塩気が混ざる。
「こっち」
手首を引かれ、屋台の影に入る。
外の熱気が、少しだけ遠くなった。
色と匂いであふれる一角、
山のようなマンゴー
赤い唐辛子
細長く濃い緑色の葉っぱ
何に使うのかは分からない。
見たことのない形、見たことのない色。
甘い香りと青い匂いが混ざり合い、空気まで濃い。
「これ、どうやって食べるんですか?」
Rioが手に取ったのは、棘のある不思議な果物だった。
表面は硬く、どこから割ればいいのかも分からない。
店主が何か説明しているが、早口のタイ語は追いつかない。
困ったように果実を回していると、横からInkの手が伸びた。
「貸してみろ」
InkはRioの手からそれを取ると、軽く重さを確かめるように持ち替えた。
「こうやるんだ」
親指を皮の継ぎ目に押し込み、ぐっと力をかける。
硬そうに見えた外皮が、意外なほど素直に割れた。
両手で押し開くと、内側から白い果肉がのぞく。
無駄のない動き。
手慣れている。
「ほら」
一口大に切った果肉を、当たり前のようにRioの口元へ差し出す。
一瞬ためらったあと、素直に口を開ける。
甘い。
予想よりもずっと濃い果汁が広がる。
「……おいしい」
そのまま勢いで、指先に残った果汁まで舐め取ってしまう。
はっとして顔を上げると、Inkがじっと見ていた。
「誘っているのか?」
冗談めいているのに、目は笑っていない。
「ち、違います!」
慌てて一歩下がると、Inkは小さく肩を揺らした。
「冗談だ」
だが、指先はしばらくそのままだった。
少し歩いた先で、ジュースを渡された。丸ごとくり抜かれた南国の果実にストローが挿さっているのが見えた。
「これなら分かるだろ」
それを受け取ろうとするが、
暑さのせいか、視界がわずかに揺れる。
人の多さと熱気に、思考がぼんやりする。
そのとき。
背後からエンジン音が近づいた。
振り向くより早く、強い力が腕を引く。
身体が引き寄せられ、次の瞬間、バイクが背後をすり抜けていった。
「……気を付けろ」
気付いたらInkの腕の中だった。
片腕でしっかりと支えられている。
胸をかすめた鼻先に、汗と果実の匂いが混ざる。
「ぼーっとしてると、危ない」
低く、真面目な声。
さっきまでの軽さはない。
Rioの心臓は、暑さとは別の理由で早く打つ。
ジュースの甘さが、やけに濃く残っていることを今さら実感した。
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