鷹村商事の恋模様

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「ふーっ!今日もお勤めご苦労様でした」
お風呂上りに、飲むこの1本が至福!
「もう、このお弁当マジで優秀だわ。本当に、うちの食堂は質が良い」
本当は昼しか展開してないはずだけど、残ったおかずやその日の食材でお弁当まで作ってくれる。

定食も350円と言う驚異の値段なのに、このお弁当に至っては“残り物”というくくりなので何と驚きの100円だ。
本物のワンコイン。
ただ、毎日出る物じゃない。
それに、お弁当のことは、全ての社員が知っているものじゃない。

これは、古い社員にしか通じない。
今でいう、“悪しき風習”というやつだろう。
今時の子達には、そこまで認められていない“義理”や“人情”とかいうもの。

だけどそれで、私は支えられてる。
河合 春子。
5月1日の今日を以て、本日めでたく45歳になりました。

鷹村商事の総務課に勤務し、今年で勤続年数23年になる。
シングルマザーで、今の市営住宅は離婚前から住んでいる。
それが、私の人生。

「お弁当、全部は食べられないからなぁ」
これも日課になった。
お弁当の中身を見て、食べる食べないを決める作業。
明日に食べるものは、朝食に回して…。

食べない物は、冷凍に回す。
白米も、食べきれないから、毎回半分以上は冷凍だ。
お弁当がない日に、それを解凍して食べるのだ。
1人なら、それで十分だ。

「誕生日、おめでとう!そして、メーデーにありがとう!」
この日は、いつからだろう?
副社長が、全社員にゴディバを買ってくれる。

メーデーだからって。
こんな会社ないだろうなぁ。
それが、いつからか、私への誕生日プレゼントになった。

「贅沢なもんだね」
だけど、その位で丁度良い。
「本当に、スーパードライとお給料は裏切らない!」

今の私の支え。
あの頃は、こんな未来があるなんて想像もしてなかった。
結婚した当初の、あのキラキラした時間。

それは、10年前に終わりを迎えた。
娘が10歳の誕生日の日に。
それは、元旦那とのすれ違いの末の決断だった。

今年、娘は20歳になる。
成人式だ。
振袖も、着付けも姉がやってくれる。
娘が嫌がらなければ、私も参加する予定だ。

娘は、離婚と同時に家を出た。
元旦那と共にではなく、姉夫婦の元に行った。
住民権を移して、姉夫婦の家で住み始めた。
不思議な子だ。

インターナショナルスクールに通うために。
姉夫婦の家からの方が通うのに便利という理由で。
英語の勉強をしたいからという、とても優秀な言い訳動機を元に。
娘は、元旦那に似て勉強が好きだったようだ。

私だけが、ここに住んでいる理由。
それも、もう意味も何もない。
2LDKもある間取りも、もう私には必要ない。

「これを機に、もう少し狭い部屋に引っ越すか…」
終活というものや、ミニマリストというもの、断捨離なんかもそう。
私の荷物は、ほとんどない。

残ってる2つの部屋は、元旦那と娘のものだ。
私の部屋は、元々ない。
なのに、何で今まで残してたんだろ?

この家に戻って来ることなんて、この10年間1回もなかったのに。
あ、いやあったのか。
私がいたら気まずいだろうと、私が留守の日を伝えて必要な物を取りに来たら良いと伝えていた。
最初の5年位は。

だけど、あまり部屋の状況は変わってなかった。
つまりは、娘も元旦那も来ていなかったのだろう。
この家に、未練などないということだ。
だから、私は今日誕生日に決めよう。

「私も、前に進まないと」
そうだ。
会社の若い子が、どんどんと新しい世界に旅立つのを見送って来た。
今も進行形で、新しいことに向かっている。

おばあちゃんは、羨ましいのだ。
だけど、留まることが正解だと思っていた私には動く理由がなかった。
私はもう1人なのに。

そうだ。
私は、これから・・・・も1人だ。
だから、娘と元旦那にメッセージを送る。
それぞれの部屋に残っている物を、要不要で分けてくれと。

不要品の処分は私がするから。
休みの日にすることがなくて、暇なんだし。
要る物を部屋から持って行ってくれるだけでも良い。

私の旅立ちのためにも。
リサイクルショップに持って行くのも、メルカリに出すのも。
ゴミ処理場に持って行くのも。
全てが楽しそうだ。

そうだ、新しいことを始めるのはこうもワクワクするはずだった。
缶ビール片手に、ネットを立ち上げる。
今は、ワンルームでも大分住みやすいはずだ。

会社の通勤圏内で、通いやすい賃貸の。
ここも、元旦那が申し込んで当たるわけないと思ってたのに、当たって格安で住めることが大当たりだと思った。
だからだろうか?
今でも未練があるのは。

あの頃の生活に戻れるわけでもないのに。
しがみついているのだろうか?
私から、元旦那に言い出したのに。
離婚の話を。

私と元旦那のことなんて、特筆することはない。
3歳年上の、大学時代の先輩。
サークル?同好会?の時に知り合って、付き合い始めた。
会社も同じで24歳で結婚し、25歳には娘が産まれた。
それで、離婚したのは35歳の時。

何か、急に来たんだっけ。
娘の反抗期と、元旦那の忙しさと。
そこに、元々所属していた広報課での勤務が少しずつ重なって。

勤務量が増えて、苦しくなって。
やっても終わらない業務に、家のこととかが煩わしくなって。
そこに協力的ではない元旦那。
彼はずっと営業課だ。
結婚してから、積み重なった物が少しずつ高くなっていって。

『言ってるのに』
『お願いしてるのに』
『話してるのに』
『何で言っても分かってくれないの』

急に弾けた。
壁が、一気になくなった。
ある日、突然何もかもが嫌になった。
それが私が35歳を迎えた年、娘の誕生日のことだった。

私の誕生日から、ピッタリ半年後のこと。
娘の小さな一言だった。
『また、ママだけ?』

ママだけで、ごめん。
寂しいよね。
ママがたくさんお祝いするから。
パパの分もママがいるよ。
パパにもいて欲しかったね。
仕方ないじゃない。
パパもいたかったんだって言ってたよ。
パパは仕事の方が大事なんだって。
何で、私にそんなこと言うの。
じゃあ、今すぐ電話でもかけたら良いじゃない。

いくつもの言葉が浮かんで、でも言えなくて。
ここまで準備したことも、仕事の合間を縫って準備した誕生会のことも。
何もかもが、馬鹿みたいに感じた。

そしたら、急に全部が嫌になってしまったのだ。
娘ごと。
あの時の感情は、きっと忘れない。
今でも、鮮明に覚えている。

あの日に、きっと私は“母親”を放棄した。
姉夫婦にヘルプを出して、私は具合いが悪くなったことにしてそのまま娘の誕生日に『おめでとう』も言わないまま布団に横になった。

そうしたら、そのまま少しの後に帰って来た元旦那に、離婚のことを切り出していた。
それからは、あっという間だった。
私は、壊れてしまったのだろう。
多分。

あの頃は、思わなかったこと。
きっと、あのまま閉鎖空間にいたら、きっと私も娘も共倒れをしてた。
そう感じるから。
これで良いのだ。

それでも、10年と言う長いのか短いのか分からない年月で、私の家族は終わったのだから。
娘も元旦那も、さっぱりとしている。
理系とでも言うのか。

お互いに言いたいことを言う。
私もそのつもりだった。
娘と元旦那に、言っているつもりだった。

だけど、それはやっぱり“つもり”だったのだ。
『お願いすること』が『やってくれること』とイコールではないと気付いた時。
元旦那が口にする、『これから気を付ける』と言う言葉は、次に私に言われるまで同じことがしばらく続くよという意味なこと。

「やめやめ」
考えても仕方がないこと。
それこそ、たらればなんて意味がない。
私が1人でいることが全部だ。

「チョコ食べて、歯を磨いてゆっくりと寝よ」
それで、私の1日が終わる。
裏切らないスーパードライと、共に過ごす私の夜はひっそりと幕を閉じた。


「おはようございます」
フロアに入る時に、声をかける。
ちらほらと帰って来る返事。
総務課は、会社の“何でも屋”だ。
今日の私の仕事は、頼まれてた物品を各フロアに届けること。

とりあえず、そんなことだろうか?
「おはようございます!」
飛び込んできたのは、1人娘がいる後輩社員だ。
娘さんの送りをして来たのだろうか?

「大丈夫?」
「あ、河合さんすみません。騒がしかったですよね?」
「全然気にならないよ?」
「良かった」

「ところで、昨日のチョコ。娘さんにあげたの?」
去年のメーデーの後、娘さんがゴディバを気に入ったと言ってたけど。
「あー。折角の高級チョコなのに、私の分と主人の分を総取りして、『これこれ』とか、理解した風を装ってましたね。本当におませな娘で。私と主人1個ずつですよ?食べた数。ま、それであの子が喜ぶなら良いんですけど…。もらったものなんで」

そう言いながら、彼女の表情は柔らかい。
羨ましい。
“母”とはこういうことを言うのだろう。

娘がどんな状態でも、ありのままを受け入れるような。
年下なのに、それが出来ている彼女はしっかりと母の顔をしている。
私なんかとは違う。
「チョコの味が分かるって、面白いわね」

「パッケージとか、私達の会話で覚えているみたいで。それで、今度小さなドッキリをしようかと…。主人が言い出して。ボーナスが出たら、同じチョコを買って、入れ物だけ入れ替えてみよっかって」
「相変わらず、小沢君は面白いことを考えるわね」
彼女の旦那さんは、私が元所属していた広報課に異動した。
娘さんの出産を機に。

うちの元旦那とは全然違う。
元々は営業課だったのに。
奥さんと娘さんのために、異動したのだろう。
ユニークな後輩が増えて、その家族も増えて…。

「毎日、楽しそうね?」
「本当に、種明かしした娘が不貞腐れても、気付いても成長だって」
この、小沢夫婦はお互いに同じ意識なのだろう。
共有性が高いとでも言うのか。

「逆に、ゴディバの箱に市販のチョコを入れても『おいしい』って言うのか、とか?」
「あー、河合さん頭良い。それもやってみたい」
無邪気な彼女に、少しだけ胸の奥がチリチリする。

若くて、家族仲が良くて、全てが輝いてるような生活を送る彼女に。
これは、嫉妬だろうか?
それとも、ただの後悔だろうか?

「さて、じゃあ私は今日のお仕事なので、各課への配達員してきますね?」
そろそろ、課の人間も増えるだろう。
早く行き過ぎても、物品の納品にサインをもらえないから。
少しだけ様子見をして、会社の各フロアに移動する。

「まずは、重い物と危険物からね」
電球の発注は、何でか企画課。
とりあえず、届けよう。

カートを押しながら、ゆっくりと移動する。
すれ違う社員に、時々声をかけながら。
「失礼します、総務課です。電球のお届けに来ました」
私の声に、企画課にいた岡吉さんが反応する。

本当に、気が利く子。
だから、石鍋なんかには勿体ないって言ってるのに。
「お疲れ様です、河合さんがフロア巡りって珍しいですね?」
岡吉さんは、電球の型番とサイズ、そして個数を数えてから受取書にサインした。

「そう?たまにはね、おばあちゃんも時々動かないと」
「そんな、まだまだお若いですよ?」
もう45歳なのに?
「ありがとう、お世辞でも嬉しいわ」
「もう、河合さんは!」

顔見知りの人がいると落ち着く。
これは、また悪しき風習かしら?
いつからか、自分が老害になることを恐れていたけれど。
こうやって気を付けていれば、どうにかなるものなのかしら?

カートを押しながら、小さいのに重たいボルトを届けに広報課に向かう。
「あれ?春子さんじゃないですか?お疲れ様です!」
「あら?高橋さん」

この子は、こんな私にも気さくに話しかけてくれる。
姉夫婦のところにいる、姪のようだわ。
「おばあちゃん便ですよ?」
「またまた!春子さん、ウケるんだけど。写メ撮って良い?」
言いながら、撮るのはこの子の若さ故だろうか。

本当に、躊躇とか躊躇いがないのよね?
今時の子って。
すごいことだわ。

「あのね?高橋さん?」
「光って呼んでくださいよ!私だけ春子さんなんて呼ぶの失礼過ぎじゃないですか?」
失礼なことと、気安いことは違う話をしたことがある。

この子は、好きな人程無礼になると言っていた。
だけど、勝手に写真を撮るのは、いけないんじゃないのかしら?
怒る所かしら?
「プライバシーの侵害よ?」

「大丈夫ですって、春子さんは背筋が伸びていて綺麗なんで!みんなにも、お手本にしてほしい姿勢!それに顔はスタンプしたら、意外にバレないもんですよ」
そう言いながら、高橋さんはスマホを操作している。

「というか、春子さん?私の更新、ちゃんと見てくれてます?」
「…見てるわよ」
「嘘だー。まとめてしか見てないの知ってるんですからね」
「でも、見てることは見てるじゃないの?」

「本当に、春子さんはマイペースだな」
言いながら、ボルトの受取書にサインをする器用な子。
一応商品は見ているけれど、岡吉さん程丁寧じゃない確認。
ま、確認するだけ良いけれど。

あら?これじゃ、あまりにも小姑かしら?
この子も、眩しい。
あまり、側にいると私の醜さが目立つほどに。
「はいはい、じゃあまたね?」

「えー、今度ごはんに行きましょうよ?」
「そうね、その内ね」
曖昧に返事をして広報課から出る。

次は、営業課だ。
大量のクリップと、コピー用紙。
プレゼン用かしら?

「失礼します」
「お疲れ様です」
「河合さん、お疲れ様です!」
静かに返事をしてくれたのが、真澄さん。
元気な方は、和田さんね。

この2人は営業事務をしているから、物品を渡しても良いでしょう?
「コピー用紙は、こっちなんです。もらいますね?真澄、サイン宜しく。A4パック、定番の再生紙、緑2セット」
「はい」

和田さんは、何でもないように5組になっている箱を2セット持ち上げた。
ちなみに、1組500枚だ。
つまり、500枚になっている紙の束を10袋分持ち上げてるのと同じこと。

「腕とか、腰とか大丈夫?」
「はい!このくらいなら!私、自己ベスト3セットなんで!」
和田さんの言葉に、唖然とする。
「若いって良いわね」

「若さだけじゃないですよ?」
真澄さんの、小さな声にハッとする。
この子も、いつも穏やかだ。
クリップのメーカーを確認し、箱の蓋を開ける真澄さん。

「はい、受取書です」
綺麗な文字でサインがされていた。
「…ありがとう」

各課を見て回るの、面白いかもしれないわね。
今度は、もっと積極的に外に出てみよう。
元旦那と会うかもしれないという心配は微塵も感じない。
どうしようという思いも、だ。

何故なら、円満離婚だったから。
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