6 / 29
二日目
第6話 二日目 1/4
しおりを挟む
日乃実ちゃんの進学希望先である学校は調理師科以外にも、スポーツ科や医学科、ITやエンタメに至り、さらにはインテリアデザイン科なども内包しているらしいことが校舎案内から見て取れた。
数ある教室のうち、僕たちは調理師科が保有している講義室で学科説明会の真っ最中だった。
講義室とは言っても、僕たちが座っているのはあの学生時代特有の風情ある木目調の机とイスではない。
白い長テーブルと前後にしか動かないイスは、どちらかと言えばオフィスを連想させる。
向かって正面にあるはずの黒板はなく、代わりにホワイトボードが取り付けられていた。
中学校の教室と比べているのか、日乃実ちゃんは様相の違いに「木じゃない。すごっ。広っ」と呟く。
が、どうしたことか、僕の部屋に上がったときより反応は鈍く、たったそれだけリアクションを済ませたあとは大人しく座してしまった。
今日の彼女は朝ご飯に昨晩のカレーの残りを食べ(やはり山盛り)、部屋を出発した――あたりでだんだんと大人しくなっていき――やがて説明会が始まる頃には、ガチガチに震える指で学科資料のページをめくるに至った。
ぱっと見でもわかるが、要するに。
あの日乃実ちゃんが緊張しているのだ。
「――――学科説明は以上になります。では10分休憩を挟んだのち体験授業に移りますので、担当の教員が来るまで今しばらくお待ちください」
説明を終えて補助員が教室を後にしたそのとき。
「すぅぅーーー……っふぅーーー」
ただならぬ深呼吸が聞こえる。
「このあと体験授業だって、行けそうかいね?」
「チャーハンづくりでしょ。よ、余裕ヨユー」
余裕ならばなぜ目を泳がせるのか。
この調理師科のオープンキャンパスの段取りは三工程だ。
一つは今しがた終わった学科説明会。
二つ目に昼食を兼ねたチャーハンづくり体験実習。
最後に質疑応答。という流れなので、日乃実ちゃんたち体験生はこれから調理実習室で実際に手を動かす予定なのだ。
が、当の日乃実ちゃんはというと。
「私……ちょっとトイレに」
ふむ。着いてから四回目の花摘みか。心配にもなる。
「う、うるさいっ女の子の用足しの回数なんか数えんなっ、シンタローのデリカシーなしヤローっ! 行ってくるっ」
今はとにかくコンディションが良くないらしい。無論、緊張から来る不調なのは言うまでもない。
「先生には僕から伝えとくから、ゆっくりでいいぞ」
「そ、そんなにこもらないしぃっ!」
いや、結果的に彼女はそんなにこもった。
彼女がトイレにこもる間に、在校生や学科の教員がぞろぞろと教室に入って来る。
マンツーマン指導らしく、他の体験生たちは挨拶を交わしだすが、依然として日乃実ちゃんは花摘みから帰ってこない。
「どうもはじめまして~、本日担当のミツコと申します~。お兄さんが今日の生徒さん……ではないですわよね?」
口に手を当ててオホホホ、なんて笑い出しそうなミツコという教員が日乃実ちゃんの担当らしい。
四十代後半の僕を「お兄さん」と呼ぶので……五十代くらいだろうか。少々恰幅の良い、いかにもマダム風なおばあさま先生だ。
「島慎太郎です。今日はどうもよろしくお願いします。で、すみませんがうちの娘は……というか娘でもないんですけど、いまトイレにいってましてね」
「あらまぁ~そうでしたか。じゃあ実習室へはワタクシたちだけ後からついて行くとしましょ。ゆっくりでも全然大丈夫ですから~」
他の体験生と担当者が続々と教室を出ていく中、僕はミツコ先生と二人ここに取り残されてしまった。
「いや、すいません。日乃実ちゃんどうも緊張してるっぽくて」
「そういう子も時々いますのよ。ワタクシどもも慣れてますからご心配なさらず。それはそうと――――」
ミツコ先生が思いついたように何か――名簿だろうか――のページを繰る。
「苗字が違いますのね。お兄さんは親御さんではなく、お義兄さんとかですの?」
「ああそれ、実は」
「お待たせしましたー!」
無遠慮なくらいに威勢の良い声が教室に響く。先ほどまでの大人しさはどこへやら、僕たちを待たせた日乃実ちゃんはテヘとおどけつつ駆け足で教室にやってきた。
「お待たせしました! 計屋日乃実、調理師志望です! 趣味はお料理、特技はお料理、夢は調理師!」
妙に聞き覚えのある挨拶と右手で額にビシッと三角を形作る敬礼。
「今日はよろしくお願いしまっす、先生」
「あら~元気が良くておばちゃんもなんだか嬉しいわねぇ。よろしくね日乃実ちゃん」
それまで「ワタクシ」だった一人称が孫を前にしたかのように「おばちゃん」に変わる。
ミツコ先生のおおらかさに安心したのだろうか、日乃実ちゃんの表情は普段彼女がしているみたいにニヒっと崩れる。そのカオにさっきまでの堅苦しさはなかった。
いや、思い返せば「お待たせしました」の時点で彼女の緊張は手品みたいに消えていた気がする。花摘みのおかげですっかり持ち直したらしく、少し安心する。
挨拶が済んだところで、ミツコ先生の案内の下、僕たちは調理実習室に向かう、その道中。
「緊張することないのよ~チャーハンづくりって言っても、レシピとかはそばに書いてあるし、ね?」
「ありがとミツコセンセ。でもダイジョーブッ! 私、いまならナニ作れって言われてもいけそうだよっ、ですっ」
日乃実ちゃん、敬語が危うい。
「あら本当~。でもわかんないところはなん~でもおばちゃんを使ってくれていいんだからね?」
意気揚々と脇をしめて両こぶしを握る。日乃実ちゃんの気合十分なポーズを見て僕は「調子を取り戻したかな」なんて心中で独りごちた。
「覚悟が決まったんだ?」
「へ? ぅう~むぅ……覚悟というか」
彼女は言い淀み、きれいな形の眉を数瞬ひそめたのち答えた。
「そんな大げさなカンジじゃなくてさっ。なんか、励みに気づいた、みたいなっ?」
「ほう? 励みとな」
「……あーあ、シンタローってばぜ~んぜんピンと来てないじゃん」
「まぁまぁ、どんな励みなんだ?」
「それはフツーに鈍感っ。自分の胸に聞いてくださーい」
そう言い残して彼女はミツコ先生の案内通りに女子更衣室へさっさと入ってしまった。
実習の準備として体験生は調理服に、同伴者も調理師科で用意した抜け毛対策の帽子を身に着ける必要があるらしい。
かくして着替えを終えた僕たちは調理実習室に集まる。
「あらまぁサイズギリギリじゃないかしら。どう日乃実ちゃん、変な感じしないかしら?」
僕は日乃実ちゃんの格好を見やる。
テレビなんかでよく目にする――僕の場合は取材で――真っ白い洋物調理服に身を包み、赤のスカーフで首を隠している。
しかし。その装いうんぬんよりも、印象的なある事実に目が向いてしまう。
「日乃実ちゃん。これはちょっと、どうだ?」
調理師科は男子ばかりの学科らしく、女子である日乃実ちゃんの背丈では服のサイズが明らかに大きすぎたのだ。
袖と丈は捲り上げられ、腹回りや端々は少々ダボついている。
スカーフも巻くというより、小さな肩幅を目いっぱい使って積載している風に見える。馬子にも衣装。とは言い難かった。
「はいそこシンタロー、いま失礼なこと考えたっ」
「ぐっ。そのようなことは、決して……」
「あら、じゃあワタクシもっと小さめのを探してこようかしら?」
いやいや、大丈夫だよっ、ですっ。と日乃実ちゃんが止める。
日乃実ちゃんに限って遠慮するわけもないから、きっと調理に支障はないという判断だ。
「ごめんなさいな。ワタクシついお節介を」
そういうミツコ先生は、日乃実ちゃんと同じ調理服を纏っているはずなのに食堂のおばちゃん感が拭えなかった。
服のことでややあってから、それではとミツコ先生はテーマであるチャーハンのレクチャーを始める。いちおう僕も、日乃実ちゃんの隣で話を聞くことにした。
いくつか決め事があるらしい。
その一。使う野菜の切り方や調理法は勝手にアレンジしないこと。これは体験生の調理手際の良さを推し量るためのルール。いわばレギュレーションらしい。
その二。味付けの加減は自由にしてよいこと。体験生に料理の醍醐味を文字通り体験して欲しいから、とのこと。
その三。楽しくやりましょうね。お兄さんも、もっとそばで見守っていただいて良いのよ。とのことなので遠慮なく。
「ハイ! 私、がんばります!」
説明を一通り聞き終えた日乃実ちゃんは、やるぞと声を上げて調理手順に目を落とす。
(………………?)
その返事には若干の気負い成分が含まれているように聞こえた。
気のせいかとも考えたが、レシピを持つ彼女の手は小刻みに震えている。
口では平気だと言っていたけど、全く緊張しないなんてことはやっぱりありえないだろう。
「気が散るようなら、僕はなるべく離れてようか?」
日乃実ちゃんに思う存分腕を振るってもらうためにできる僕の、せめてもの提言だったけど。
「へ? んーん別に、近くでも気にしないよっ」
いつもの何気ない笑みで言われた。その言葉自体に嘘はないだろう。
だけど彼女の平静さが表面的なものでしかないことは、実際に顔を合わせて二日目の僕ですらわかった。
「そっか。それなら遠慮なく、ここらへんで見てるから」
結局、僕は彼女の調理の邪魔にならない程度の距離から見守ることにした。
……今のところ、僕は彼女に何もしてあげられないてないな。
今日、不安でトイレに何度も駆け込む彼女に、僕は気の利いた言葉を一つくらいはかけてあげられていただろうか。
そこそこ参っていただろうに、それでも本人は一人の力で立ち上がって教室へ戻ってきた。
そしてその後、当人からも気にしなくていいと告げられてしまった。
歯痒かった。昨晩、一人で覚悟を決めに来た彼女のために自分にできることをしたいと、そう決めたはずだったのに。
日乃実ちゃんは一つ深呼吸を置いて、チャーハンの具材を手に取り、包丁の刃をサクと入れていく。
調理が始まってしまえば、もはや僕にできることはない。
そして日乃実ちゃんは。
緊張こそすれ、調理場の彼女は堂々としているように見えた。
今はただ、僕の助けなど必要ないくらいに。
数ある教室のうち、僕たちは調理師科が保有している講義室で学科説明会の真っ最中だった。
講義室とは言っても、僕たちが座っているのはあの学生時代特有の風情ある木目調の机とイスではない。
白い長テーブルと前後にしか動かないイスは、どちらかと言えばオフィスを連想させる。
向かって正面にあるはずの黒板はなく、代わりにホワイトボードが取り付けられていた。
中学校の教室と比べているのか、日乃実ちゃんは様相の違いに「木じゃない。すごっ。広っ」と呟く。
が、どうしたことか、僕の部屋に上がったときより反応は鈍く、たったそれだけリアクションを済ませたあとは大人しく座してしまった。
今日の彼女は朝ご飯に昨晩のカレーの残りを食べ(やはり山盛り)、部屋を出発した――あたりでだんだんと大人しくなっていき――やがて説明会が始まる頃には、ガチガチに震える指で学科資料のページをめくるに至った。
ぱっと見でもわかるが、要するに。
あの日乃実ちゃんが緊張しているのだ。
「――――学科説明は以上になります。では10分休憩を挟んだのち体験授業に移りますので、担当の教員が来るまで今しばらくお待ちください」
説明を終えて補助員が教室を後にしたそのとき。
「すぅぅーーー……っふぅーーー」
ただならぬ深呼吸が聞こえる。
「このあと体験授業だって、行けそうかいね?」
「チャーハンづくりでしょ。よ、余裕ヨユー」
余裕ならばなぜ目を泳がせるのか。
この調理師科のオープンキャンパスの段取りは三工程だ。
一つは今しがた終わった学科説明会。
二つ目に昼食を兼ねたチャーハンづくり体験実習。
最後に質疑応答。という流れなので、日乃実ちゃんたち体験生はこれから調理実習室で実際に手を動かす予定なのだ。
が、当の日乃実ちゃんはというと。
「私……ちょっとトイレに」
ふむ。着いてから四回目の花摘みか。心配にもなる。
「う、うるさいっ女の子の用足しの回数なんか数えんなっ、シンタローのデリカシーなしヤローっ! 行ってくるっ」
今はとにかくコンディションが良くないらしい。無論、緊張から来る不調なのは言うまでもない。
「先生には僕から伝えとくから、ゆっくりでいいぞ」
「そ、そんなにこもらないしぃっ!」
いや、結果的に彼女はそんなにこもった。
彼女がトイレにこもる間に、在校生や学科の教員がぞろぞろと教室に入って来る。
マンツーマン指導らしく、他の体験生たちは挨拶を交わしだすが、依然として日乃実ちゃんは花摘みから帰ってこない。
「どうもはじめまして~、本日担当のミツコと申します~。お兄さんが今日の生徒さん……ではないですわよね?」
口に手を当ててオホホホ、なんて笑い出しそうなミツコという教員が日乃実ちゃんの担当らしい。
四十代後半の僕を「お兄さん」と呼ぶので……五十代くらいだろうか。少々恰幅の良い、いかにもマダム風なおばあさま先生だ。
「島慎太郎です。今日はどうもよろしくお願いします。で、すみませんがうちの娘は……というか娘でもないんですけど、いまトイレにいってましてね」
「あらまぁ~そうでしたか。じゃあ実習室へはワタクシたちだけ後からついて行くとしましょ。ゆっくりでも全然大丈夫ですから~」
他の体験生と担当者が続々と教室を出ていく中、僕はミツコ先生と二人ここに取り残されてしまった。
「いや、すいません。日乃実ちゃんどうも緊張してるっぽくて」
「そういう子も時々いますのよ。ワタクシどもも慣れてますからご心配なさらず。それはそうと――――」
ミツコ先生が思いついたように何か――名簿だろうか――のページを繰る。
「苗字が違いますのね。お兄さんは親御さんではなく、お義兄さんとかですの?」
「ああそれ、実は」
「お待たせしましたー!」
無遠慮なくらいに威勢の良い声が教室に響く。先ほどまでの大人しさはどこへやら、僕たちを待たせた日乃実ちゃんはテヘとおどけつつ駆け足で教室にやってきた。
「お待たせしました! 計屋日乃実、調理師志望です! 趣味はお料理、特技はお料理、夢は調理師!」
妙に聞き覚えのある挨拶と右手で額にビシッと三角を形作る敬礼。
「今日はよろしくお願いしまっす、先生」
「あら~元気が良くておばちゃんもなんだか嬉しいわねぇ。よろしくね日乃実ちゃん」
それまで「ワタクシ」だった一人称が孫を前にしたかのように「おばちゃん」に変わる。
ミツコ先生のおおらかさに安心したのだろうか、日乃実ちゃんの表情は普段彼女がしているみたいにニヒっと崩れる。そのカオにさっきまでの堅苦しさはなかった。
いや、思い返せば「お待たせしました」の時点で彼女の緊張は手品みたいに消えていた気がする。花摘みのおかげですっかり持ち直したらしく、少し安心する。
挨拶が済んだところで、ミツコ先生の案内の下、僕たちは調理実習室に向かう、その道中。
「緊張することないのよ~チャーハンづくりって言っても、レシピとかはそばに書いてあるし、ね?」
「ありがとミツコセンセ。でもダイジョーブッ! 私、いまならナニ作れって言われてもいけそうだよっ、ですっ」
日乃実ちゃん、敬語が危うい。
「あら本当~。でもわかんないところはなん~でもおばちゃんを使ってくれていいんだからね?」
意気揚々と脇をしめて両こぶしを握る。日乃実ちゃんの気合十分なポーズを見て僕は「調子を取り戻したかな」なんて心中で独りごちた。
「覚悟が決まったんだ?」
「へ? ぅう~むぅ……覚悟というか」
彼女は言い淀み、きれいな形の眉を数瞬ひそめたのち答えた。
「そんな大げさなカンジじゃなくてさっ。なんか、励みに気づいた、みたいなっ?」
「ほう? 励みとな」
「……あーあ、シンタローってばぜ~んぜんピンと来てないじゃん」
「まぁまぁ、どんな励みなんだ?」
「それはフツーに鈍感っ。自分の胸に聞いてくださーい」
そう言い残して彼女はミツコ先生の案内通りに女子更衣室へさっさと入ってしまった。
実習の準備として体験生は調理服に、同伴者も調理師科で用意した抜け毛対策の帽子を身に着ける必要があるらしい。
かくして着替えを終えた僕たちは調理実習室に集まる。
「あらまぁサイズギリギリじゃないかしら。どう日乃実ちゃん、変な感じしないかしら?」
僕は日乃実ちゃんの格好を見やる。
テレビなんかでよく目にする――僕の場合は取材で――真っ白い洋物調理服に身を包み、赤のスカーフで首を隠している。
しかし。その装いうんぬんよりも、印象的なある事実に目が向いてしまう。
「日乃実ちゃん。これはちょっと、どうだ?」
調理師科は男子ばかりの学科らしく、女子である日乃実ちゃんの背丈では服のサイズが明らかに大きすぎたのだ。
袖と丈は捲り上げられ、腹回りや端々は少々ダボついている。
スカーフも巻くというより、小さな肩幅を目いっぱい使って積載している風に見える。馬子にも衣装。とは言い難かった。
「はいそこシンタロー、いま失礼なこと考えたっ」
「ぐっ。そのようなことは、決して……」
「あら、じゃあワタクシもっと小さめのを探してこようかしら?」
いやいや、大丈夫だよっ、ですっ。と日乃実ちゃんが止める。
日乃実ちゃんに限って遠慮するわけもないから、きっと調理に支障はないという判断だ。
「ごめんなさいな。ワタクシついお節介を」
そういうミツコ先生は、日乃実ちゃんと同じ調理服を纏っているはずなのに食堂のおばちゃん感が拭えなかった。
服のことでややあってから、それではとミツコ先生はテーマであるチャーハンのレクチャーを始める。いちおう僕も、日乃実ちゃんの隣で話を聞くことにした。
いくつか決め事があるらしい。
その一。使う野菜の切り方や調理法は勝手にアレンジしないこと。これは体験生の調理手際の良さを推し量るためのルール。いわばレギュレーションらしい。
その二。味付けの加減は自由にしてよいこと。体験生に料理の醍醐味を文字通り体験して欲しいから、とのこと。
その三。楽しくやりましょうね。お兄さんも、もっとそばで見守っていただいて良いのよ。とのことなので遠慮なく。
「ハイ! 私、がんばります!」
説明を一通り聞き終えた日乃実ちゃんは、やるぞと声を上げて調理手順に目を落とす。
(………………?)
その返事には若干の気負い成分が含まれているように聞こえた。
気のせいかとも考えたが、レシピを持つ彼女の手は小刻みに震えている。
口では平気だと言っていたけど、全く緊張しないなんてことはやっぱりありえないだろう。
「気が散るようなら、僕はなるべく離れてようか?」
日乃実ちゃんに思う存分腕を振るってもらうためにできる僕の、せめてもの提言だったけど。
「へ? んーん別に、近くでも気にしないよっ」
いつもの何気ない笑みで言われた。その言葉自体に嘘はないだろう。
だけど彼女の平静さが表面的なものでしかないことは、実際に顔を合わせて二日目の僕ですらわかった。
「そっか。それなら遠慮なく、ここらへんで見てるから」
結局、僕は彼女の調理の邪魔にならない程度の距離から見守ることにした。
……今のところ、僕は彼女に何もしてあげられないてないな。
今日、不安でトイレに何度も駆け込む彼女に、僕は気の利いた言葉を一つくらいはかけてあげられていただろうか。
そこそこ参っていただろうに、それでも本人は一人の力で立ち上がって教室へ戻ってきた。
そしてその後、当人からも気にしなくていいと告げられてしまった。
歯痒かった。昨晩、一人で覚悟を決めに来た彼女のために自分にできることをしたいと、そう決めたはずだったのに。
日乃実ちゃんは一つ深呼吸を置いて、チャーハンの具材を手に取り、包丁の刃をサクと入れていく。
調理が始まってしまえば、もはや僕にできることはない。
そして日乃実ちゃんは。
緊張こそすれ、調理場の彼女は堂々としているように見えた。
今はただ、僕の助けなど必要ないくらいに。
0
あなたにおすすめの小説
【完結】年収三百万円台のアラサー社畜と総資産三億円以上の仮想通貨「億り人」JKが湾岸タワーマンションで同棲したら
瀬々良木 清
ライト文芸
主人公・宮本剛は、都内で働くごく普通の営業系サラリーマン。いわゆる社畜。
タワーマンションの聖地・豊洲にあるオフィスへ通勤しながらも、自分の給料では絶対に買えない高級マンションたちを見上げながら、夢のない毎日を送っていた。
しかしある日、会社の近所で苦しそうにうずくまる女子高生・常磐理瀬と出会う。理瀬は女子高生ながら仮想通貨への投資で『億り人』となった天才少女だった。
剛の何百倍もの資産を持ち、しかし心はまだ未完成な女子高生である理瀬と、日に日に心が枯れてゆくと感じるアラサー社畜剛が織りなす、ちぐはぐなラブコメディ。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】
田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。
俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。
「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」
そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。
「あの...相手の人の名前は?」
「...汐崎真凛様...という方ですね」
その名前には心当たりがあった。
天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。
こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。
【完結】幼馴染にフラれて異世界ハーレム風呂で優しく癒されてますが、好感度アップに未練タラタラなのが役立ってるとは気付かず、世界を救いました。
三矢さくら
ファンタジー
【本編完結】⭐︎気分どん底スタート、あとはアガるだけの異世界純情ハーレム&バトルファンタジー⭐︎
長年思い続けた幼馴染にフラれたショックで目の前が全部真っ白になったと思ったら、これ異世界召喚ですか!?
しかも、フラれたばかりのダダ凹みなのに、まさかのハーレム展開。まったくそんな気分じゃないのに、それが『シキタリ』と言われては断りにくい。毎日混浴ですか。そうですか。赤面しますよ。
ただ、召喚されたお城は、落城寸前の風前の灯火。伝説の『マレビト』として召喚された俺、百海勇吾(18)は、城主代行を任されて、城に襲い掛かる謎のバケモノたちに立ち向かうことに。
といっても、発現するらしいチートは使えないし、お城に唯一いた呪術師の第4王女様は召喚の呪術の影響で、眠りっ放し。
とにかく、俺を取り囲んでる女子たちと、お城の皆さんの気持ちをまとめて闘うしかない!
フラれたばかりで、そんな気分じゃないんだけどなぁ!
むっつり金持ち高校生、巨乳美少女たちに囲まれて学園ハーレム
ピコサイクス
青春
顔は普通、性格も地味。
けれど実は金持ちな高校一年生――俺、朝倉健斗。
学校では埋もれキャラのはずなのに、なぜか周りは巨乳美女ばかり!?
大学生の家庭教師、年上メイド、同級生ギャルに清楚系美少女……。
真面目な御曹司を演じつつ、内心はむっつりスケベ。
妻に不倫され間男にクビ宣告された俺、宝くじ10億円当たって防音タワマンでバ美肉VTuberデビューしたら人生爆逆転
小林一咲
ライト文芸
不倫妻に捨てられ、会社もクビ。
人生の底に落ちたアラフォー社畜・恩塚聖士は、偶然買った宝くじで“非課税10億円”を当ててしまう。
防音タワマン、最強機材、そしてバ美肉VTuber「姫宮みこと」として新たな人生が始まる。
どん底からの逆転劇は、やがて裏切った者たちの運命も巻き込んでいく――。
無能烙印押された貧乏準男爵家三男は、『握手スキル』で成り上がる!~外れスキル?握手スキルこそ、最強のスキルなんです!
飼猫タマ
ファンタジー
貧乏準男爵家の三男トト・カスタネット(妾の子)は、13歳の誕生日に貴族では有り得ない『握手』スキルという、握手すると人の名前が解るだけの、全く使えないスキルを女神様から授かる。
貴族は、攻撃的なスキルを授かるものという頭が固い厳格な父親からは、それ以来、実の息子とは扱われず、自分の本当の母親ではない本妻からは、嫌がらせの井戸掘りばかりさせられる毎日。
だが、しかし、『握手』スキルには、有り得ない秘密があったのだ。
なんと、ただ、人と握手するだけで、付随スキルが無限にゲットできちゃう。
その付随スキルにより、今までトト・カスタネットの事を、無能と見下してた奴らを無意識下にザマーしまくる痛快物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる